さようならあおい
第一部 視線の温度
高校三年の春。
りょうまは“完成されている側”の人間だった。
部活のエース。推薦もほぼ確実。後輩からは「りょうま先輩」と名前を呼ばれるだけで少し空気が変わる。廊下を歩けば道が空く。そんな立場にいることを、彼は自覚していた。
けれど、満たされてはいなかった。
好かれている実感はある。けれどそれは「肩書き」に向けられた視線だ。部活の実績、三年という立場、頼れる先輩という仮面。その奥にいる自分を、本気で見てくれている人はいない気がしていた。
そんなときに出会ったのが、あおいだった。
二年生の教室前の廊下。
昼休み、窓際で本を読んでいる姿を見かけた。
騒がない。群れない。
でも孤立しているわけでもない。
笑うときはちゃんと笑う。
でも誰にでも笑うわけではない。
その距離感が、りょうまの神経に引っかかった。
「それ、面白い?」
気まぐれだった。本当に、それだけのつもりだった。
あおいは顔を上げ、ほんの少しだけ警戒した目で見た。
「……先輩、私に話しかけるんですね」
その言い方に、りょうまは妙にざらついた感情を覚えた。
“他の人とは違う扱いをしている”
そう見抜かれた気がした。
「悪い?」
「別に。ただ、ちょっと意外だっただけです」
あおいは微笑んだ。
その笑顔は媚びていなかった。
だからこそ、欲しくなった。
それからりょうまは、意識的に二年のフロアへ足を運ぶようになる。
偶然を装い、廊下ですれ違い、帰る時間を合わせる。
あおいは最初こそ距離を取っていたが、少しずつ警戒を解いていった。
放課後の帰り道。
夕焼けの中、二人並んで歩く。
「先輩って、なんで私なんですか?」
突然聞かれた。
「なんでって?」
「私、特別じゃないですよ」
その言葉に、りょうまは一瞬答えに詰まった。
確かにそうだ。
派手でもない。成績トップでもない。部活のスターでもない。
でも。
「俺にとっては、特別だから」
思ったよりも真っ直ぐな声が出た。
あおいは目を逸らし、小さく笑った。
夏祭りの日、りょうまは告白した。
花火の音に紛れて、「好きだ」と言った。
あおいは迷った。長く黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「……先輩となら、ちゃんと向き合えそうだから」
その言葉が、妙に重く響いた。
付き合い始めてから、学校の空気は一変した。
「りょうま先輩の彼女、あの二年の子らしいよ」
視線。噂。羨望。嫉妬。
あおいは一気に“誰かの彼女”になった。
廊下で手を繋ぐことはなかった。
あおいが嫌がったからだ。
「学校では、あんまり…」
遠慮ではない。
恐れだった。
りょうまは理解しているつもりだった。
けれど心のどこかで、物足りなさを感じていた。
“もっと誇示してくれてもいいのに”
そんなときだった。
文化祭実行委員の集まりで、一年生のすずのちゃんと同じ班になったのは。
初対面で、彼女は遠慮がなかった。
「りょうま先輩ですよね?有名ですよ」
にこっと笑う。
その目は、好意を隠していなかった。
「彼女さん、二年のあおい先輩ですよね」
「……知ってるんだ」
「はい。有名ですから」
言い方に、わずかな棘があった。
準備期間が進むにつれて、すずのちゃんは距離を詰めてきた。
机を運ぶとき、必要以上に近い。
廊下で呼び止める。
放課後の教室で、二人きりになる状況を作る。
「先輩、彼女と上手くいってますか?」
「急に何」
「なんとなく。あおい先輩、ちょっと不安そうに見えたから」
その言葉に、りょうまは微妙に動揺した。
確かに最近、あおいは少しだけ笑顔が減った。
理由は分かっている。
一年生が、近いのだ。
ある日、あおいの前で、すずのちゃんがわざと腕を掴んだ。
「先輩、これ持ってください」
距離が近すぎる。
あおいの視線が、一瞬だけ凍る。
帰り道、あおいは静かに言った。
「一年生の子、先輩のこと好きだと思う」
「考えすぎだろ」
「……そうかな」
その声は弱かった。
りょうまは否定しながらも、自覚していた。
すずのちゃんは、自分を見ている。
肩書きではない。
男として。
その視線は、熱を帯びている。
そして正直に言えば――
悪くなかった。
あおいは慎重だ。
触れるときも、キスをするときも、必ず一瞬のためらいがある。
すずのちゃんには、それがない。
ある放課後、誰もいない教室で彼女は言った。
「先輩って、縛られるの好きですか?」
「は?」
「なんか、我慢してる顔してる時ありますよ」
図星だった。
あおいを傷つけたくない。
でも、もっと求められたい。
その隙間を、すずのちゃんは見逃さない。
「私は、遠慮しませんよ」
そう言って、まっすぐ見つめてくる。
心臓が速くなる。
その夜、あおいからメッセージが来た。
“先輩、私のことちゃんと見てる?”
