2日の楽園
夢のような時間は、瞬きする間に過ぎ去るものだ。 商業国家ゼルトでの滞在は、わずか二日で終わりを告げた。
「さあ、みんな! 英気は養えたかな? 今日からまた張り切って行こう!」
宿のロビーに、勇者アルヴィンの明るすぎる声が響く。 彼は新品同様に磨き上げられた黄金の鎧をまとい、朝の太陽そのもののような輝きを放っていた。 その隣には、純白のローブを新調した聖女エリアナ。 「勇者様、そのマントの留め具、素敵ですわ!」「ありがとう、エリアナが選んでくれたおかげだよ」と、朝から砂糖を吐きそうな会話を繰り広げている。
俺は、重たくなった胃袋と、少しだけ軽くなった財布(中身は自分の金ではないが)を確認しながら、深いため息をついた。
最高級のベッド。 熱い湯が満たされたバスタブ。 そして、死ぬほど食った肉と酒。
確かに、体は回復した。軍隊に入って以来、これほど人間らしい扱いを受けたことはない。 だが、その快適さが逆に仇となる。 一度「暖かさ」を知ってしまった体は、これから戻る冷たい泥道の感触を想像するだけで、拒絶反応を起こしていた。
「……帰りてぇ」 「奇遇ね。あたしも今、全く同じことを考えてた」
俺の隣で、魔導師フェイが紫のサングラスをかけながら呟いた。 彼女の顔色は、陶器のように白いが、その奥にはどんよりとした疲労感が漂っている。二日酔いだ。それも、致死量に近いアルコールを摂取した翌日の、重度のやつだ。
「水……誰か、聖なる水を……」 「自業自得だろ。昨日、あれだけ飲めばな」
俺は苦笑しながら、腰の水筒を彼女に渡した。 フェイはそれを引ったくり、砂漠の砂が水を吸うような勢いで煽った。
フェイ・クロウリー。 この気だるげな宮廷魔導師が、まさか「ザル」を超えた「ワク」だとは、この二日間で知った一番の驚きだった。
昨夜の光景が脳裏に蘇る。
俺とフェイは、アルヴィンたちの「高尚なディナー」から早々に抜け出し、街の裏通りにある大衆酒場へと繰り出した。 そこは、傭兵や荒くれ者が集まる、煙草と安酒の臭いが充満する場所だ。 本来なら、王宮の魔導師が足を踏み入れるような場所ではない。
だが、フェイは水を得た魚のようだった。
「親父! 強い酒! 度数が高ければ何でもいいわ!」
彼女はカウンターに座るなり、エールのジョッキを水のように干し、次はウィスキー、その次は蒸留酒と、次々にグラスを空けていった。 最初は「女連れかよ」と揶揄っていた周りの荒くれ者たちも、次第に静まり返り、やがて畏敬の念を抱き始めた。
「おいおい、姉ちゃん……その酒、ドワーフ殺しのスピリッツだぞ? ストレートで飲むもんじゃ……」 「うるさいわね。アルコール消毒中なのよ。……ぷはぁっ!」
フェイは顔色一つ変えず、空になったボトルをドン! とテーブルに叩きつけた。 その飲みっぷりたるや、豪快を通り越して清々しかった。 日頃の鬱憤、勇者へのストレス、理不尽な世界への不満。それら全てを液体と共に胃の腑へ流し込み、消化しようとしているような気迫。
「グレン、あんたも飲みな! 勇者の金よ! 飲まなきゃ損!」 「……お前、いつか肝臓が爆発するぞ」 「その時は魔法で新しいのを作るわよ!」
彼女はケラケラと笑い、俺の肩をバンと叩いた。 その笑顔には、いつもの冷めた皮肉はなく、ただの「酔っ払いの姉ちゃん」としての愛嬌があった。 俺もつられて笑い、安いエールを煽った。
不思議と、見ていて気持ちがよかった。 勇者や聖女が見せる「上品な食事」が俺をイラつかせるのに対し、フェイの「破滅的な飲み方」は、俺の心の澱を一緒に洗い流してくれる気がしたからだ。 こいつも必死なんだ。 天才たちの光に焼かれないよう、必死に自分を麻痺させて戦っている「同志」なんだと確認できた夜だった。
「……あー、頭痛い。世界が回ってる」
現在に戻る。 フェイは水筒を俺に返すと、ふらつく足取りで杖を突いた。
「回復魔法、かけなくていいのか?」 「二日酔いを魔法で治すのは邪道よ。この痛みこそが、生きてる証……」 「わけが分からん」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。 この二日間で、俺とフェイの連帯感は確実に強まっていた。 「共犯者」としての絆が。
出発の直前、俺たちは装備を整えるために武器屋へ立ち寄った。
「いらっしゃい! なんだなんだ、随分と豪華なご一行だねぇ!」
店主が目を丸くする。 狭い店内には、剣、槍、斧、鎧が所狭しと並べられている。 俺は自分の槍――使い古した鉄の槍をカウンターに置いた。
