商業国家ゼルト
国境の峠を越え、俺たちが第二の国――商業国家ゼルトの巨大な城壁に辿り着いたのは、翌日の夕暮れ時だった。
空は燃えるような茜色に染まり、長く伸びた俺たちの影が、石畳の街道に焼き付いている。
「やっと着いたね! ここがゼルトかぁ、活気がありそうだ!」
先頭を行く勇者アルヴィンは、二日間の野営と強行軍をこなしたとは思えないほど元気だった。 一方の俺とフェイは、泥と埃にまみれ、幽鬼のような顔でその後ろをついて歩いている。
「……風呂に入りたい。それから、アルコール消毒が必要だわ」 「同感だ。足の裏のマメが潰れて、靴の中で固まってるのがわかる」
俺たちは怨嗟の声を漏らしながら、巨大な関門を見上げた。 国境警備の兵士たちが、鋭い目つきでこちらを睨んでいる。 通常なら、ここでの検問に一時間はかかる。身分証の提示、荷物検査、賄賂の要求……平民の旅なら日常茶飯事のダルい手続きだ。
「止まれ! 何者だ!」
兵士の怒号が飛ぶ。 俺が慣れた手つきで通行証を取り出そうとした、その時だ。
アルヴィンが兜を脱ぎ、輝く黄金の髪をさらりと揺らした。
「お疲れ様です。勇者アルヴィンです。魔王討伐の旅で、通行許可をいただきたいのですが」
一瞬の静寂。 次の瞬間、兵士たちの顔色が青から赤、そして白へと目まぐるしく変わった。
「ゆ、勇者様ァーーッ!?」 「失礼いたしました! すぐに開門を! おい、隊長をお呼びしろ!」
轟音と共に、重厚な鉄の門が開かれていく。 荷物検査? ない。 尋問? あるわけがない。 俺たちは、まるで王族の凱旋パレードのように、フリーパスで国境を越えた。
「すごいですね、勇者様! どこの国でも顔パスなんて!」
聖女エリアナが誇らしげにアルヴィンの腕に絡みつく。 俺とフェイは、慌てふためく兵士たちの横を無言で通り過ぎた。
(……楽でいいよな、有名人は)
俺がかつて傭兵としてここを通った時は、槍の柄の中に隠した金貨を見つからないかヒヤヒヤしたものだが。 勇者の威光というやつは、国境の法律すら紙切れに変えてしまうらしい。
商業国家というだけあって、街並みは洗練されていた。 レンガ造りの建物が並び、市場からは香辛料と焼き肉のいい匂いが漂ってくる。
アルヴィンが選んだ宿は、街の中央広場に面した『黄金の獅子亭』。 一泊で俺の軍隊時代の月給が吹き飛びそうな、超高級宿だ。
「四名ですね! 最上階のスイートをご用意いたします!」
宿の主人が揉み手で出迎える。 俺はふかふかの絨毯を踏みしめながら、少しだけ居心地の悪さを感じていた。 俺の本来の居場所は、裏通りの安宿の、ノミがいる煎餅布団だ。こんなシャンデリアの下は落ち着かない。
だが、食堂に漂う匂いを嗅いだ瞬間、そんな躊躇いは吹き飛んだ。
「さあ、みんな! 今日は疲れを癒やすために、好きなものを食べてくれ! 王家からの活動資金があるから、遠慮はいらないよ!」
アルヴィンのその言葉だけは、この旅で唯一、俺が心から「支持」できるものだった。
「……言質は取ったわよ」
フェイの目が、怪しく光った。
十分後。 宿の一階にある広い食堂のテーブルには、皿が載る隙間もないほどの料理が並べられていた。
厚切りの牛肉のステーキ。ニンニクとバターの香りが食欲を暴れさせる。 川魚のムニエル、ハーブ添え。 山盛りのフライドポテト。 新鮮な野菜のサラダに、とろりとしたチーズフォンデュ。 そして、バスケットから溢れるほどの、焼きたての白パン。
「い、いただきます……!」
俺は震える手でナイフとフォークを握り、目の前の肉に突き立てた。 口に運ぶ。 噛み締めた瞬間、肉汁が口の中に溢れ出した。
(うっ、ま……)
涙が出そうだった。 昨日の夜は、老人の家の質素なスープ。その前は、硬い干し肉と水。 軍隊時代も、こんな上等な肉など食べたことはなかった。 俺の舌と胃袋が、歓喜の悲鳴を上げている。
俺は無言で、獣のように肉を貪った。 柔らかい白パンをちぎり、肉の脂とソースを拭って口に放り込む。 そして、冷えたエールを喉に流し込む。
