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婚約者だけでなく名前まで妹に譲れと言われたので、家系図から私を消しました ~私を忘れた王宮は、私が結んだ祝福まで失う~  作者: 小竹X


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第013話 ノアの古傷

 その夜、ノア様は初めて自分の話をしてくれた。


 名簿院の上階にある小さな応接室だった。窓の外には王都の灯りが見える。机の上には、マルタが置いていった温かい茶と、硬めの焼き菓子があった。


 北門の毛布を膝にかけたわたしは、黙って彼の言葉を待った。


「セラは、私より六つ下だった」


 ノア様は窓の外を見たまま話し始めた。


「体が弱くて、よく名簿院の中庭で本を読んでいた。名簿術は不得意だったが、人の名前を覚えるのが好きだった。受付に来た子どもの名を、一度聞いただけで忘れなかった」


「優しい方だったのですね」


「優しかった。だが、それだけではなかった。嫌なことは嫌と言う子だった」


 彼の口元に、少しだけ懐かしさが浮かんだ。


「八年前、王宮は白の名簿の扉を開こうとしていた。当時は今より秘密裏だった。聖女名を持つ者を何人も集め、名の響きや祝福の強さを試した」


「セラ様も?」


「セラの正式名は、セラフィーナ・アステル。古語で“白い名を照らす者”という意味がある。王宮はそれを鍵の一部と考えた」


 嫌な予感がした。


「本人の同意は」


「表向きはあった。だが、十二歳の子が王家から頼まれて、断れると思うか」


 わたしは答えられなかった。


 わたしも幼いころ、王太子妃候補に選ばれた。名誉だと言われた。家の誇りだと言われた。断るという選択肢があることすら知らなかった。


「実験は失敗した。扉は開かず、セラの名前だけが欠けた。王宮は事故だと言った。アステル家は抗議したが、記録は封じられた。セラは病死として処理された」


「実際には?」


「その夜、セラの部屋は空だった。名札も、靴も、読みかけの本も消えていた。家族の記憶は曇り、家系図から名が薄れた。だが私は、兄としてではなく、名簿院の見習いとして彼女の名札を何度も直していた。その手の感触だけが残った」


 彼は自分の手を見た。


「私は妹の顔を完全には思い出せない。声も曖昧だ。それでも、セラという名前を忘れなかった」


 胸が痛んだ。


 わたしは家系図から消えたあと、父やリリアから名前を忘れられた。でも、自分自身は自分の名を覚えていた。ノア様は、消えた妹を探し続ける側だった。


 どちらが苦しいか比べることはできない。ただ、痛みの形が違うだけだ。


「王宮の誰が関わっていたのですか」


「当時の責任者は、王妃の叔父にあたるフェルゼン侯爵。今は名誉職に退いているが、王宮書記局にはまだ影響力がある」


「王妃陛下は知っていたのでしょうか」


「知っていたはずだ。ただ、どこまで関わったかは分からない」


 だからノア様は、王妃を信用していない。


 茶会での硬い態度の理由が分かった。


「セラ様は、生きていると思いますか」


 ノア様は長い沈黙のあと、言った。


「思いたい。だが、名簿師としては、八年も名が欠けた状態で生きている可能性は低い」


「低い可能性でも、ゼロではありません」


「そうだ」


 彼はようやく、わたしの方を見た。


「君の抹名を見たとき、セラを思い出した。名前を奪われる前に、自分で白紙へ戻した君を見て、救われた気がした」


「救われた?」


「少なくとも、一人は奪われずに済んだ」


 その言葉に、喉が詰まった。


 ノア様がわたしを助けてくれたのは、職務だけではなかった。妹を守れなかった痛みが、わたしを見捨てられなかったのだ。


「わたしは、セラ様の代わりではありません」


 言うべきだと思った。


 ノア様は頷いた。


「分かっている。君はリネアだ」


 その答えが、あまりにまっすぐで、胸が熱くなった。


「だからこそ、頼むのが怖い」


「何をですか」


「白の名簿を開くために、君が必要になるかもしれない。私はそれを止めたい一方で、セラの手がかりを得るために望んでいる自分もいる」


 彼は視線を落とした。


「君を利用したくない」


 わたしは茶碗を置いた。


「利用と協力は、何が違うのでしょう」


 ノア様は少し驚いたようにわたしを見る。


「わたしは、王妃陛下のように誰かの傷を政治に使うのは嫌です。父のように家の都合で押し切られるのも嫌です。でも、事情を全部聞いたうえで、自分の意思で手を貸すなら、それは利用ではなく協力だと思います」


「君は手を貸すのか」


「条件つきで」


 そう言うと、ノア様の目にわずかな笑みが浮かんだ。


「条件は?」


「すべての書類を読ませてください。危険を隠さないでください。わたしが拒否したら、拒否を尊重してください」


「当然だ」


「それから」


 少し迷った。


 けれど、言う。


「ノア様も、一人で抱え込まないでください」


 彼は黙った。


 長い沈黙だった。


 窓の外で、鐘が鳴る。夜の八つ。名簿院の廊下は静かで、遠くから紙をめくる音だけが聞こえた。


「努力する」


 ノア様はようやく言った。


 完璧な約束ではない。けれど、彼らしい誠実な答えだった。


 その夜、わたしは宿直室へ戻ってから、母の名札を取り出した。


 エレノア。


 その名は、わたしの過去を示すと同時に、誰かの失われた名へ続く鍵でもある。


 リネア。


 その名は、わたしが自分で選んだ線だ。


 二つの名が胸の中で、静かに並んでいる。


 どちらか一つを否定するのではなく、どちらもわたしの歩いてきた道として抱えていけるだろうか。


 まだ分からない。


 でも、ノア様が妹の名を諦めていないように、わたしも自分の過去をただ捨てるだけでは終われないのだと思った。

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