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魔王戦、戦死者一人と帰還者三人  作者: ヤスナー


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2/15

勇者は化物だ。

街道沿いの森が夕闇に沈んでいく。 俺たちのブーツが土を踏む音だけが、静寂の中に響いていた。

王都を出発して数時間。俺、グレンの足取りは鉛のように重かった。 肉体的な疲労ではない。精神が、徹底的に打ちのめされていたからだ。

馬はオーガとの戦闘で足に怪我をしたから置いていった。

脳裏に焼き付いているのは、先ほどのオーガ戦の光景だ。 身長三メートルの巨体。鋼鉄のごとき皮膚。 俺たち一般兵が遭遇すれば、遺書を書く暇もなくミンチにされる「森の処刑人」。 それを、あの勇者アルヴィンは、あろうことか素手で――それも、蚊を払うような「裏拳」一発で粉砕した。

剣技ですらない。 呼吸法も、足運びも、重心移動も関係ない。 ただ、そこに「圧倒的なエネルギーの塊」が存在し、理不尽な出力で敵を消し飛ばした。それだけの現象。

(……やってられるかよ)

俺は背負った槍の重さを確かめるように肩を揺すった。 俺がこの槍一本で生き抜くために、どれだけの夜を震えて過ごし、どれだけの傷を負い、どれだけの屍を乗り越えてきたと思っている。 「膝の関節を狙う」「視界を奪う」「数的有利を作る」。 そんな俺の戦術論など、あの光の前ではゴミ屑同然だった。

「あ! 見て、アルヴィン様! 小屋がありますわ!」

沈んだ空気を切り裂いたのは、聖女エリアナの黄色い声だった。 彼女が指差す先、木々の切れ間に、古ぼけたログハウスが建っていた。煙突から細く煙が上っている。

「本当だ。誰か住んでいるのかな。挨拶していこう」

勇者アルヴィンは、まるでピクニックに来たかのような足取りで向かっていく。 俺と、後ろを歩く魔導師のフェイは、無言で顔を見合わせた。

「……元気だねぇ、あの二人は」 「ああ。燃費の構造が違うんだろうさ」

フェイはけだるげに紫煙を吐き出し、俺はため息をついた。

小屋は、ひどく粗末な作りだった。 軒先には乾いた薪が無造作に積まれ、扉の蝶番は錆びついている。 アルヴィンがその扉を叩いた。

「ごめんください! 旅の者ですが!」

返事はない。 代わりに、ドスドスという重い足音が近づき、扉が乱暴に開かれた。

「――うるせえな、誰だ」

現れたのは、枯れ木のような老人だった。 腰は直角に近いほど曲がっているが、眼光だけは猛禽類のように鋭い。手には薪割りの斧が握られている。

「なんだ、お前らは。煌びやかな格好をしおって。サーカスの一団か?」

老人の視線が、アルヴィンの黄金の鎧と、エリアナの純白の神官服に向けられる。 無理もない。この薄汚い森の中で、彼らはあまりに浮いている。

「いえ、僕は勇者アルヴィン。魔王討伐の勅命を受けて旅をしている者です」 「勇者? 知らんな。王都の流行り事になど興味はない」

老人は鼻を鳴らし、扉を閉めようとした。 だが、その動きがピタリと止まる。老人の顔が苦痛に歪み、腰を抑えてうめき声を上げたのだ。

「ぐ、ぅ……!」 「お爺さん!?」

アルヴィンが慌てて老人を支える。 エリアナもすかさず駆け寄った。

「大丈夫ですか? 腰を痛めているのですね……今、癒やしの奇跡を」 「いらん! 魔法など信用できるか!」

老人は頑固に手を払いのけた。 そして、脂汗を流しながら、忌々しげに森の奥、切り立った崖の方角を睨みつけた。

「……持病のヘルニアだ。『赤月草』さえあれば鎮まるんだが……よりによって一番高い場所にしか生えやがらねえ」 「赤月草?」 「あの崖の上だ。足場が悪くて、今のわしにはとても登れん。……チッ、今日は痛みが引きそうにないな」

老人の言葉を聞いた瞬間、アルヴィンの碧眼が輝いた。 嫌な予感がする。俺が止める間もなく、彼は老人の手を両手で握りしめた。

「任せてください! 僕たちが取ってきます!」

出た。勇者特有の「お節介」だ。 魔王を倒す旅の途中で、名もなき老人の腰痛治療を引き受ける。物語なら美談だが、付き合わされる従者にとっては残業確定の合図でしかない。

「おい、若いの。あの崖は、熟練の猟師でも滑落して死ぬほどの難所だぞ」 「問題ありません。困っている人を助けるのが、勇者の務めですから!」

アルヴィンは輝く笑顔で即答し、俺たちを振り返った。

「よし、みんな! 老人のために一肌脱ごう! 日が暮れる前に『赤月草』を採取するんだ!」

俺は天を仰ぎ、フェイは深く帽子を目深にかぶった。 拒否権はない。俺たちのリーダーは、ブレーキの壊れた善意の塊なのだから。

小屋から数百メートルほど森を進んだ先に、その崖はあった。 「崖」というよりは、もはや「壁」だった。 垂直に切り立った岩肌は苔で濡れており、突起という突起が風化して崩れかけている。見上げれば、首が痛くなるほどの高さに、赤い花のような草がポツンと生えているのが見えた。