短い一文。
胸がざわつく。
見ている。
見ているはずだ。
でも――
他の視線も、感じている。
りょうまはまだ、自分がどれほど危うい位置にいるか理解していない。
自分は選ばれる側。
傷つくのは他人だと、どこかで思っている。
けれどすでに、三人の関係は静かに歪み始めている。
あおいは黙ることで耐えようとしている。
すずのちゃんは笑いながら距離を詰めてくる。
りょうまは、その間で揺れながらも――
どちらの手も離していない。
それが一番残酷だと、まだ気づいていない。
三年という立場。
彼氏という肩書き。
後輩の憧れ。
すべてが絡みつき、檻になる。
そしてその檻の中で、
最初に壊れるのは――信頼だ。
第二部 ひび割れの音
文化祭が近づくにつれ、三人の距離は否応なく縮まっていった。
りょうまは実行委員長として忙しく動き回り、すずのちゃんはその補佐として常に隣にいた。自然と二人きりになる時間が増える。周囲から見れば、頼れる先輩と健気な後輩。だが当人たちの間には、もっと生々しい空気が流れていた。
「先輩、彼女さん最近元気ないですよね」
準備室でポスターを広げながら、すずのちゃんは何気ない声で言った。
「……気のせいだろ」
「そうかなぁ。私のせいじゃないですか?」
その目は試すようだった。
りょうまは何も言い返せなかった。
事実、あおいは変わっていた。
笑顔が減り、連絡の返信も遅くなった。
会っても、どこか遠い。
ある日、放課後の教室であおいがぽつりと呟いた。
「先輩、私といる時より、あの子といる時のほうが楽しそう」
否定しようとしたが、声が詰まる。
「そんなことない」
「……あるよ」
あおいは笑った。
泣きそうな顔で。
その瞬間、りょうまの胸に罪悪感が刺さる。だが同時に、妙な苛立ちも湧いた。
“どうして責められているみたいなんだ”
自分は何もしていない。
そう思い込みたかった。
けれど、していないだけで、考えていないわけではない。
すずのちゃんの視線は、明らかに熱を帯びている。
触れたときの距離感が近すぎる。
耳元で囁く声が甘い。
そして何より、彼女は遠慮しない。
「先輩って、彼女に嫌われるの怖いですか?」
「当たり前だろ」
「じゃあ、私に嫌われるのは?」
一瞬、言葉を失った。
すずのちゃんは笑う。
「困ってる顔、好きです」
その無邪気さが危険だった。
文化祭前夜、遅くまで残っていたのは二人だけだった。
窓の外は暗く、教室は静まり返っている。
「先輩」
背後から呼ばれ、振り向いた瞬間、距離が近すぎた。
「好きです」
真っ直ぐな告白だった。
冗談でも挑発でもない。
本気の目だった。
りょうまは息を飲む。
「俺、彼女いる」
「知ってます」
「なら——」
「それでも好きです」
言葉が重なる。
逃げるべきだった。
拒むべきだった。
けれど、りょうまの足は動かなかった。
自分を真っ直ぐ欲しがる視線。
迷いのない感情。
あおいはいつも一歩引く。
慎重で、傷つくことを恐れている。
でもすずのちゃんは、違う。
「先輩は、私を選ばないんですか?」
その問いに、即答できない自分がいた。
その沈黙こそが、答えだった。
すずのちゃんは一歩近づき、胸に額を押し当てた。
「私なら、不安にさせません」
心臓が早鐘を打つ。
抱きしめれば簡単だ。
キスをすれば、もっと簡単だ。
でも、その一線を越えた瞬間、戻れなくなる。
「……帰るぞ」
かろうじてそう言い、距離を取った。
だが彼女は笑っていた。
「今日は、ですね」
その含みのある声が耳に残る。
翌日、文化祭本番。
りょうまとすずのちゃんは並んで動き回る。
それを、あおいは遠くから見ていた。
昼過ぎ、人気のない校舎裏で呼び止められる。
「昨日、二人きりだったんだよね?」
どうして知っているのか。
「あおい——」
「何もないって言うんでしょ」
その目は、もう信じようとしていなかった。
りょうまは、また嘘をついた。
「何もない」
その言葉が、決定的だった。
あおいは頷いた。
そして、少しだけ距離を取った。
物理的にではない。
心が。
その夜、すずのちゃんからメッセージが来る。
“嘘つきましたね”
心臓が跳ねる。
“彼女さんに、何もなかったって”
“でも、何もなかったですか?”
