高貴な血筋の蔑み
魔王領に入ってから三日が過ぎていた。 その三日間は、これまでの旅路が「ピクニック」だったと思えるほどの地獄だった。
「……ッ、硬ぇ!」
ガキンッ! という嫌な手応えと共に、俺の槍が弾かれる。 目の前にいるのは『黒曜石のゴーレム』。 身長五メートル。全身が刃物のように鋭利な黒い岩で構成された、動く要塞だ。
「グレン! 下がって!」
フェイの悲鳴に近い詠唱が響く。 『雷撃よ、穿て』! 紫色の電撃がゴーレムの膝関節を直撃する。だが、怪物は僅かに体勢を崩しただけで、すぐに持ち直して巨大な腕を振り上げた。
「くそっ、魔防が高すぎる……!」
フェイが毒づく。彼女の顔色は土気色で、唇は乾燥してひび割れている。 この領域に入ってから、まともに眠っていないせいだ。
魔王領は、生物にとって過酷すぎる環境だった。 空は常に毒々しい紫色の雲に覆われ、太陽は見えない。地面は腐った肉のような弾力のある苔に覆われ、踏むたびに悪臭を放つガスが吹き出る。 そして何より、魔物が異常だった。
強い。多い。そしてデカい。 遭遇する敵はすべて、中ボス級の怪物ばかり。 しかも、それらが群れを成して襲ってくる。休む暇などない。数時間おきに命のやり取りを強いられる消耗戦だ。
「はぁっ!」
黄金の閃光が走る。 勇者アルヴィンだ。 彼は聖剣を振るい、ゴーレムの腕を一撃で粉砕した。 さすがの火力だ。不殺の誓いも、さすがに怪物相手には適用していないらしい。
だが、その動きにはキレがない。 呼吸が荒く、足元がおぼつかない。 聖剣の輝きも、どこか淀んで見える。
「勇者様! お怪我は!?」 「大丈夫だ……これくらい!」
エリアナが過剰なヒールをかける。 魔力の無駄遣いだ。この先何があるか分からないのに、擦り傷一つに全力の治癒魔法を使っている。 恐怖なのだ。 彼女も、アルヴィンも、この圧倒的な「死の世界」のプレッシャーに押しつぶされそうになっている。
「……倒れるぞ!」
俺は叫び、ゴーレムの崩れ落ちる巨体を避けるように跳んだ。 ズズーン……! 地響きと共に、動く要塞が沈黙する。 本日、五回目の戦闘終了。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
俺たちは泥のように地面に座り込んだ。 勝利の喜びなどない。 あるのは、「まだ生きていた」という安堵と、またすぐに次が来るだろうという絶望だけだった。
その夜の野営は、最悪の一言に尽きた。
場所は、枯れた巨木が折り重なる岩陰。 風除けにはなるが、地面はジメジメとして冷たく、腐敗臭が漂っている。 火を焚くこともできない。煙を上げれば、空を飛ぶワイバーンに見つかるからだ。 俺たちは魔導ランタンの薄暗い光を囲み、冷たく硬い干し肉を齧るしかなかった。
「……硬い」 「……臭い」
誰かが呟いた文句が、重苦しい空気に溶けていく。 疲労。空腹。恐怖。 それらが限界を超えて蓄積し、俺たちの精神をヤスリのように削っていた。
特に、アルヴィンの様子がおかしかった。 彼は膝を抱え、ブツブツと独り言を呟いている。 「なんでだ」「どうしてこんなことに」「僕のせいじゃない」。 その瞳は血走り、焦点が定まっていない。 昨日の村での一件――「罵倒された勇者」というトラウマが、この極限環境で腐敗し、彼の中で毒に変わっているようだった。
「……ねえ、グレン」
フェイが、俺の肩に寄りかかりながら小声で言った。 彼女は体温が下がっているのか、小刻みに震えている。
「あと、どれくらい? 魔王城まで」 「地図上では、あと五キロってところだ。明日には着く」 「そっか。……やっと、終わるのね」
フェイは力なく笑った。 彼女の耳の包帯には、まだ血が滲んでいる。 俺は無言で自分のマントを彼女に掛けた。
その時だ。
「……おい」