「ぷはぁっ……!」
生きている。 理不尽な劣等感も、勇者への殺意も、この瞬間だけは肉の脂でコーティングされて消えていく。
「……グレン、すごい食欲だね」
対面の席で、アルヴィンが目を丸くしていた。 彼はナイフとフォークを貴族らしく優雅に使いこなし、一口ずつ味わって食べている。
「ええ、まあ。……体力が資本ですから」
俺は口の周りのソースを拭いもせず、二枚目のステーキに手を伸ばした。 恥じらいなど知ったことか。 食える時に食う。溜め込める時に溜め込む。それが底辺を這う兵士の鉄則だ。
「ふふ、見てください勇者様。まるで『飢えた野良犬』みたいですわ」
エリアナが、クスクスと笑いながら毒を吐いた。 彼女の手元には、彩り豊かなサラダと、小ぶりな魚料理だけが置かれている。
「平民の方は、こういう時にお腹がはち切れるまで詰め込もうとなさるのですね。『明日にはもう食べられないかも』という危機感が、骨の髄まで染み付いているのでしょう。……可哀想に」
彼女は憐れむような目で俺を見た後、自分の皿の魚を綺麗に切り分け、アルヴィンの口元に差し出した。
「はい、勇者様。あーん」 「えっ、いいよエリアナ、自分で食べるから」 「ダメです! 勇者様の手は剣を握るためのもの。少しでも休ませてください!」
イチャイチャしやがって。 俺は心の中で毒づきながら、その「野良犬の食べ方」で骨付き肉にかぶりついた。 ああ、そうだ。俺は野良犬だ。 だから、お上品な飼い犬には分からないこの「骨の髄の美味さ」までしゃぶり尽くしてやる。
隣を見ると、フェイも負けていなかった。 彼女の前には、料理よりも酒瓶が林立していた。 赤ワイン、白ワイン、蒸留酒。
「……うぃ。店主、このチーズの盛り合わせ、おかわり。あと、一番強い酒持ってきて」 「飲みますねぇ、フェイ」 「飲まなきゃやってられないのよ。……あー、肝臓に染みる」
彼女は既に目が座っていたが、フォークでチーズを捕まえる手つきだけは職人のように正確だった。
「グレン、あんたも飲みな。このワイン、一本で一般兵の月給くらいするわよ」 「マジか。……もらう」
俺はフェイからボトルを奪い取り、グラスになみなみと注いだ。 高い酒の味がする。 喉越しが滑らかで、後から芳醇な香りが鼻に抜ける。 俺たちが普段飲んでいる、泥水みたいな安酒とは別次元の液体だ。
「美味しいかい、二人とも?」
アルヴィンが、聖女に口を拭いてもらいながらニコニコと聞いてくる。 この男は、俺たちがガツガツと飲み食いしているのを「卑しい」とは微塵も思っていない。 むしろ、「お腹いっぱい食べてくれて嬉しいな」という、飼い主のような慈愛に満ちている。 それがまた、猛烈に腹が立つ。
「……ええ。最高に美味いです。一生分の運を使い果たした気分ですよ」
俺は皮肉を込めて言ったが、アルヴィンには通じなかった。
「よかった! まだ旅は始まったばかりだ。これからも美味しいものをたくさん食べて、英気を養おう!」
彼はグラスを掲げた。
「世界平和のために、そして僕たちの結束のために。乾杯!」
「……乾杯」
俺とフェイは、死んだような声で唱和し、グラスを合わせた。 結束? 笑わせるな。 今、俺たちが繋がっているのは「高い酒と肉への執着」だけだ。
だが、今はそれでいい。 俺は三枚目のステーキを皿に乗せ、口いっぱいに頬張った。 噛み締めるたびに溢れる肉汁。 この幸福感だけは、勇者に奪わせない。
窓の外では、ゼルトの街の灯りが星のように瞬いている。 腹が満たされるにつれて、俺の思考は少しだけ鈍り、そして少しだけ残酷になった。
(食ってやる)
俺はステーキを見つめた。 これも、あの勇者の金だ。勇者の名声のおこぼれだ。 だったら、食い尽くしてやる。 肉も、酒も、金も、名声も。 今はただの「寄生虫」かもしれないが、いつか必ず、その内側からお前を食い破ってやる。
「おかわりだ! 肉を持ってこい!」
俺は店員に向かって叫んだ。 その声は、自分でも驚くほど猛々しく、そして少しだけ楽しげに響いた。




