戦場の歩き方
視界が真っ赤に染まっていた。 血の色ではない。俺自身の脳内で沸騰した、怒りの色だ。
耳を打つのは、フェイの絶叫。 鼓膜を揺らすのは、勇者アルヴィンの情けない静止の声。 「やめるんだ! 話し合おう!」
話し合い? 不殺? 更生の余地?
――ああ、うるさい。 クソ食らえだ。
俺の目の前で、フェイが泣いている。 あの気だるげで、皮肉屋で、でも酒を飲むと豪快に笑う、美しい女が。 ただの肉塊のように地面に転がり、血まみれの手で失った耳を押さえている。
俺は、今まで何をしていた? 勇者のお守り? 従順な荷物持ち? 俺は兵士だ。平民の、泥臭い、使い捨ての兵士だ。 だが、だからこそ知っていることがある。
戦場で躊躇いは死だ。 慈悲は味方を殺す猛毒だ。 そして、仲間を傷つけられた時に振るう暴力こそが、俺たちごろつきにとって唯一の「正義」だということだ。
「……殺すな、だと?」
俺は吐き捨てた。 口の中に溜まった鉄の味がする唾と共に、そのふざけた誓いを地面に叩きつける。
「ふざけるなよ、アルヴィン。お前のその綺麗な理想が、あいつの耳を引きちぎったんだ」
俺の体から、余計な力が抜けていく。 「手加減」という重しが消えた。 「殺してはいけない」という鎖が砕け散った。
俺の血管を流れる冷たい血液が、本来の温度を取り戻していく。 スイッチが入る。 二十年、死線だけで生きてきた俺の、本当の「仕事」の時間だ。
「――お前ら」
俺は槍をだらりと下げ、フェイを嘲笑っていた盗賊たちを見据えた。
「俺がなぜ、最前線で二十年も生き残れたか教えてやるよ」
「あァ? なんだテメェ、まだやる気か?」
フェイの耳を千切った男が、ニヤニヤと笑いながら振り返った。 手には血塗れのナイフ。その刃についたフェイの血を見て、俺の思考は氷点下まで冷え込んだ。
「死に損ないが! 仲間の女と同じように泣かせてやるよ!」
男が踏み込む。 速い。元騎士というだけあって、その足運びは洗練されている。 だが。
(……遅い)
俺の目には、止まって見えた。 殺気がない攻撃など、恐るるに足りない。 俺は動かなかった。男のナイフが俺の眼球に迫る、その瞬間まで。
「死ねェ!」
男の腕が伸びきる刹那。 俺は半歩、左足を引いた。 紙一重。ナイフの切っ先が俺の鼻先を掠める。
「なっ!?」
男の体勢が前のめりになる。 俺は、下げていた槍を突き上げるのではなく、柄の石突きを、男の踏み出した足の甲に全力で叩きつけた。
ゴシャッ。
骨が砕ける嫌な音が響く。 「ぎっ!?」 男が悲鳴を上げるより早く、俺は槍を滑らせ、短く持ち直した。
「一匹」
俺は無感情に呟き、槍の穂先を男の開いた口の中にねじ込んだ。 そのまま、後頭部まで貫通させる。
「が、ぼ……ッ」
男の目が飛び出し、痙攣する。 俺は手首を返し、脳幹を破壊してから槍を引き抜いた。 噴水のように血が吹き出し、男は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「な……!?」
周囲の空気が凍りついた。 笑っていた盗賊たちの顔が引きつる。 アルヴィンさえも、目を見開いてこちらを見ている。
「お、おい……嘘だろ? 一撃で……」
フェイを押さえつけていたもう一人の男が、腰を抜かしたように後ずさる。
「ヒッ、化け物……!」 「逃げるな」
俺は血振るいをして、槍についた脳漿を飛ばした。 その男に向かって、静かに歩み寄る。
「フェイを押さえていたのはお前だな。……その汚い手、もういらないだろ」
「く、来るな! 近づくな!」
男は錯乱して剣を振り回した。 大振りだ。恐怖で重心が浮いている。 俺は剣の軌道を冷静に見切り、その懐へ飛び込んだ。