言葉の刃だった。
確かに一線は越えていない。
だが、心は揺れている。
それは裏切りではないのか。
りょうまは返信できなかった。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
あおいを失いたくない。
でも、すずのちゃんの熱も手放したくない。
どちらも欲しい。
その欲張りが、すでに関係を腐らせている。
数日後、あおいが言った。
「先輩、私、怖い」
「何が」
「いつか、簡単に手放されそうで」
その言葉は、予言だった。
りょうまは否定する。
必死に。
けれど、自分でも分かっている。
心はもう、二つに割れている。
そして亀裂は、静かに広がっていく。
まだ誰も泣いていない。
まだ誰も決定的に壊れていない。
でも、確実に音はしている。
ひび割れの音が。
第三部 越えてはいけない線
文化祭が終わった後も、三人の関係は終わらなかった。
むしろ、静かに濃くなっていった。
あおいは以前よりも連絡を求めるようになった。
「今どこ?」「誰といるの?」
問い詰めるわけではない。ただ確認するように。
失う前に、確かめておきたいというように。
りょうまはその変化に息苦しさを覚え始めていた。
“信じてる”と言いながら、あおいの目は疑っている。
一方で、すずのちゃんは変わらない。
放課後、誰もいない階段の踊り場で待ち伏せする。
LINEは短いが、必ず核心を突く。
“先輩、今日も嘘つきましたね”
“彼女さんに、私と話してたこと言ってないでしょ”
その文面を見て、胸がざわつく。
否定できない。
ある雨の日、部室棟に取り残されたのは二人だった。
雷が鳴るたび、すずのちゃんはわざと肩を寄せる。
「怖いんです」
嘘だと分かる。
でも、腕を掴まれると振り払えない。
「先輩は、私のこと好きじゃないんですか?」
またその質問だ。
「好きとかじゃなくて——」
「じゃあ何ですか?」
言葉に詰まる。
好意ではない。
欲望でもない。
でも、確実に惹かれている。
あおいとは違う温度。
あおいは大切だ。守りたい。
すずのちゃんは、抗えない。
「先輩、私といる時、目が違いますよ」
距離がゼロになる。
雨音が強まる。
「彼女さんに、キスしたのいつですか?」
意地悪な問い。
思い出そうとして、りょうまは気づく。
最近していない。
あおいはどこか怯えていて、触れると緊張する。
すずのちゃんは、違う。
迷わない。
「私なら、怖がりません」
その瞬間、彼女の手が頬に触れた。
止めるべきだった。
でも、りょうまは動かなかった。
唇が触れる。
一瞬だった。
はずなのに、長かった。
離れたあと、すずのちゃんは笑った。
「これで、何もないとは言えませんね」
現実が、重くのしかかる。
罪悪感よりも先に来たのは、熱だった。
自分が選ばれた感覚。
欲しがられた感覚。
最低だと思う。
でも、興奮している。
その夜、あおいと会った。
いつもより少し距離がある。
「今日、何してた?」
「部活」
また嘘だ。
あおいはじっと見つめる。
「先輩、目が違う」
心臓が止まりそうになる。
「どう違う」
「どこか遠い」
見抜かれている。
でも、言えない。
キスしたなんて。
あおいは唇を噛みしめる。
「私、先輩に嫌われたくない」
その言葉が、刺さる。
嫌っていない。
でも、裏切った。
「嫌いになるわけないだろ」
そう言って抱きしめた。
その腕で、数時間前、別の子を抱き寄せたのに。
あおいは震えていた。
安心したのか、不安なのか分からない震え。
りょうまは、初めてはっきり自覚する。
戻れない。
それでも翌日、すずのちゃんは何もなかった顔で挨拶する。
「おはようございます、先輩」
そして小さく囁く。
「また、雨の日がいいですね」
あおいはそれを遠くから見ている。
三人の距離は、もう均衡を失っている。
あおいは確信に近い不安を抱えている。
すずのちゃんは確信を持って攻めている。
りょうまは、両方を失いたくない。
放課後、あおいが言った。
「先輩、正直に聞いていい?」
覚悟の声だった。
「私以外のこと、考えたことある?」
答えは、ある。
でも言えない。
沈黙が答えになった。
あおいの目に、はっきりと絶望が浮かぶ。
「やっぱり」
その一言で、空気が冷える。
まだ完全にはバレていない。
でも、信頼は崩れ始めている。
そして、崩れた信頼は戻らない。
すずのちゃんから夜にメッセージが来る。
“先輩、後悔してますか?”
りょうまは、初めて即答できなかった。
後悔と興奮が混ざっている。
どちらが本音か分からない。
三人の関係は、
もう“疑い”の段階を越えた。
実際に、裏切った。
まだ一度のキス。
でも、それで十分だった。
あおいの不安は現実になり、
すずのちゃんの想いは一歩前に出た。
そしてりょうまは、
自分が加害者であることを、まだ完全には受け止めていない。
本当に壊れるのは、これからだ。
第四部 最初の別れ
雨の日のキスから、空気は確実に変わった。
あおいは何も言わない。
責めない。怒鳴らない。
その代わり、静かになった。
以前は他愛ない話をしていた帰り道も、沈黙が増えた。
手を繋ぐ回数も減った。
りょうまが触れようとすると、一瞬だけ遅れる。
ほんのわずかな“間”。
それが、何より苦しかった。
「先輩、私のこと好き?」
ある日、昇降口で靴を履き替えながら聞かれた。
「好きに決まってるだろ」
即答した。
けれど声が少し強かった。
あおいは笑う。
「即答できるんだ」
その言い方に、胸がざらつく。
信じたいのに、信じきれない。
そんな目だった。
一方で、すずのちゃんは変わらない。
むしろ、余裕が生まれていた。
「彼女さん、最近元気ないですね」
昼休み、人気のない渡り廊下で言う。
「お前のせいだろ」
「私のせい“だけ”ですか?」
その言葉に、りょうまは何も返せなかった。
確かに、キスを選んだのは自分だ。
すずのちゃんは誘っただけ。
拒めなかったのは、りょうま。
ある日の放課後、決定的な瞬間が訪れる。
あおいが、実行委員室の前で立ち止まっていた。
扉の向こうで、りょうまとすずのちゃんが話している。
「またキスしてくれますか?」
冗談めいた声。
「やめろ」
低い声。
でも、完全な拒絶ではない。
沈黙。
その沈黙がすべてだった。
あおいは、扉を開けなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
その夜、メッセージが来る。
“今日、聞こえちゃった”
血の気が引く。
“ちゃんと聞きたい。明日会える?”
