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婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


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第031話 エレノア条項

 白い羊皮紙は、手に置いた瞬間、脈打った。


 普通の紙ではない。白の名簿の川から生まれた契約紙だ。ここに書いたものは、王宮の布告よりも深く名の流れへ刻まれる。


 だから、間違えれば取り返しがつかない。


 フェルゼンは黒い名札を扉の膜へ押し当てている。膜はひび割れ、白の名簿の川へ黒い線が入り込もうとしていた。


「早く書け、リネア!」


 ノア様の声。


 焦りがある。


 でも、焦って書いてはいけない。


 わたしは息を吸った。


 前世の窓口で、何度も言われたことがある。急いでいるときほど、氏名、生年月日、住所を確認する。紙は人の生活を変える。だから、急ぐときほど丁寧に。


 わたしは筆を置いた。


「第一条。名は、本人が名乗り、他者が呼び、共同体が認めることで成立する」


 文字が白く光る。


「第二条。いかなる王権、家権、婚姻、相続、非常時も、本人の名を本人同意なく譲渡、消去、上書きしてはならない」


 白の川が揺れた。


 外廷から、声が届く。


 拒否します。拒否する。自分の名を守る。


 その声が、文字を支える。


「第三条。本人が署名できない場合、事前自署控え、本人を呼んだ者の証言、第三者名簿師の確認を必要とする。代理は本人の名を守るためにのみ許され、家、国、王宮、名簿院の利益のために用いてはならない」


 フェルゼンが叫ぶ。


「詭弁だ! 例外を置け! 国家非常時の例外を!」


「第四条。国家非常時であっても、名の強制譲渡は認めない。救済のための仮登録は、本人の回復または確認後に再審査する」


 ノア様がフェルゼンの杖を押し返している。


 膜のひびが広がる。


 セラの光がわたしのそばに来た。


「最後に、拒否の名を」


「拒否の名?」


「この条項の中心に、あなたの拒否を置く。そうしないと、白の名簿はただの規則として流れてしまう」


 わたしは胸元の名札を見た。


 エレノア。


 この名前は、わたしが奪われかけた名だ。母が守ってくれた名だ。王宮が鍵として欲しがった名だ。


 リネアとして書いた条項の中心に、エレノアの拒否を置く。


 それは、過去を消すことではない。


 過去を、次の人を守るものに変えることだ。


「第五条」


 わたしは書いた。


「かつてエレノアと名乗った者の拒否を、ここに記録する。この名は誰かを縛る鎖ではなく、名を奪われる者が拒否するための証とする」


 母の名札が光った。


「本条項を、エレノア条項と呼ぶ」


 その瞬間、白の名簿の川が大きく鳴った。


 扉の外で、フェルゼンが絶叫する。


「やめろ! 聖女名を拒否に使うな! その名は王国の鍵だ!」


「鍵です」


 わたしは振り返った。


「でも、扉を閉じ込めるためではなく、勝手に開けられないようにする鍵です」


 最後に署名欄が現れた。


 一つではない。


 複数の署名欄。


 リネア。ノア・アステル。王妃オレリア。王太子ユリウス。市民代表。兵士代表。救貧院代表。名簿院記録係。未成年者代表。


 白の名簿は、共同監査を求めている。


 わたしは自分の欄に署名した。


 リネア。


 その下に、小さく旧名の証として書く。


 旧名エレノアの拒否に基づく。


 旧名を書く手は震えた。


 でも、書いた瞬間、怖さが少し薄れた。


 もう奪われるための名ではない。わたしが使い道を決めた名だ。


 ノア様が署名する。


 ノア・アステル。


 彼の署名は少し乱れていた。それでも、確かだった。


 セラの光が兄の署名を見て微笑む。


「兄様、字が昔より硬い」


「セラ」


「でも、ちゃんと兄様の字」


 ノア様は泣きそうな顔で笑った。


 扉の外から、マルタの声が届いた。


「記録係マルタ・ヘイン、署名します!」


 どうやって署名するのかと思ったら、白の名簿の川に外廷の記録紙が浮かんできた。マルタの勢いのある文字が、署名欄へ結ばれる。


 グレン隊長。


 救貧院長エダ。


 トマ・ミエル。


 トマの署名は歪んでいたが、力強かった。未成年者代表として、本人と院長の確認付き。


 リリア・ベルレイン。


 彼女は貴族女性代表として署名した。ベルレイン家の父ではなく、リリア個人として。


 ユリウス殿下の署名は少し遅れて届いた。


 王太子としてではなく、ユリウス・アルク・レオナール個人名と王太子職印の両方で。


 王妃オレリアの署名も入る。


 白の羊皮紙が、すべての署名を受け取った。


 フェルゼンが膜を破った。


 黒い名札が白の川へ落ちる。


「私の名で上書きする!」


 彼の名前が黒い線となって広がろうとした。


 しかし、エレノア条項が光った。


 黒い線は、最初の条項に触れて止まる。


 名は本人が名乗り、他者が呼び、共同体が認めることで成立する。


 フェルゼンの名は、本人が名乗っている。けれど、他者がそれを支配の名として認めなかった。共同体が拒否した。


 黒い線が逆流する。


「なぜだ!」


「あなたの名前を、誰も王国総名簿の名として呼んでいません」


 わたしは言った。


「あなたは自分の名を、他人を消すために使った。白の名簿は、それを受け取らない」


 黒い名札が砕けた。


 フェルゼンの体から、名の糸がほどけていく。


 彼は慌てて自分の胸元を押さえた。


「私はフェルゼン侯爵だ! 王宮書記局顧問、白の名簿研究責任者、王国の」


 言葉が途中で詰まる。


 爵位や肩書きは出る。


 けれど、個人の名が薄くなっている。


 自分の名前を道具にしすぎた人間が、最後に自分の名の輪郭を失いかけている。


 ノア様が膜の向こうへ手を伸ばし、彼を引き戻した。


「死なせるな」


 わたしは驚いて彼を見た。


 ノア様は苦しそうに言った。


「名を奪われる苦しみを、罰として使いたくない。そうすれば、私たちも同じになる」


 その言葉に、セラが微笑んだ。


 わたしは頷いた。


 薄青い糸でフェルゼンの残った名を仮固定する。


 彼は床に崩れ落ちた。


 完全には消えていない。けれど、もう白の名簿へ触れる力はない。


 エレノア条項は、白の名簿の川に溶けていった。


 扉は閉じなかった。


 ただ、勝手には開けられない扉になった。


 白の名簿は、誰かの所有物ではなく、多くの署名に守られた記録へ変わった。


 セラの光が、少しずつ薄くなる。


「セラ様」


 わたしが呼ぶと、彼女は笑った。


「ありがとう、リネア。兄様をよろしく」


 ノア様が息を呑む。


「行くのか」


「消えるわけじゃないよ。白の名簿に、ちゃんといる。今度は閉じ込められているのではなく、自分の名前として」


「会えるのか」


「兄様が誰かを消さないで名を探すなら、たぶん。夢とか、書庫とか、名前を呼ぶ日に」


 曖昧で、優しい答えだった。


 ノア様は涙をこぼしながら頷いた。


「セラフィーナ・アステル」


「はい」


 彼が妹の名を呼ぶ。


 彼女が答える。


 その瞬間、白の名簿の川に、セラフィーナ・アステルという名が静かに刻まれた。


 死者でも、生者でもない。


 奪われた名としてではなく、守られた名として。


 白い光が収まると、わたしたちは地下書庫の床に立っていた。


 フェルゼンは倒れ、扉は静かに閉じている。


 外廷から、人々の名前を呼ぶ声がまだ聞こえていた。

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