嗤う悪夢のその後で
『ヒッ、キキキ……! ギャハハハハハハハ!!』
笑い声が、鼓膜ではなく脳髄を直接揺らしていた。 それは、生物が発する歓喜の声ではない。ガラスを爪で引っ掻いたような、あるいは錆びついた鉄扉を無理やり抉じ開けたような、不快で、生理的な嫌悪感を催すノイズの奔流だった。
魔王城の玉座の間。 そこは今、この世ならざる地獄と化していた。
「――ぁあああああッ!!」
勇者アルヴィンが咆哮し、黄金の光を帯びた聖剣を振り下ろす。 一撃で城壁をも粉砕する破壊力。 だが、対峙する「黒い異形」――魔王は、それを避けることすらしなかった。
『アハハ! 痛イ! 痛イネェ! 楽シイネェ!!』
魔王の長い腕が鞭のようにしなり、聖剣の軌道を弾く。 その衝撃だけで、空間に衝撃波が走り、床の大理石が捲れ上がる。 俺は強風に煽られた木の葉のように吹き飛ばされ、柱の影に叩きつけられた。
「ぐ、ぅ……ッ!」
肺の中の空気が強制的に排出される。 俺は痛む体を叱咤し、顔を上げた。
そこにあるのは、「戦い」ではなかった。 二匹の怪物の、共食いだ。
アルヴィンは、もう言葉を発していなかった。 「不殺の誓い」? 「更生の余地」? そんな甘っちょろい理性は、戦闘開始から数分で消し飛んだ。 今の彼は、ただ目の前の理解不能な恐怖を排除するためだけに剣を振るう、光り輝く殺戮マシーンだった。
対する魔王は、終始笑っていた。 顔に空いた二つの虚ろな穴。半開きの口から覗く無数の歯。 腕が切断されても、胴体を裂かれても、その傷口から黒い泥のようなものを噴き出しながら、ケラケラと笑い続けている。
『モット! モット壊ソウ! ボクヲ、キミヲ、世界ヲ!!』
その笑い声を聞くたびに、俺の中の「正気」が削り取られていく気がした。 怖い。 純粋に、怖い。 魔王の強さではない。その「在り方」がだ。 痛みも死も恐怖も、すべてを「遊び」として消化する絶対的な狂気。
俺は槍を握りしめたが、足が動かなかった。
(……入れるかよ、こんなもん)
実力差がありすぎる。 俺の槍術は「人間」や「通常の魔物」を殺すための技術だ。 だが、あそこで暴れているのは理の外にいる存在だ。俺が飛び込んだところで、余波だけでミンチにされるのがオチだ。 俺は、ただの観客席にいる無力な子供だった。
「……う、あ……神よ、神よぉ……」
部屋の隅で、聖女エリアナが頭を抱えて蹲っている。 彼女の美しいドレスは埃まみれで、その瞳は恐怖で見開かれたままだ。 祈りすら形になっていない。 彼女の信仰していた神のご加護など、この圧倒的な悪意の前では紙切れ一枚の盾にもならないことを悟ってしまったのだろう。 完全に、心が折れている。無能だ。
「……くっ!」
その近くで、フェイが杖を構えていた。 彼女の顔色は蒼白だが、その目は死んでいない。 必死に攻撃の機会を窺っている。 だが、撃てない。
「速すぎる……! 今撃ったら、アルヴィンにも当たるわ!」
そう、二人の動きはあまりに速く、そして入り乱れていた。 最大火力の魔法を撃ち込めば、魔王ごと勇者を消し炭にしてしまう。かといって、半端な魔法では魔王の「笑い声」でかき消されてしまう。 稀代の天才魔導師フェイですら、このデタラメな戦場では「足手まとい」でしかなかった。
俺たちは無力だった。 勇者パーティ? 笑わせるな。 結局のところ、世界を救う戦いなんてものは、選ばれた「特異点」同士の殴り合いでしかないんだ。 俺たちのような凡人が、泥を啜って、血を流して積み上げた努力など、彼らの踏み出す一歩で揺らぐ小石のようなもの。
『キャハハハ! 勇者! 勇者ァ! キミ、中身ガ空ッポダネ!』
魔王が嗤う。 その長い指が、アルヴィンの鎧を紙のように引き裂いた。 鮮血が舞う。