逃げられない。
翌日、校舎裏。
あおいは真っ直ぐ見てきた。
「キスした?」
直球だった。
言い訳を考える時間もなかった。
「……一回だけ」
空気が凍る。
あおいの目が、ゆっくりと潤む。
「一回ならいいの?」
「違う、そうじゃなくて」
「先輩、私の不安、全部当たってたね」
泣き叫ぶわけでもなく、静かに涙が落ちる。
その姿が、一番きつい。
「ごめん」
その言葉は軽すぎた。
あおいは首を振る。
「ごめんって何に対して?」
答えられない。
キスしたこと?
揺れたこと?
嘘をついたこと?
全部だ。
「私、先輩のこと好きだよ」
震える声。
「でも、好きなだけじゃ足りない」
胸が締めつけられる。
「信じられないのが、こんなに苦しいなんて思わなかった」
その瞬間、りょうまは初めて実感する。
自分が壊したのは、信頼だと。
「別れよ」
短い言葉。
世界が揺れる。
「待って」
「待たない」
あおいは涙を拭う。
「先輩は、選ばない人だから」
その一言が、鋭く刺さる。
確かにそうだ。
どちらも失いたくない。
どちらも欲しい。
でもそれは、誰も選んでいないということ。
「私、これ以上自分が嫌いになる前にやめる」
そう言って、背を向けた。
追いかけられなかった。
プライドか、恐怖か、自分でも分からない。
ただ、足が動かなかった。
その日の夜、すずのちゃんに伝えた。
「別れた」
既読がすぐにつく。
“やっとですね”
その返信に、胸がざわつく。
数分後、電話がかかってきた。
「先輩、泣いてます?」
声が柔らかい。
「別に」
強がる。
「私、今から会いに行きます」
断るべきだった。
でも、断らなかった。
公園のベンチ。
すずのちゃんは、何も言わず隣に座る。
「私なら、泣かせません」
その言葉が、甘く響く。
あおいは、泣きながら去った。
すずのちゃんは、笑いながら近づく。
りょうまは、空っぽだった。
罪悪感もある。
でも同時に、解放感もあった。
疑われなくていい。
不安そうな目を向けられなくていい。
それが、楽だった。
すずのちゃんがそっと手を握る。
「今は、私の番ですよね」
その言葉を、否定しなかった。
それが二つ目の裏切りだと気づかずに。
あおいは一人で泣いている。
りょうまはその事実を知りながら、
別の手の温度を受け入れようとしている。
最初の別れは、静かだった。
でも確実に、三人の形を変えた。
りょうまはまだ理解していない。
これが“終わり”ではなく、
もっと深く沈む“始まり”だということを。
第五部 代わりにならない温度
あおいと別れてから一週間は、妙に静かだった。
学校はいつも通り回る。
部活もある。授業もある。
けれど、放課後の帰り道だけが空白になった。
隣にいたはずの人がいない。
それだけなのに、景色の色が変わる。
りょうまは自分に言い聞かせる。
“これでよかったんだ”
疑われない。
責められない。
息苦しくない。
でも、夜になるとスマホを握りしめる。
あおいとのトーク画面は止まったまま。
既読もつかない。
そこへ、別の通知が入る。
すずのちゃん。
“先輩、今日空いてますか?”