低い、棘のある声が響いた。 アルヴィンだ。 彼はランタンの光越しに、俺をじっと睨みつけていた。
「なんだ、勇者様」 「『勇者様』なんて呼ぶなよ。……腹の中ではバカにしてるくせに」
空気が凍った。 今まで、どんなに険悪になっても、彼は表面上の「良い子」を崩さなかった。 だが今は違う。 その目には、明確な「悪意」と「憎悪」が宿っていた。
「……疲れているんですね。もう寝た方がいいですよ」 「寝れるわけないだろ! こんな臭い場所で! こんな……お前らがいる場所で!」
アルヴィンが立ち上がった。 エリアナが「勇者様、落ち着いて」と止めようとするが、彼はその手を荒々しく振り払った。
「全部、君のせいだ」
アルヴィンは俺を指差した。指先が震えている。
「君があの村で、あんな野蛮な殺し方をしたからだ。だから僕たちは呪われたんだ。君が……君が『不殺』の誓いを破って、血の臭いを撒き散らしたから、魔物たちが寄ってくるんだ!」
支離滅裂な言いがかりだ。 魔物が来るのはここが魔王領だからだし、あの村での殺戮がなければ俺たちは死んでいた。 だが、今の彼に理屈は通じない。 彼は「はけ口」を探しているのだ。自分の恐怖と無力感を転嫁できる、都合のいい悪役を。
「俺は、やるべきことをやっただけです」
俺は淡々と返した。 感情的になったら負けだ。そう自分に言い聞かせた。
「やるべきこと? ……ハッ、そうだね。君にとっては、それが『普通』なんだろうね」
アルヴィンは口の端を歪め、冷笑を浮かべた。 それは、貴族特有の、底辺を見下す蔑みの表情だった。
「君は、殺すことになんの痛みも感じていなかった。まるで虫を潰すみたいに、人の喉を掻き切っていた。……ゾッとしたよ。同じ人間とは思えなかった」
「……」
「どんな育ち方をしたら、あんな風になれるんだ? 君の親は、君に何を教えたんだ? 『人を殺して褒められろ』とでも教わったのか?」
俺のこめかみが、ピクリと跳ねた。 超えてはいけないライン。 こいつは今、そこに土足で踏み込んだ。
「……親の話は関係ないでしょう」 「関係あるさ!」
アルヴィンは叫んだ。 その声は裏返り、ヒステリックに響いた。
「血だ! 血が汚れているんだよ! 平民の、それも君みたいな底辺の家系は、そうやって暴力でしか生きられないようにできているんだ! 獣と同じだ! 教育も、道徳も、誇りもない!」
彼は止まらなかった。 恐怖が彼を饒舌にさせていた。自分を高めるために、相手を徹底的に貶める。 それは、俺が一番嫌いな「貴族の傲慢さ」そのものだった。
「君の家族も、きっとそうだったんだろうね。泥にまみれて、小銭のために平気で人を裏切ったり、盗んだり……。だから君も、平気で誓いを破れるんだ。育ちが卑しいから、魂まで卑しいんだよ!」
ブツン。 俺の中で、何かが焼き切れる音がした。
俺の親父は、ただの農夫だった。 貧しかったが、正直者だった。 俺が軍に行くと言った時、泣いて止めた。「人殺しなんてするな」と。 お袋は、俺になけなしの金貨を持たせてくれた。「生きて帰ってこい」と。 俺がこうして汚い手を使ってでも生き残ろうとしたのは、あの日の両親の涙があったからだ。 泥水を啜ってでも生きて帰ることが、俺なりの親孝行だったからだ。
それを。 この、生まれた時から絹のシーツで寝ていたお坊ちゃんが。 安全圏から綺麗事を並べるだけの偽物が。
俺は無意識に、腰のナイフに手を伸ばしていた。 殺す。 今ここで、この喉笛を食いちぎってやる。 魔王討伐? 知ったことか。こいつを生かしておくくらいなら、世界ごと滅びればいい。
「――いい加減にしなさいよッ!!」
裂帛の気合い。 俺が動くより早く、フェイが立ち上がり、叫んでいた。
バチンッ!! 乾いた音が響く。 フェイが、アルヴィンの頬を平手打ちしていた。