「……なるほど。こいつは骨が折れるな」

俺は「仕事モード」に切り替え、崖の下に荷物を下ろした。 地形を見る。風向きを読む。岩の強度を確認する。 俺のジョブは槍使いだが、軍隊時代には偵察や山岳行軍も叩き込まれている。この程度の崖なら、登れないことはない。

「フェイ、援護を頼む。俺が登る。滑落したら『浮遊魔法』でキャッチしてくれ」 「了解。……でもグレン、あんたの出番、あると思う?」

フェイの冷めた指摘に、俺は手を止めた。 俺がロープを取り出し、靴の紐を締め直している横で、アルヴィンが屈伸運動をしている。

「グレン、準備はいいかい? でも、危ないから下がっていてほしいな」 「……はっ。ですが勇者様、この岩肌は脆いです。鎧を着たままでは自重で足場が崩れます。まずは俺が先行してルートを確保し……」

俺の提案は、最後まで聞いてもらえなかった。

「大丈夫! 行くよ!」

ドォン! 大砲の発射音のような爆音が響いた。

俺がまばたきをした瞬間、目の前にいたはずの勇者の姿が消えていた。 代わりに、地面がクレーターのように陥没している。 見上げれば、遥か上空、崖の中腹あたりを金色の光が垂直に駆け上がっていた。

登攀? いや、違う。あれは「ジャンプ」だ。 たった一回の跳躍で、彼は崖の半分まで到達し、そこから突き出た岩を足場にして、再び空へと舞い上がった。

「よいしょっ!」

軽い掛け声と共に、彼は頂上付近に着地……いや、激突した。 その衝撃で崖の一部がガラガラと崩れ落ちてくる。

「あっ、ごめん! ちょっと力みすぎちゃった!」

上空から能天気な声が降ってくる。 数秒後。 彼は「赤月草」を片手に、鳥が舞い降りるような優雅さで、俺たちの目の前に着地した。

「取れたよ! これでお爺さんも助かるね!」

爽やかな笑顔。乱れぬ呼吸。 俺の手には、結びかけたロープと、岩に打ち込む金具が虚しく残されていた。

「……早いですわ勇者様! まるで天馬のよう!」

エリアナが拍手喝采を送る。 フェイは「はぁ」と溜息をつき、俺の肩をポンと叩いた。

「ドンマイ。……片付けようか、そのロープ」 「……ああ。そうだな」

俺は無表情で道具を鞄にしまった。 俺がルートを見極め、足場を確保し、慎重に登れば三十分はかかる難所。 それを彼は、わずか五秒で解決した。

足の筋肉のバネだけで。 技術も、経験も、道具も、何もかもを無視して。

(俺がいる意味、あるのか?)

その問いが、胸の中で黒い檻のように広がっていく。 老人のために薬草を取る。それは良いことだ。正しいことだ。 だが、その「正しさ」が行われるたびに、俺という人間の存在価値が削り取られていく気がした。

小屋に戻ると、老人は腰を抜かさんばかりに驚いていた。 「バカな……あの崖を、もう登ってきたのか?」 「はい! さあ、これを煎じて飲んでください」

アルヴィンに薬草を渡され、老人は震える手でそれを受け取る。 そして、彼を見る目が変わった。 最初は「不審な若造」を見る目だったのが、今は「人知を超えた何か」を見る目になっている。それは畏敬であり、同時に恐怖を含んでいた。

「……あんた、一体何者だ?」 「勇者アルヴィンです。通りすがりの」

彼は誇らしげに胸を張る。 俺は小屋の隅で、その光景をぼんやりと眺めていた。 まるで英雄譚のワンシーンだ。完璧すぎて、反吐が出る。

その夜。 老人の好意で、俺たちは小屋に泊めてもらうことになった。 夕食は、老人が育てた野菜をふんだんに使ったポトフと、俺たちが持参した干し肉。 そして、老人が「礼だ」と言って出してくれた、自家製の林檎酒。

狭い小屋の中、暖炉の火がパチパチと爆ぜる。 部屋の中央にあるテーブルでは、アルヴィンとエリアナが、老人を囲んで談笑している。

「へえ! 昔はこの森にも魔物が少なかったんですね」 「ああ。だが最近は妙な気が満ちておる。……勇者様よ、どうかこの世界を救ってくだされ」 「任せてください! 必ず平和を取り戻してみせます!」