まるでタイミングを測っているかのようだった。
断る理由はない。
断らない理由も、ない。
公園で会うと、すずのちゃんは嬉しそうに笑った。
「彼女いない先輩、初めて見ました」
その言い方に、少しだけ苛立つ。
「元カノな」
強調した。
「まだ好きですか?」
核心を突く。
「……分からない」
正直だった。
すずのちゃんは少し黙ってから、そっと距離を詰めた。
「じゃあ、私が忘れさせます」
その言葉は優しくて、残酷だった。
キスをする。
今度は、迷わなかった。
あの雨の日よりも深く、長く。
理性が止める声を上げる前に、体が動いていた。
“あおいじゃない”
その感覚が、妙に鮮明だった。
違う匂い。違う体温。違う反応。
すずのちゃんはためらわない。
抱きしめると、すぐに腕を回してくる。
「先輩、やっとこっち向きましたね」
勝ち誇ったような声。
りょうまは反論できない。
選んだのは、自分だ。
それから二人は、自然に一緒にいる時間が増えた。
放課後、人気のない教室。
帰り道、駅までの暗い道。
人目を避けるように。
付き合う、とははっきり言っていない。
でも、関係はそれ以上だった。
ある日、すずのちゃんが言った。
「私たち、付き合ってるって言っていいですか?」
その問いに、わずかに迷う。
あおいの顔が浮かぶ。
泣きながら去った背中。
「……いいよ」
口が先に動いた。
その瞬間、何かが確定した。
すずのちゃんは嬉しそうに抱きつく。
「やっと私の先輩ですね」
その言葉に、違和感が走る。
“私の”
所有する響き。
あおいは、そんな言い方をしなかった。
数日後、廊下ですれ違った。
あおいと。
目が合う。
一瞬だけ、時間が止まる。
すずのちゃんが隣にいる。
わざと腕を絡める。
あおいの視線が、そこに落ちる。
痛いほど分かる。
それでも、りょうまは腕を振りほどかなかった。
意地だったのか、弱さだったのか。
その夜、胸がざわついて眠れなかった。
すずのちゃんの体温は、確かに温かい。
キスも、触れ合いも、迷いがない。
でも。
静かな瞬間に浮かぶのは、あおいだ。
慎重に触れてきた手。
少しだけ震える唇。
信じようと必死だった目。
代わりにならない。
それを認めるのが、怖い。
ある日、すずのちゃんが聞いた。
「まだ元カノのこと考えてます?」
否定しようとして、目を逸らした。
それが答えだった。
彼女は笑う。
「分かってますよ。でも、今は私ですよね?」
“今は”
期限付きの言葉のように聞こえた。
「私、奪った自覚ありますから」
さらりと言う。
「でも、先輩が手を伸ばしたんですよ?」
その通りだった。
責められる資格はない。
関係は、さらに深くなる。
放課後の教室で、初めて最後まで触れた。
制服のまま、息が乱れる。
罪悪感よりも先に来たのは、焦りだった。
“あおいとじゃない”
頭のどこかで、ずっと比較している。
最低だ。
すずのちゃんは満足そうに微笑む。
「私のほうが、好きって言ってくれますよね?」
答えられない。
その沈黙が、また彼女を不安にさせる。
「先輩、私を選んだんですよね?」
選んだ。
でも、それは逃げだったかもしれない。
あおいから逃げ、罪悪感から逃げ、楽な温度に逃げた。
その事実が、じわじわと首を絞める。
そしてある日。
廊下で、あおいが泣いているのを見てしまう。
友達に慰められながら、必死に笑っている。
その姿を見た瞬間、胸が強く締めつけられる。
“泣かせたのは自分だ”
すずのちゃんの手が、背中に回る。
「見なくていいですよ」
優しい声。
でもその優しさが、今は痛い。
りょうまは初めて気づき始める。
手に入れたはずなのに、
何も満たされていない。
むしろ、失ったものの輪郭がくっきりしていく。
それでも、もう戻れない。
戻るには、さらに誰かを傷つける必要がある。
りょうまは、まだ決断しない。
どちらも失う勇気がないから。
そしてその優柔不断さが、
次の破壊を呼ぶ。
第六部 暴かれる嘘、崩れる均衡
すずのちゃんの不安は、ゆっくりと腐っていった。
最初は小さな確認だった。
「今日、あおい先輩と話しました?」
「LINE来てませんよね?」
「まだ好きなんですか?」
りょうまはそのたびに「違う」と言った。
でも“違う”の中身は空っぽだった。
否定しているのは、事実ではなく、気持ちだったから。
すずのちゃんは気づいていた。
りょうまの視線が、まだあおいを追っていることを。
廊下ですれ違うとき、
文化祭の準備で同じ空間にいるとき、
体育館の片隅で笑っているあおいを見るとき。
その一瞬の揺れを、彼女は見逃さない。
ある日の放課後。
「私のこと、ちゃんと好きですか?」
静かな教室で、すずのちゃんは真正面から聞いた。
「好きだよ」
即答した。
けれど声はわずかに硬い。
「じゃあ、どうしてあの人を見るんですか?」
りょうまは言葉を失う。
「比べてますよね?」
核心だった。
沈黙が、何よりの答えになる。
すずのちゃんの目に涙が滲む。
「私、奪ったって分かってるって言いましたよね。でも…奪ったなら、全部ほしいんです」
全部。
過去も、未練も、記憶も。
そんなもの、渡せるはずがない。
りょうまは目を逸らす。
その仕草が、決定打だった。
「最低」
小さく吐き捨てる。
「私のこと利用してるだけですよね?」
否定できなかった。
寂しさを埋めるため。
あおいから逃げるため。
自分を肯定するため。
すずのちゃんは涙を拭わずに言った。
「じゃあ、壊します」
その言葉の意味を、りょうまは理解していなかった。
数日後。
あおいのスマホに、動画が送られる。
送り主は、知らないアカウント。
再生。
そこには、教室で抱き合うりょうまとすずのちゃんの姿。
キス。
制服の乱れ。
囁き声。
あの日の映像だった。
あおいの手が震える。
撮られていたことも知らない。
りょうまは、知らない。
すずのちゃんがこっそりスマホを固定していたことを。
“証拠”として。
“保険”として。
そして今、それは“武器”になった。
翌日。
あおいは、りょうまを呼び出す。
人気のない校舎裏。
目は真っ赤だった。
「最低だね」
開口一番、それだった。
「何が…」
スマホを突きつけられる。
再生。
血の気が引く。
「これ、なに?」
声が震えている。
怒りよりも、傷ついた声。
「…撮られてたなんて知らなかった」
言い訳にしか聞こえない。
「別れたからって、何してもいいの?」
「違う、俺は…」
何を?