『ボクと一緒ダ! カラッポデ、壊レテテ、人殺シノ道具! 友達ニナロウヨ!』 「――ッ、黙れェエエエエ!!」
アルヴィンが絶叫した。 それは否定の叫びか、それとも図星を突かれた慟哭か。 彼の聖剣が、限界を超えた光を放つ。 命を削っている。寿命を燃やしている。 そうでなければ出せない出力だ。
「消えろぉおおおおおおおッ!!」
視界が白く染まった。 音すら置き去りにする、光の奔流。 俺はとっさにフェイを抱き寄せ、マントで覆って伏せた。
何時間が経っただろうか。 あるいは、ほんの数分だったのかもしれない。 永遠にも思える轟音と衝撃が止み、耳鳴りだけが残された静寂が訪れた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い呼吸音が聞こえる。 俺は恐る恐る顔を上げた。
部屋の中は、台風が通り過ぎた後のように荒れ果てていた。 壁は崩れ、ステンドグラスの一部は砕け散り、床はクレーターだらけだ。
その中央。 瓦礫の山の上に、二つの影があった。
一つは、仰向けに倒れた黒い異形。 そしてもう一つは、その上に馬乗りになり、剣を突き立てている黄金の影。
『ア……、ハ……。楽シ、カッ……タ……』
魔王の顔面。 そのポッカリと開いた眼球の穴の間に、聖剣が深々と突き刺さっていた。 脳天から串刺しにされ、床まで縫い付けられている。
魔王の半開きの口が、最後に微かに歪んだ。 それは満足げな笑みにも、子供が眠る前の安らぎにも見えた。 次の瞬間、黒い体躯がボロボロと崩れ始めた。 灰のように、砂のように。 絶対的な悪意は、ただの黒い粉となって霧散していく。
終わった。 魔王は、死んだ。
「……」
アルヴィンは、動かなかった。 突き立てた剣の柄を握りしめたまま、肩で息をしている。 その背中は小さく、ボロボロだった。 自慢の黄金の鎧は原形を留めておらず、全身傷だらけで、血に濡れている。
「……勝った……のか?」
俺は立ち上がった。 足が震えている。 フェイも、フラフラと立ち上がり、信じられないという顔でその光景を見つめている。 エリアナはまだ腰が抜けたままだが、事態を理解したのか「あ、ああ……」と涙を流し始めた。
誰も死んでいない。 奇跡だ。 あれだけの激戦で、俺たちは四体満足で生き残っている。 フェイの耳は失われたままだが、命はある。エリアナも、俺も。 そして勇者も。
「……おい、アルヴィン」
俺は瓦礫を乗り越え、勇者に近づいた。 彼は反応しない。立ったまま気絶しているのかと思った。
だが、俺がその肩に触れようとした瞬間。 彼がゆっくりと振り返った。
「……グレン?」
その顔を見て、俺は息を呑んだ。 憑き物が落ちたような顔だった。 戦っている最中の鬼のような形相でも、俺たちを罵倒した時の歪んだ顔でもない。 旅立ちの日、王城のテラスで見た、あの無垢で、世間知らずで、キラキラした「勇者」の顔。
「……終わったよ、グレン」
アルヴィンは、ふにゃりと笑った。 血と泥にまみれた顔で、子供のように。
「怖かったけど……なんとかなったね。あはは、足が動かないや」
彼は剣から手を離し、グラリと倒れそうになった。
「っと……」
俺は反射的に彼の体を支えた。 重い。 鎧の重さだけじゃない。この数週間、彼が一人で背負ってきた「世界の命運」という重圧が、その痩せた体にのしかかっているようだった。
「よくやった。……お前が倒したんだ」
俺は、自分でも意外なほど優しい声をかけた。 労い? いや、これは事実の確認だ。 俺じゃない。フェイでもない。この男が、一人で世界を救ったのだ。
「うん……へへ。勇者だからね、これくらいどうってことないさ」
アルヴィンは、俺の腕の中で強がってみせた。