「な……」 「黙りなさい! あんた、自分が何を言ってるか分かってるの!?」
フェイは鬼の形相でアルヴィンを睨みつけていた。 包帯から血を滲ませながら、その細い体で、俺と勇者の間に立ちはだかっていた。
「グレンがあの日、誰のために手を汚したと思ってるの!? 誰を守るために、あの村で悪魔になったと思ってるのよ! 全部、あんたの尻拭いじゃない! あんたが甘い夢を見てる間に、グレンが現実を引き受けてくれたんじゃない!」
「で、でも、こいつは……!」 「あんたがグレンを侮辱したんでしょ! 最低よ! 勇者以前に、人間として最低!」
フェイの目から涙が溢れていた。 彼女は自分のことのように、いや、自分のこと以上に怒っていた。
「あたしはね、あんたのその『綺麗な血筋』よりも、グレンの『汚れた手』の方がよっぽど尊いと思うわ。……謝りなさい。今すぐ土下座して謝りなさいよ!」
アルヴィンは呆然としていた。 頬の赤みよりも、フェイの剣幕に圧倒され、言葉を失っていた。 自分が口走ったことの重大さに、今更気づき始めたような顔。 「あ……いや、僕は……」
俺は、ナイフの柄から手を離した。 フェイの涙を見たら、激情がスッと引いていったからだ。 殺意が消えたわけではない。 ただ、怒鳴り合うのも、殴り合うのも、バカらしくなった。
こいつは、もうダメだ。 勇者としても、人間としても、完全に壊れている。 こんな奴に怒りをぶつけることすら、エネルギーの無駄だ。
「……もういい、フェイ」
俺は静かに立ち上がった。
「グレン……」 「少し頭を冷やしてくる」 「待って、私も……」 「いや、一人にしてくれ」
俺はアルヴィンを一瞥もしなかった。 謝罪なんていらない。言葉なんていらない。 俺の中で、アルヴィンという人間は、今この瞬間、完全に「死んだ」。
俺は野営地から少し離れた、岩場の影まで歩いた。 そこは暗闇だ。 ランタンの光も届かない、正真正銘の闇。 だが、あの場所の空気よりは、よほど清浄に感じられた。
「……ふゥー……」
俺は、深く息を吐き出した。 肺の中に溜まった、どす黒い感情をすべて吐き出すように。 そして、魔王領特有の、淀んだ空気をゆっくりと吸い込んだ。
腐敗臭。土の匂い。血の匂い。 不快な匂いだ。だが、それは「現実」の匂いだった。 あの勇者が吐き散らかした「虚構の正義」や「貴族の妄言」よりは、まだマシな味がした。
(親父、お袋……すまねえな)
俺は夜空を見上げた。 星は見えない。あるのは、のしかかるような紫の雲だけ。
(あんたらの息子は、立派な英雄にはなれなかったよ。……人殺し扱いされて、家族ごとバカにされて、それでもへらへら笑ってやり過ごすような、惨めな兵隊崩れだ)
悔しさが、遅れてこみ上げてきた。 拳を岩に叩きつけた。 ガッ。 皮膚が破れ、血が出る。その痛みが、俺の意識を鮮明にする。
許さない。 絶対に許さない。
俺はあいつを殺さなかった。フェイが止めてくれたおかげだ。 だが、それは「許した」からじゃない。 「今」じゃないだけだ。
魔王を倒すまでは利用してやる。 あいつの火力は必要だ。あいつを盾にして、俺とフェイが生きて帰るために。 だが、全てが終わった時――あるいは、あいつが決定的に俺たちの足を引っ張った時。
その時は、背中から刺す。 躊躇なく。慈悲なく。 あの盗賊を殺した時と同じように。
「……見てろよ」
俺は闇に向かって呟いた。
「俺は生き残る。どんなに泥にまみれても、どんなに罵られても。……そして、最後に笑うのは俺だ」
俺はもう一度、深く深呼吸をした。 淀んだ空気が、腹の底で冷たい塊になる。 それが、俺の新しい「核」になった。
俺は岩場を背にし、闇に目を凝らした。 遠くで、獣の遠吠えが聞こえる。 俺は静かに槍を構えた。 今はただ、朝を待つ。 そして、魔王城へ向かう。 それだけが、今の俺に残された道だった。