どう弁解する?
「私がまだ好きなの知ってたよね?」
言葉が刺さる。
知っていた。
気づいていた。
それでも、すずのちゃんを選んだ。
いや、逃げた。
あおいの頬を涙が伝う。
「私、信じたかったのに」
その言葉が、胸を抉る。
すずのちゃんが現れる。
偶然ではない。
見計らっていた。
「見ちゃいました?」
淡々とした声。
あおいが振り向く。
「あなた、わざとでしょ?」
すずのちゃんは笑わない。
「先輩、まだ未練あるみたいなんで」
静かな宣戦布告だった。
「だから、ちゃんと終わらせようと思って」
あおいの目が見開かれる。
「終わらせるって何を?」
「選ばせるんですよ。今、ここで」
空気が凍る。
りょうまの心臓が激しく鳴る。
逃げ場がない。
すずのちゃんは言う。
「私と今すぐちゃんと付き合うって皆に言うか、元カノのとこ戻るか」
「は?」
あおいが驚く。
「どっちにしても、私は全部バラしますから」
動画の存在を示唆する。
脅しだった。
りょうまは初めて理解する。
自分がどれだけ甘かったか。
誰も本気で傷つけないまま、
うまくやれると思っていた。
そのツケが、今ここにある。
あおいは静かに言う。
「私、もういい」
その声は驚くほど落ち着いていた。
「りょうまが選ばなくてもいい」
すずのちゃんが眉をひそめる。
「どういう意味ですか?」
「こんな人、いらない」
りょうまの胸が強く痛む。
「未練あったけど、今ので全部消えた」
嘘かもしれない。
でも、その目は決意している。
「自分で決められない人、いらない」
その言葉は刃だった。
りょうまは何も言えない。
すずのちゃんも一瞬動揺する。
想定外だった。
“奪い合い”になるはずだった。
でも、あおいは戦わなかった。
ただ、手放した。
それが一番残酷だった。
去っていく背中。
二度目だ。
今度は完全に、自分のせいで。
沈黙。
すずのちゃんが小さく言う。
「…これで私だけですよね?」
その問いに、りょうまは答えられない。
胸の奥で、何かが崩れる。
勝ったはずなのに、
何も残っていない。
あおいを完全に失った。
そして気づく。
失って初めて、
本当に欲しかったものが分かる。
すずのちゃんの手が伸びる。
「先輩?」
りょうまはその手を、初めて振り払った。
空気が止まる。
ここからが、本当の選択。
第七部 選ばなかった代償
すずのちゃんの手を振り払った瞬間、空気が裂けた。
「……は?」
その声は、初めて震えていた。
今まで余裕を崩さなかった彼女の目が、わずかに見開かれる。
りょうまの胸は荒く上下している。
「俺、最低だ」
今さらだった。
「今さらですね」
すずのちゃんの声が冷える。
「私のこと散々触っておいて、今さら良心ですか?」
その言葉は鋭い。
触れた。求めた。受け入れた。
寂しさを埋めるように、何度も。
その事実は消えない。
「違う。そうじゃなくて…」
「じゃあ何ですか?」
問い詰められる。
逃げ場はない。
りょうまは初めて、正面から言った。
「俺、あおいが好きだ」
静寂。
一秒、二秒。
次の瞬間、すずのちゃんの頬を涙が伝う。
怒鳴らない。叫ばない。
その代わり、笑った。
「今さら?」
壊れたみたいに。
「私がどんな気持ちでここまで来たと思ってるんですか?」
りょうまは答えられない。
すずのちゃんは近づく。
胸ぐらを掴む。
「奪ったんですよ? 私、悪者になったんですよ?」
声が震えている。
「先輩が揺れてるの分かってて、それでも一緒にいたんですよ?」
それは事実だった。
彼女もまた、賭けていた。
「でも結局、最初から勝てない相手だったんですね」
涙が止まらない。
「私、何だったんですか?」
その問いが一番重い。
“代わり”
“逃げ道”
“都合のいい温度”
言葉にできない。
りょうまは唇を噛む。
「ごめん」
またそれだ。
すずのちゃんの目が鋭くなる。
「謝らないで」
低い声。
「謝られると、私だけ惨めになる」
空気が張り詰める。
「行けばいいじゃないですか」
突き放すように言う。
「今すぐ行って、土下座でも何でもすれば?」
強がりだと分かる。
でも止めない。
りょうまは一瞬迷う。
今ここで動かなければ、一生後悔する。
そう思った。
「……行く」
その一言で、すずのちゃんの顔色が変わる。
本当に行くとは思っていなかった。
「本気なんですね」
「うん」
短い答え。
「戻ってこないでくださいね」
震えている。
「都合悪くなったら私のとこ来るとか、絶対やめてください」
その言葉に、りょうまは初めて彼女の本心を見る。
彼女は奪いたかったんじゃない。
“選ばれたかった”だけだ。
でも、選ばれない。
それが今、確定した。
りょうまは深く頭を下げた。