キラキラとした空間。 そこには「希望」があり、「信頼」があり、「正義」がある。

俺は、そこから少し離れた窓際、埃っぽい床に胡座をかいていた。 隣には、同じくその輪に入り損ねた魔導師フェイがいる。

「……やってらんねえな」

俺は木のカップに注がれた林檎酒を一気に煽った。 酸味の強い、粗野な味だ。だが今の俺には、高級なワインよりこの安酒の方が性に合っていた。

「飲みなよ、グレン。酒くらいしか楽しみがないんだからさ」

フェイが手酌で自分のカップに酒を注ぎながら、気だるげに笑う。 彼女もまた、あの「主人公たちのテーブル」には背を向けていた。

「なぁ、フェイ」 「ん?」 「今日の昼間のことだ。あのオーガ戦」

俺は、酔いに任せて口を開いた。 誰かに言わなければ、胃の中で腐ってしまいそうだった。

「あいつ、最初剣を抜かなかったよな」 「うん。裏拳だったね。いい音がしたよ」 「俺はな、二十年槍を振ってきた。手の皮が何度剥けても、爪が何枚割れても振り続けた。そうやってやっと身につけたのが、『急所を正確に突く』という技術だ。オーガみたいな化け物を殺すには、目玉か、喉か、関節の隙間を狙うしかねえ。それが俺たちの『戦い』だろ?」

俺は自分の右手を見つめた。 無数の古傷。タコだらけの掌。 それは俺の勲章であり、誇りだったはずだ。

「だがあいつは、そんな理屈を全部すっ飛ばした。ただの『暴力』だ。技術の欠片もねえ。ただ出力が高いだけの、デタラメなエネルギーの放出。……あんなもんを見せられたら、俺が必死に磨いてきた槍術は、一体なんだったんだって思うよ」

「お遊戯」 フェイが短く呟いた。

「え?」 「あんたの技術も、あたしの魔法理論も、あいつの前じゃ『子供のお遊戯』ってことさ。……残酷だよねぇ」

彼女は自嘲気味に笑い、酒をすする。

「あたしだって、王立アカデミーを首席で卒業したんだよ? 論文だっていくつも書いた。魔法式を組む速さなら誰にも負けない自信があった。……でも、あいつを見てるとバカらしくなるよ。詠唱もなしに、魔力効率も無視して、ただ『うおーっ!』って念じるだけで天候が変わるんだから」

フェイの瞳には、俺と同じ「諦め」の色が浮かんでいた。 俺たちは似たもの同士だ。 凡人が必死に積み上げた石垣を、天才という名の巨人が踏み潰していく様を、一番近くで見せつけられる被害者同士。

「……崖登りもそうだ」

俺はカップに酒を継ぎ足した。

「俺がロープの結び目を確認している間に、あいつは空を飛んでた。俺の山岳スキルなんて、あいつの脚力の前じゃ無意味だった。……俺、このパーティに必要か? 荷物持ちなら馬でいいだろ」 「まあ、そう腐るなよ」

フェイが俺のカップに、自分のカップをカチンとぶつけた。

「少なくとも、あたしにはあんたが必要だよ。あいつらと二人きりになったら、あたし、三日でストレス死する自信がある」 「……違いない」

俺たちは小さく笑い合った。 その笑いは乾いていて、少し苦かった。

暖炉の方からは、アルヴィンの明るい笑い声と、エリアナの称賛の声が聞こえてくる。 「すごいです勇者様!」「いやあ、それほどでもないよ!」

光は明るければ明るいほど、影を濃く落とす。 俺たちはその濃い影の中で、膝を抱えて酒を飲むしかない。

「……いつか」

俺は、自分でも驚くほど低い声で呟いた。

「いつか、あいつが失敗すればいいと思う」 「おっと。それは危険な発言だねぇ」

フェイはニヤリと笑ったが、その目は笑っていなかった。

「あいつのその『デタラメな力』が通じない何かが起きて、あいつが泥にまみれて、泣きっ面を晒せばいい。……そうしたら、俺のこの惨めな気持ちも、少しは救われる気がするんだ」

それは、嫉妬というにはあまりに重く、呪いというにはあまりに静かな感情だった。「あいつが俺と同じ高さまで落ちてきてほしい」という昏い願望が、確かに俺の腹の底に根を張り始めていた。

「ま、期待せずに待とうよ」

フェイは飲み干したカップを床に置いた。

「どうせあいつは、どんなピンチも『愛と勇気』で吹き飛ばしちゃうんだろうけどね。……あーあ、早く研究室に帰りたい」

俺は無言で頷き、残りの酒を喉に流し込んだ。 アルコールが食道を焼き、胃の腑に落ちる。 その熱さだけが、今の俺が生きているという唯一の実感だった。

窓の外では、夜風がヒューヒューと鳴いている。 俺たちの旅はまだ始まったばかりだ。 この絶望的な格差と、逃げ場のない憂鬱を抱えたまま、俺たちは魔王の城へと歩き続けなければならない。

(畜生……)

俺は、暖炉の光に照らされて輝く勇者の横顔を、じっと睨みつけた。 その光が眩しければ眩しいほど、俺の中の闇は深く、静かに育っていくのを感じながら。

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