勇者の真っ赤なお手々
その夜、焚き火の爆ぜる音だけが、不気味なほど大きく響いていた。
いつもなら、勇者アルヴィンの明るい声が響いている時間だ。 「今日のあの魔法、すごかったね!」「明日はどんな冒険が待っているかな!」 そんな能天気な会話は、今夜に限って一切ない。
アルヴィンは、焚き火の前で膝を抱え、彫像のように固まっていた。 その自慢の黄金の鎧は脱ぎ捨てられ、傍らに転がっている。 だが、彼がいくら川の水で洗っても、その手についた「感触」は落ちないのだろう。彼は何度も何度も、自身の掌を見つめては、小刻みに震えていた。
聖女エリアナもまた、青ざめた顔で目を伏せている。彼女の唇は何かを祈るように動いているが、声にはならない。 魔導師フェイですら、今夜は酒を煽るペースが遅い。ただ黙って、暗い炎を見つめている。
沈黙。 圧倒的な、拒絶の沈黙。
俺、グレンだけが、いつもと変わらぬ手つきで槍の手入れをしていた。 布に油を染み込ませ、穂先についた脂と血を丁寧に拭き取る。 シュッ、シュッという摩擦音が、静寂の中で浮いているのがわかった。
(……やれやれ)
俺は心の中で毒づいた。 分かってはいたことだ。 こいつらは「英雄」だ。「聖女」だ。「宮廷魔導師」だ。 魔物を殺すことは正義の執行だが、同じ人間を殺すことへの耐性なんて、持ち合わせているはずがない。
それが例え、俺たちを襲ってきた薄汚い盗賊だったとしても。
事は数時間前、日没間近の街道で起きた。
「金目の物を置いていけ! 抵抗するなら殺すぞ!」
現れたのは、十人ほどの盗賊団だった。 飢えた目をした男たち。装備はボロボロで、農具を改造したような武器を持っている。おそらく、近隣の村から食い詰めた農民か、脱走兵の成れの果てだ。
「ま、待ってくれ! 話し合おう!」
アルヴィンは、いつものように前に出た。 彼にとって、人間は守るべき対象だ。剣を向ける相手ではない。
「僕は勇者アルヴィンだ。君たちが貧困で苦しんでいるなら、王家に話を通して支援を……」 「うるせえ! 貴族の綺麗事なんざ聞き飽きたんだよ!」
盗賊の一人が、アルヴィンの言葉を遮ってクロスボウを放った。 狙いはアルヴィンではない。後ろにいたエリアナだ。
「きゃあ!」 「エリアナ!」
矢はエリアナの聖衣を掠め、彼女は悲鳴を上げて尻餅をついた。 その瞬間、アルヴィンの表情が変わった。
「……よくも」
殺気。 だが、それは戦士の練り上げられた殺気ではない。子供が積み木を崩されて激昂したような、純粋で制御不能な怒りだった。
「僕の仲間に、手を出すな!」
アルヴィンは聖剣を抜き放ち、突っ込んだ。 手加減? 峰打ち? そんな器用なことができる精神状態ではなかったのだろう。あるいは、彼の「出力」が高すぎて、加減が効かなかったのか。
ドン! という衝撃音と共に、先頭にいた盗賊の上半身が消し飛んだ。 文字通り、破裂したのだ。 聖剣の圧倒的なエネルギーに耐えきれず、人間の肉体など紙細工のように弾け飛んだ。
「ひ、ひぃ……!?」
残りの盗賊たちが悲鳴を上げる間もなかった。 アルヴィンは横薙ぎに剣を振るった。 真空の刃が走り、さらに三人の男が、今度は腰から真っ二つに切断された。 臓物が撒き散らされ、街道が鮮血の海に変わる。
あまりの惨状に、残りの盗賊たちは武器を捨てて逃げ出そうとした。 だが、俺はそれを見逃さなかった。背中を見せた敵は、ただの的だ。
「逃がすかよ」
俺は冷静に槍を突き出し、逃げ遅れた一人の心臓を背後から貫いた。 手首を捻り、確実に絶命させる。 フェイもまた、無言で火の玉を放ち、一人を黒焦げにした。
戦闘――いや、虐殺は一分とかからずに終わった。
生き残った者はいない。 地面には、人間の形を留めていない肉塊と、鉄錆びた血の臭いだけが残された。
「あ……あ、あ……」
アルヴィンは、自分のしたことが信じられない様子で立ち尽くしていた。 返り血で真っ赤に染まった黄金の鎧。 足元に転がる、自分と同じ言葉を話す人間の残骸。 魔物を倒した時のように、光の粒子になって消えてはくれない。そこにあるのは、生々しい死体だけだ。
「う、ぅぷ……!」
彼は聖剣を取り落とし、その場に膝をついて嘔吐した。
そして、今に至る。
俺は磨き終えた槍を置き、布を燃やすために火の中へ放り込んだ。 血のついた布が黒い煙を上げて燃えていく。
「……グレン」
掠れた声が聞こえた。 顔を上げると、アルヴィンが虚ろな目で俺を見ていた。
「君は……平気なのかい?」 「何がです?」 「だって、彼らは人間だった。魔族じゃない。僕たちと同じ……人間だったんだぞ」