「みんな無事? フェイも、エリアナも?」 「ああ。全員生きてる。死亡者ゼロだ。……大したもんだよ、お前は」 「よかったぁ……。僕、誰も死なせなかったんだね……」
彼は安堵のあまり、涙を滲ませた。 その瞳は澄み切っていた。 昨日の夜、俺の家族を侮辱したことなど、綺麗さっぱり忘れているかのように。 あるいは、魔王を倒したことで「全てが浄化された」とでも思っているのだろうか。
「……疲れただろう。少し休め」
俺はアルヴィンを支えたまま、玉座の間の奥、ステンドグラスの前へと移動した。 そこだけは奇跡的に破壊を免れていた。 描かれているのは、悪魔が人間を食らう地獄絵図だが、外からの僅かな光が差し込み、皮肉にも神々しい色彩を床に落としていた。
「フェイ、エリアナ。お前らはそこで休んでろ。勇者様の手当てをする」
俺は後ろの二人に声をかけた。 フェイは座り込み、まだ震えるエリアナの背中を擦っている。 こちらを見る余裕はない。
俺と勇者、二人きりだ。
俺はアルヴィンを、ステンドグラスの下の段差に座らせた。 彼は力なく壁にもたれかかり、天井を見上げた。
「……帰ったら、パレードかな」
アルヴィンが夢見心地で呟く。
「王様も喜んでくれるかな。……グレン、君にも褒美が出るよ。君の槍働き、すごかったからね」 「……ああ。そうだな」
俺は彼の正面に立った。 逆光で、俺の顔は影になって見えないはずだ。
「君の家族にも、いい暮らしをさせてあげられるよ。……昨日は酷いこと言ってごめんね。でも、これで全部チャラだよね? 僕たち、最高のパーティだったろ?」
最高のパーティ。 チャラ。
俺の口元が、自然と歪んだ。 笑っているのか、それとも泣きそうな形をしているのか、自分でも分からなかった。
こいつは、何も分かっていない。 俺がどんな気持ちで、お前の背中を見てきたか。 フェイがどんな思いで、千切れた耳を隠しているか。 あの村の連中が、どんな目で俺たちを見ていたか。
お前にとって、この旅は「英雄譚」だったんだろう。 苦難があり、仲間割れがあり、でも最後は魔王を倒してハッピーエンド。 俺たちの傷も、屈辱も、すべては物語を盛り上げるためのスパイス。 だから、終われば「チャラ」になる。
「……アルヴィン」
俺は静かに呼んだ。 右手は、腰の後ろに回している。 そこには、フェイと飲み明かした日に買った、護身用の短剣がある。 魔物を殺すための武器じゃない。 人を、確実に殺すための刃だ。
「なに? グレン」
アルヴィンは、無防備な笑顔で俺を見上げた。 首筋が無防備に晒されている。 脈打つ血管が見える。 あそこを断てば、数秒で終わる。
(……ああ、やっと終わる)
俺は思った。 魔王を倒した時よりも、深い納得がそこにあった。 俺の旅は、魔王を倒すことじゃなかった。 この、理不尽で、眩しくて、無神経で、圧倒的な「光」を消すこと。 それが、俺という「影」に課せられた、最後の仕事だったんだ。
「お疲れ様。……もう、頑張らなくていいぞ」
俺は言った。 それは、偽りのない本心だった。
「え……?」
アルヴィンが首を傾げた、その瞬間。
俺は右手を振り抜いた。
ズプッ。
肉を穿つ、湿った音。 手首に伝わる、確かな感触。
「……ッ、が……?」
アルヴィンの目が、極限まで見開かれた。 彼の喉元に、俺の短剣が深々と突き刺さっていた。 柄まで埋まるほどの一撃。
「あ、が……ヒュ、ウ……」
彼は声を出そうとしたが、空気の漏れる音しか出なかった。 口から、ごぼりと大量の血が溢れ出す。 鮮血が、彼のボロボロの黄金の鎧を、さらに赤く染め上げていく。
「な……んで……」
彼の瞳が、問いかけていた。 恐怖。混乱。そして、深い悲しみ。 信頼していた仲間に、一番安心した瞬間に殺されるという意味が、理解できていない。