「傷つけてごめん」
今度は、軽くなかった。
すずのちゃんは背を向ける。
「消えてください」
涙声だった。
りょうまは走る。
校門を抜け、夜の道を全力で。
心臓が痛い。
呼吸が荒い。
でも止まらない。
あおいの家の前。
何度も送った道。
インターホンを押す指が震える。
出てきたのは、泣き腫らした顔。
驚きと警戒が混ざった目。
「何しに来たの」
冷たい声。
当然だ。
りょうまは息を整え、言う。
「俺、最低だった」
あおいは黙っている。
「逃げてた。お前からも、自分からも」
言葉が止まらない。
「すずのちゃんと一緒にいても、ずっとお前のこと考えてた」
正直すぎる告白。
あおいの目が揺れる。
「それ、余計ひどいよ」
その通りだ。
「でも、やっと分かった」
りょうまは一歩近づく。
「俺が好きなのは、お前だけだ」
沈黙。
夜の空気が冷たい。
あおいの手が小さく震える。
「信じられると思う?」
まっすぐな問い。
簡単じゃない。
壊したのは自分だ。
りょうまは言う。
「信じなくていい。時間かかってもいい」
必死だった。
「でも、もう逃げない」
あおいの目から涙がこぼれる。
「また裏切ったら?」
「そのときは、二度と顔見せない」
覚悟の言葉。
長い沈黙のあと、あおいが言う。
「ずるい」
涙混じりに笑う。
「今さらそんな顔するの、ずるいよ」
それでも。
扉は、閉まらなかった。
完全な許しではない。
でも、拒絶でもない。
りょうまは初めて、自分で選んだ。
逃げでも流れでもなく、意思で。
その代わり、すずのちゃんを深く傷つけた。
何も失わずに済む恋なんてない。
ここからは、償いだ。
第八部(最終章) それでも選ぶということ
あおいはすぐには許さなかった。
当然だった。
りょうまは毎日、彼女の家の前まで行った。
でもインターホンは押さない日もあった。
顔を見る資格があるのか、何度も自問した。
LINEは既読がつかない。
電話も出ない。
それでもやめなかった。
逃げないと決めたから。
一週間後、あおいから初めて返信が来た。
「話すだけ」
その四文字だけで、心臓が跳ねた。
カフェで向かい合う。
以前なら自然に触れていた距離が、今は遠い。
「まだ好きなのは、事実」
あおいが先に言った。
りょうまは息を飲む。
「でも、信じられないのも事実」
まっすぐな目。
逃げ場はない。
「時間かかるよ」
「うん」
「すずのちゃんのこと、ちゃんと終わらせて」
「終わらせた」
即答。
あおいはじっと見る。
「ほんとに?」
「戻らない」
その言葉に嘘はなかった。
その頃、すずのちゃんは学校で静かになっていた。
噂は広がっていた。
動画のことまでは出ていないが、三角関係の話は尾ひれをつけて広まる。
彼女は一人でいることが増えた。
強く振る舞っていた反動が、今になって押し寄せる。
放課後、りょうまは彼女を見つける。
屋上近くの階段。
「来ないでください」
顔を上げずに言う。
「最後に、ちゃんと謝らせて」
沈黙。
「私は謝られたくないって言いましたよね」
声はかすれている。
「先輩が選ばなかった。それだけです」
淡々としているが、指先は震えている。
「でも、私も分かってました」
小さく笑う。
「最初から勝てないって」
それでも賭けた。
それだけ本気だった。
りょうまは言う。
「俺、最低だった」
「知ってます」
即答。
「でも、好きでした」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「だから余計、悔しい」
涙がこぼれる。
「選ばれなかったのが悔しい」
それが本音。
奪いたかったんじゃない。
証明したかった。
自分の方が愛されるって。
でも違った。
りょうまは深く頭を下げる。
「幸せになってほしい」
「上からですね」
少しだけ、いつもの毒が戻る。
「先輩のせいで恋愛観ぐちゃぐちゃですよ」
でも、その目は少し柔らいでいた。
「でも、好きになったのは私です」
責任を押しつけない強さ。
「だから、もういいです」
それは本当の終わりだった。
りょうまは去る。
振り返らない。
振り返ったら、また揺らぐ。
数ヶ月後。
あおいとりょうまは、やっと“付き合う”と呼べる関係に戻る。
すぐに触れ合わない。
すぐに甘えない。
壊れた分だけ、慎重になる。
ある夜、イルミネーションの下。
昔一緒に来た場所。
あおいが言う。
「なんで私なの?」
何度目か分からない問い。
りょうまは今度こそ迷わない。
「一緒にいると、自分が嫌いにならないから」
すずのちゃんといたとき、
自分の弱さが増幅された。
あおいといると、
弱さを直視できた。
「俺、逃げない人になりたい」
あおいは黙って聞く。