彼は救いを求めるように俺に問いかけた。 「俺も辛い」「仕方なかった」。そんな共感の言葉を待っているのだろう。 だが、俺はそんな優しい嘘をつくつもりはなかった。
「人間だろうが魔族だろうが、殺しに来たなら敵です」
俺は淡々と答えた。
「殺らなきゃ殺られる。それだけの話でしょう。現に、エリアナ様が狙われた。あなたが躊躇していたら、今頃エリアナ様の胸に矢が突き刺さっていたかもしれませんよ」 「そ、それはそうだけど……!」
アルヴィンは頭を抱えた。
「でも、殺す必要はなかった! 僕の力なら、武器だけを壊すことも、気絶させることもできたはずだ! なのに、僕は……カッとなって……!」
「できませんよ」
俺は彼の言葉を遮った。
「あなたに対人戦の経験がないから、できなかったんです。手加減というのは、相手の力量と自分の力量を冷静に見極められる奴だけができる『強者の特権』です。今のあなたには、その技術がなかった。それだけです」
「技術……」 「ええ。あなたは魔物を『消し飛ばす』ことしか知らない。人間を『無力化する』方法は学んでこなかった。だから殺した。結果論です」
俺の言葉は、慰めではなく刃として彼に突き刺さったようだ。 アルヴィンは唇を噛み締め、俯いた。
「……野蛮ですね」
今まで黙っていたエリアナが、震える声で口を挟んだ。
「グレンさん、あなたは……人の命を奪うことに、何も感じないのですか? 神が与えた尊い命を、あんな風に……ゴミのように扱うなんて」
彼女の目は潤んでいた。 だが、その非難の矛先は、惨殺を行ったアルヴィンではなく、淡々と処理を終えた俺に向けられている。 アルヴィンの行為は「不可抗力の悲劇」、俺の行為は「冷酷な殺人」。そう変換されているのだ。
「聖女様」
俺は冷めた目で彼女を見返した。
「俺は兵士です。綺麗な祈りで敵が死んでくれるなら苦労はしません。俺の手はとっくに汚れているのですよ」
俺は視線をアルヴィンに戻し笑顔で言う。
「勇者様。ようこそ、こちらの世界へ」
「え……?」
「魔物を倒して英雄と崇められる、綺麗な表舞台だけが戦場じゃありません。人を殺し、恨まれ、その血の臭いを背負って飯を食う。それが俺たちのいる『泥沼』です」
俺は焚き火に薪をくべた。 火の粉が舞い上がり、アルヴィンの青ざめた顔を照らす。
「あなたは今日、初めてその泥に足を突っ込んだ。……どうです? 意外と冷たくて、気持ち悪いでしょう」
アルヴィンは何も言い返せなかった。 ただ、自分の手をじっと見つめている。 彼の中で、何かが音を立てて崩れ去っていた。 「正義の味方」という無垢な偶像が砕け、罪を背負った一人の人間としての重みが、その双肩にのしかかっているのだ。
「……酒」
沈黙を破ったのは、フェイだった。 彼女は俺に空になったカップを突き出した。
「グレン、強い酒を出して。……今日は酔わなきゃ眠れない」 「ああ、同感だ」
俺は懐から、ゼルトの街で買った度数の高いスピリッツを取り出し、彼女のカップに注いだ。 フェイはそれを一気に煽り、乱暴に口元を拭った。
「……あたしは、あんたのやり方を否定しないよ」
フェイは小声で、俺にだけ聞こえるように言った。
「綺麗事じゃ守れないものがある。……でも、あいつらには刺激が強すぎたみたいだね」 「いい薬だろ。魔王城に行けば、もっと酷いもんを見る羽目になる」
俺は自分の分も注ぎ、一口飲んだ。 喉が焼けるような熱さ。 だが、この熱さだけが、今の冷え切った空気を誤魔化してくれた。
アルヴィンはもう喋らなかった。 膝を抱え、闇を見つめるその背中は、昨日まであんなに大きく見えたのに、今はひどく小さく、脆く見えた。
(……脆いな)
俺は思った。 力は最強でも、心は温室育ちの子供だ。 一度の殺人でここまで折れるなら、この先、もっと残酷な選択を迫られた時、こいつは壊れるかもしれない。
だが、不思議と「ざまあみろ」という気持ちは湧かなかった。 ただ、圧倒的な強者が、俺たちと同じ「人殺し」のラインまで落ちてきたことに対する、奇妙な安堵感があった。
(これで少しは、対等になれたか?)
いや、まだだ。 こいつはまだ、自分の正義を信じている。 「次は殺さない」「次は救ってみせる」。そんな甘い決意を固めようとしているのが分かる。
俺は残った酒を飲み干し、毛布を頭から被った。 眠ろう。 明日の朝、この「英雄」がどう変わっているか、あるいは変わらないか。 それを見届けるのも、俺の役割なのだから。