俺は、彼の耳元に顔を寄せた。 抱きしめるように。支えるように。
「……勇者だから、これくらいどうってことないんだろ?」
俺は囁いた。 彼がさっき言った言葉を、そのまま返してやった。
「安心しろ。魔王は死んだ。世界は平和になる。……お前という、もう一人の怪物が消えれば、完璧なハッピーエンドだ」
アルヴィンの体が、ビクンと痙攣した。 俺の腕を掴もうと手が上がるが、力が入らない。 その手が、だらりと落ちる。 瞳から光が消えていく。 あの眩しかった碧眼が、急速に曇り、ただのガラス玉に変わっていく。
俺は短剣を引き抜いた。 血飛沫が、背後のステンドグラスに散った。 地獄絵図の悪魔の顔に、勇者の赤い血が掛かる。 それはまるで、悪魔が血の涙を流しているように見えた。
「……グレン?」
背後で、フェイの声がした。 俺はゆっくりと、勇者の死体を床に寝かせた。 彼は、目を開けたまま死んでいた。その表情は、最後に見た「何故」という問いかけのままで凍りついていた。
俺は立ち上がり、血塗れの短剣を持ったまま振り返った。 フェイとエリアナが、信じられないものを見る目で俺を見ていた。
「あ、あぁ……勇者様……!?」
エリアナが悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。 俺は無言で、彼女に切っ先を向けた。
「動くな」
低い声。 エリアナが凍りつく。
「魔王との戦いで、勇者は相打ちになった。……深い傷を負っていて、手当ての甲斐なく息を引き取った」
俺は淡々と、用意していた台本を口にした。
「……そうだろ? フェイ」
俺はフェイを見た。 彼女は、俺と、死んだ勇者と、俺の手にある短剣を交互に見ていた。 彼女の目は揺れていた。 だが、その奥にあるのは、非難ではなかった。 共犯者の目。 あの村で、俺が盗賊を虐殺した時に見せた、理解と諦めの混じった目だ。
「……グレン、あんた……」
フェイは唇を噛み締め、そして小さく息を吐いた。
「……そうね。見てたわ。魔王の最後の一撃が、勇者の急所に入ってた。……残念だけど、助からなかったわね」
彼女は、俺の嘘に乗った。 エリアナは「嘘よ! 今、あなたが!」と叫ぼうとしたが、フェイが冷たい声で制した。
「聖女様。……あんたも、生きて帰りたいでしょ? 勇者は名誉の戦死を遂げた。世界を救って死んだ。それでいいじゃない」
エリアナは俺の冷たい瞳と、フェイの暗い瞳を見て、押し黙った。 彼女もまた、ここで俺を敵に回せば、自分も「戦死」することになると悟ったのだ。
俺は短剣の血を、勇者のマントで拭き取った。 そして、それを鞘に納めた。
「……行こう。帰還報告だ」
俺は勇者の亡骸を一瞥もしなかった。 これでいい。 彼は伝説になった。永遠に若く、美しく、清廉潔白な英雄として、歴史に残る。 その裏で、俺という人殺しが手を下した事実は、闇に葬られる。
俺は足早に玉座の間を出た。 重い扉が開く。 外の空気は、まだ淀んでいたが、来る時よりは少しだけ軽く感じられた。
(やっと……終わった)
俺は空を見上げた。 雲の切れ間から、薄日が差し込んでいた。 俺の手は血で汚れている。心も、魂も汚れている。 だが、俺は生きている。 そして、これからは誰の光にも焼かれることなく、自分の影の中で生きていける。
それが、俺が勝ち取った、たった一つの報酬だった。
「……お腹、空いたわね」
隣に来たフェイが、ぽつりと呟いた。 俺は彼女を見て、初めて心からの苦笑を漏らした。
「ああ。帰ったら、一番高い肉を食おう。……あいつの金でな」
俺たちは並んで歩き出した。 背後に、静寂に包まれた魔王城と、二人の「怪物」の死体を残して。




