表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/52

第029話 王宮地下書庫

 王宮地下書庫は、名簿院の閉架書庫よりも古かった。


 石壁には王国建国時代の紋章が刻まれ、天井は低く、空気は水のように冷たい。階段を降りるたび、外廷のざわめきが遠ざかり、代わりに紙をめくるような音が聞こえてくる。


 白い糸は壁の隙間を這い、奥へ奥へと伸びていた。


 女官長エリーズは、灯りを掲げながら言った。


「この先は、王族と王妃の許可がなければ入れない場所です。私は案内だけで、扉の内側へは入れません」


「十分です」


 ノア様が答える。


 彼の表情は硬い。


 セラの名札片がここで使われている可能性がある。妹の名を取り戻したい気持ちと、フェルゼンを止める責務。その両方が彼の中でぶつかっているのが分かった。


 わたしはそっと声をかけた。


「ノア様」


「何だ」


「一人で決めないでください」


 彼はわたしを見た。


 そして、ゆっくり頷いた。


「君もだ」


「はい」


 地下書庫の最奥には、白い扉があった。


 木でも金属でもない。羊皮紙を何千枚も重ねたような質感で、表面に無数の名前が薄く浮かんでは消えている。扉の中央には、空白の円があった。


 そこが鍵穴なのだろう。


 扉の前に、フェルゼン侯爵が立っていた。


 外廷にいたはずの彼が、どうやって先回りしたのか。おそらく身代わり名札か、地下通路を使ったのだろう。


 彼の手には、白い名札の束があった。


「遅かったですね」


「白紙病を止めなさい」


 わたしが言うと、フェルゼンは笑った。


「止めるために、ここへ来たのでしょう」


 ノア様が一歩前に出る。


「セラの名札を渡せ」


「兄というものは面白い。八年経ってもまだ妹の名に縛られている」


 フェルゼンは名札の束から一片を取り出した。


 セラフィーナ。


 完全ではない。けれど、以前見た破片よりはっきりしている。


 ノア様の息が止まる。


「返せ」


「白の名簿を開けば、返せるかもしれません」


「かもしれない?」


「名がどの程度残っているかによります。扉の向こうで再構成できれば、セラフィーナ嬢は記録上戻るでしょう」


「本人は」


「本人? 八年も前に消えた娘の肉体を気にするのですか」


 その言葉で、ノア様の顔が凍った。


 わたしは理解した。


 フェルゼンにとって、人間は名の器でしかない。セラ本人が生きているか、苦しんだか、家族が泣いたか。そんなことは関係ない。記録上戻れば、それで成功なのだ。


「白の名簿は、記録を戻す道具ではありません」


 わたしは言った。


「人を戻すためのものです」


「同じことだ」


「違います」


 わたしは胸元の名札を取り出した。


 エレノアの刺繍が淡く光る。


 扉が反応した。


 空白の円に、白い光が揺れる。


 フェルゼンの目が輝いた。


「やはり、あなたが鍵だ」


「わたし一人では開けません」


 そう感じた。


 扉はわたしの旧名に反応している。でも、それだけではない。リネアとして呼ばれた声、自署名日の記録、母の拒否印、ノア様のセラへの記憶。それらが扉の前で糸のように絡んでいる。


 白の名簿は、名そのものではなく、名を守る意志に反応する。


「ノア様。扉の条件を読めますか」


 彼は扉の古語を見た。


「三つの線を結べ、とある」


「三つ?」


「与えられた名。選んだ名。呼び返す名」


 与えられた名は、エレノア。


 選んだ名は、リネア。


 呼び返す名は?


 ノア様が言った。


「誰かに呼ばれる必要がある。君をリネアとして、そしてエレノアであった者として認める声が」


 その声は外廷から届くのだろうか。


 遠くで人々が名前を唱える響きが、微かに聞こえる。リネア。リネア。トマの声、マルタの声、リリアの声。白い扉が震える。


 けれど、フェルゼンが名札の束を掲げた。


「ならば、呼び返す名をこちらで用意しましょう」


 彼は名札を扉へ押し当てた。


 子どもたちから奪った名札の写し。名売買で集めた弱い名。セラの名札片。それらが白い扉に吸い込まれそうになる。


 扉が苦しむように軋んだ。


「やめなさい!」


 わたしは薄青い糸を投げた。


 名札の束に絡め、引き戻す。


 フェルゼンは杖で糸を切ろうとした。ノア様がその前に立ち、杖を払う。


 地下書庫に鋭い音が響く。


「リネア、扉へ!」


「でも」


「私は止める」


 ノア様とフェルゼンが対峙する。


 わたしは扉の前に立った。


 胸元の名札。


 母の紙片。


 トマが書いたリネアの控え。


 全部を手に持つ。


「エレノア」


 わたしは自分の古い名を呼んだ。


 その名は痛みを伴っていた。父に奪われかけた名。王太子妃候補として背負わされた名。けれど、母が縫ってくれた名でもある。


「リネア」


 次に、新しい名を呼ぶ。


 自分で選び、仕事で結び、人々に呼ばれた名。


 扉の空白が光る。


 最後の線。


 呼び返す名。


 遠くから、声が届いた。


「リネア!」


 トマ。


「リネア様!」


 リリア。


「修復者リネア殿!」


 グレン隊長。


「名簿院職員リネア!」


 マルタ。


 そして、隣から。


「リネア」


 ノア様の声。


 静かで、確かな声だった。


 扉が開いた。


 白い光が、地下書庫を満たした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