「その隣にいるのが、お前がいい」
飾らない言葉。
あおいは小さく笑う。
「また裏切ったら?」
「そのときは、二度と会わない」
覚悟は変わらない。
長い沈黙のあと、あおいが手を差し出す。
「じゃあ、もう一回だけ」
その手を、りょうまは強く握る。
今度は、奪うでも逃げるでもない。
選ぶ。
誰かを傷つける可能性も、自分が傷つく可能性も受け入れて。
遠くで冬の風が鳴る。
すずのちゃんも、きっといつか誰かに本気で選ばれる。
りょうまはもう、揺れない。
あおいの手を離さない。
完璧なハッピーエンドじゃない。
傷は残る。
後悔も消えない。
それでも。
それでも選んだ。
逃げなかった。
それが、この物語の結末。
甘い依存 ―
あの夜。
りょうまはあおいの元へ行かなかった。
理由は単純だった。
走る気力がなかった。
選ぶ覚悟も、傷つく勇気も、もう残っていなかった。
目の前にいたのは、すずのちゃん。
涙を浮かべながら、それでも自分を見捨てない目。
「行かないんですか?」
試す声。
りょうまは小さく首を振った。
その瞬間。
すずのちゃんは微笑んだ。
優しく。
包み込むように。
「じゃあ、私がちゃんと捕まえておきますね」
冗談みたいな言葉。
でも、その通りになった。
最初は救いだった。
あおいを失った喪失感。
罪悪感。
自分の弱さへの嫌悪。
それをすずのちゃんは全部肯定する。
「先輩は悪くないですよ」
「揺れるのは普通です」
「私は離れませんから」
離れない。
その言葉が、どれだけ甘かったか。
りょうまは少しずつ思考を手放していく。
自分で決めなくていい。
彼女が「こうしよう」と言えば、それでいい。
「今日、誰と会うんですか?」
「会社の人」
「女の人いますよね?」
「いるけど…」
少しの沈黙。
「不安です」
それだけ。
怒らない。
責めない。
ただ不安そうに言う。
その顔を見ると、りょうまはすぐに折れる。
「飲み会、断るよ」
「ほんとですか?」
嬉しそうに笑う。
それが快感になる。
“自分が彼女を安心させた”
それが嬉しい。
やがて、選択は全部すずのちゃん基準になる。
服装。
休日の予定。
交友関係。
「その人、先輩に気があると思います」
「距離置いた方がいいです」
りょうまは従う。
疑わない。
考えない。
だって、その方が楽だから。
自分で判断して失敗するより、
彼女の言う通りにして安心してもらう方がいい。
ある日。
「位置情報、共有しません?」
軽い声。
「嫌ならいいですけど」
りょうまは即答する。
「いいよ」
むしろ安心する。
どこにいるか見られている。
隠し事を疑われない。
透明になったみたいで楽だ。
数年経つ。
友人は減る。
誘いは断る。
「最近付き合い悪くない?」と言われても、
「忙しい」で済ませる。
本当は違う。
すずのちゃんといる時間以外、
何をしていいか分からなくなった。
彼女の機嫌が一日の基準になる。
笑えば安心。
黙れば不安。
「怒ってる?」
「怒ってないですよ」
でも声が少し冷たい。
それだけで心臓が締まる。
「俺、何かした?」
「してません」
その沈黙に耐えられない。
「ごめん」
何に対してか分からないまま謝る。
同窓会。
あおいの姿を遠くに見つける。
胸が少しだけ痛む。
でも、それ以上に気になるのは――
隣で腕を組んでいるすずのちゃんの表情。
「見てましたよね」
穏やかな声。
否定できない。
「まだ好きですか?」
まっすぐな目。
りょうまは首を振る。
「違う。ただ…懐かしいだけ」
「懐かしむ必要あります?」
その一言で、思考が止まる。
懐かしむことさえ、罪に感じる。
「ごめん」
また謝る。
彼女は微笑む。
「先輩は、私だけ見てればいいんです」
その言葉に、胸がざわつくはずだった。
でも今は。
安心する。
選択肢が減るほど、楽になる。
迷わなくていい。
比較しなくていい。
考えなくていい。
ある夜。
すずのちゃんがぽつりと言う。
「先輩、私いなくなったらどうします?」
りょうまは即答する。
「無理」
本音だった。
想像できない。
生活も、判断も、感情の基準も、
全部彼女に寄りかかっている。
すずのちゃんは満足そうに微笑む。
「よかった」
その目に、わずかな支配の光が宿る。
でももう、りょうまは気づかない。
気づいても、離れない。
離れられない。
これは強制された檻じゃない。
自分で鍵を渡し、
自分で内側から扉を閉めた。
あおいを選ばなかった代わりに、
自由も手放した。
それでも。
すずのちゃんが笑ってくれるなら、それでいいと本気で思っている。
依存は、甘い。
そして静かに、人格を溶かしていく。
りょうまはもう、選ばない。
ただ、従う。
それが愛だと信じながら。