「親父、こいつの穂先を研いでくれ。あと、柄に亀裂が入ってる。補強してほしい」 「あいよ。……随分と使い込んでるねぇ。こりゃあ、安物の量産品かい? 芯までガタがきてるぞ」
店主は槍を手に取り、渋い顔をした。 確かに、この槍とはもう五年以上の付き合いだ。手入れは欠かしていないが、度重なる激戦で金属疲労が限界に近い。
「直せるか?」 「直せるが……新品を買った方が安いかもしれんぞ」
店主が壁に掛かった新品の槍を指差した時だ。 後ろから、能天気な声が割って入った。
「それなら、これを買いなよグレン!」
アルヴィンだ。 彼は店の一番奥、ガラスケースに入った豪華な槍を指差していた。 穂先には魔力を帯びた銀が使われ、柄には宝石が埋め込まれている。貴族が儀礼用に使うような、美術品に近い武器だ。
「『白銀の突撃槍』……! こいつは業物だぜ。ミスリル合金製で、切れ味は鉄の五倍だ」
店主が色めき立つ。 アルヴィンはニコニコと俺の背中を叩いた。
「僕からのプレゼントだ! 君にはもっと良い武器が必要だと思っていたんだ。あのボロボロの槍じゃ、君の実力に見合わないよ」
悪気はない。 知っている。こいつには一ミリも悪気がない。 「ボロボロの槍」と言われた俺の相棒が、まるでゴミ扱いされたような響きを持っていたとしても、彼は純粋に俺の戦力向上を願っているだけだ。
だが、俺は首を横に振った。
「……お気持ちはありがたいですが、結構です」 「え? どうして? お金なら心配いらないよ?」 「金の問題じゃありません」
俺はカウンターの上の、傷だらけの槍を撫でた。
「俺の技術は、この槍の『重心』と『重さ』に最適化されています。ミスリルの槍は軽すぎる。それに、あんな装飾がついた槍じゃ、泥の中で振り回す時にバランスが狂う」 「慣れればいいじゃないか。性能は絶対にそっちの方が上だよ?」
アルヴィンは不思議そうに首を傾げた。 彼は「天才」だから分からないのだ。 道具の性能差を、己の肉体感覚で埋める苦労を。 指先の皮一枚の感覚で、死線をくぐり抜ける凡人のこだわりを。 彼にとって武器とは「強ければ強いほどいいアイテム」でしかないが、俺にとっては「体の一部」なのだ。
「……俺には、こいつがお似合いなんです。親父、修理を頼む。研ぎは鋭く、柄には滑り止めの革を厚めに巻いてくれ」 「へいへい、分かったよ。職人気質だねぇ、兄ちゃんは」
店主はニヤリと笑い、俺の槍を奥の工房へと持っていった。
「ふうん……。グレンは頑固だなぁ」
アルヴィンは残念そうに肩をすくめた。 その様子を見ていた聖女エリアナが、チクリと刺す。
「勇者様のご厚意を無にするなんて。……やはり、三流の兵士は一流の道具を恐れるのですね。豚に真珠、猫に小判ですわ」 「まあまあ、エリアナ。人には好みがあるからさ」
俺は拳を握りしめ、じっと耐えた。 分からなくていい。 お前らのような、生まれた時から最高級の装備を与えられ、才能という翼で空を飛ぶ連中に、地べたを這う蟻の意地など分かるはずがない。
(いいさ。この鉄屑の槍で、いつかお前のその煌びやかな鎧を貫いてやる)
修理を終えて戻ってきた槍は、鈍く光っていた。 手に馴染む重さ。革の感触。 これだ。これがあれば、俺はまだ戦える。
準備は整った。 俺たちはゼルトの街を出て、北門へと向かった。
門の外には、どこまでも続く荒野が広がっている。 ここから先は、魔物の支配領域だ。宿もなければ、安全な道もない。
「さあ、行こう! 魔王城はまだ遠い!」
アルヴィンが聖剣を掲げ、先頭を切って歩き出す。 その背中は、相変わらず憎らしいほど堂々としていて、一点の曇りもない。
「……はぁ。また野宿の日々か」 「日焼け止め、買い足しておけばよかった」
俺とフェイは、深いため息をついてその後に続いた。
風が変わった。 街の匂いが消え、乾いた土と、魔物の獣臭さが混じった風が吹いてくる。
俺は槍を握り直し、兜の緒を締めた。 楽しかった休日は終わりだ。 ここからはまた、神経をすり減らす「お守り」の旅が始まる。 だが、今の俺には、前とは違う感情が一つだけあった。
懐には、フェイと飲み明かした時にくすねてきた、安酒のスキットルが入っている。 そして手には、俺の意地を通して守り抜いた愛槍がある。
(やってやるよ)
勇者のためではない。世界のためでもない。 ただ、この理不尽な旅路の果てに、俺という存在を証明するために。 そしていつか訪れる「その時」のために。
「グレン! 遅れるよ!」 「……今行きます、勇者様」
俺は努めて従順な声を出し、光り輝く背中を追いかけた。 その影の中に、冷たい覚悟を隠して。