槍術とは、距離の戦いだ。 だが、実戦においては、槍使いが懐に入られた時こそが一番危険であり――そして、一番の好機でもある。
俺は槍を捨てた。 いや、左手に持ち替えた。 空いた右手で、男の剣を持った手首を掴み、逆関節にへし折る。
「ギャアアアッ!」
絶叫。 俺は男の胸ぐらを掴み、その顔面を自分の膝に叩きつけた。 鼻骨が砕け、前歯が飛ぶ。 男がのけぞった隙に、俺は左手の槍を短剣のように逆手に持ち、男の鎖骨の隙間――心臓へと通じる道へ、深々と突き刺した。
「二匹」
心臓を破壊された男は、声を上げることもなく絶命した。 俺は死体を盾にするように蹴り飛ばし、次なる獲物を探した。
「き、貴様ァ! よくも仲間を!」
リーダー格の、顔に火傷のある男が吠えた。 元・王国直属騎士団の分隊長クラスか。 身に纏う鎧は分厚く、構えには隙がない。 周りの十人の部下たちも、戦慄しながらも武器を構え直す。
「囲め! 殺せ! あの槍使いは危険だ!」
リーダーの号令で、全員が俺にターゲットを変えた。 アルヴィンやエリアナなど眼中にない。 彼らの本能が理解したのだ。 手加減をしてくる勇者よりも、躊躇なく殺しに来るこの薄汚い槍使いの方が、圧倒的に「死」に近い存在だと。
「グレン! やめるんだ! それ以上殺しちゃいけない!」
アルヴィンの叫びが聞こえた。 俺は冷ややかな視線を彼に向けた。
「黙って見てろ、お坊ちゃん」
俺は低く吐き捨てた。
「これが、お前の言う『王国直属騎士団』の実力か? 笑わせるな。俺がな、将軍に推薦された理由を教えてやるよ」
十人の敵が迫る。 剣、斧、槍、魔法。 四方八方からの殺意の嵐。
だが、俺の脳内は澄み渡っていた。 戦場のパズルが見える。 誰が一番速いか。誰が一番恐れているか。誰が一番邪魔か。
「死ねェッ!」
先頭の騎士崩れが剣を振り下ろす。 俺はそれを槍の柄で受け流し、その反動を利用して回転した。 遠心力の乗った石突きが、横から来た別の男の側頭部を粉砕する。 兜ごと頭蓋骨が陥没し、男が白目を剥いて倒れる。
「三匹」
返す刀で、最初に斬りかかってきた男の足払いをする。 転倒した男の喉を、下を見ずにひと突き。
「四匹」
「ば、バカな!?」
リーダーが驚愕する。 俺の動きは、騎士の剣術のような華麗さはない。 泥臭く、最小限で、そして何よりも「えげつない」。 倒れた敵を踏み台にし、死体を盾にし、敵の攻撃を敵に当てさせる。
「魔法だ! 焼き殺せ!」
後衛の魔導師崩れが杖を構える。 俺は足元に転がっていた死んだ盗賊の手斧を拾い上げ、投擲した。 回転しながら飛んだ斧は、魔導師の額に深々と突き刺さった。
「五匹」
「ひっ……!」
残った者たちの足が止まる。 恐怖。 圧倒的な「死神」を前にして、足がすくんでいる。
「どうした? 騎士様なんだろ?」
俺は血まみれの顔で笑った。 自分でも分かる。今の俺は、勇者よりもよっぽど魔王に近い顔をしているだろう。
「俺は平民だ。道場での稽古なんてしたことねえ。俺の師匠は『死体』と『敗北』だけだ。……お前らのような、綺麗な型で戦う連中じゃ、俺には触れられもしねえよ」
俺は一歩踏み出した。 それだけで、五人の男たちがビクリと後退する。
「お、おい、こいつ……ただの槍使いじゃねえ! 『黒槍のグレン』だ! 南部戦線で一個中隊を壊滅させたっていう、あの死神だ!」
誰かが叫んだ。 ああ、そんな二つ名もあったな。 泥と血にまみれて戦っていたら、いつの間にかそう呼ばれていた。忘れていた過去の遺物だ。
「知っているなら話が早い」
俺は槍についた血を払い、切っ先をリーダーに向けた。
「フェイの耳の代償だ。……テメェらの命、全部置いていけ」
そこからは、一方的な蹂躙だった。
恐怖に支配された兵士など、赤子同然だ。 俺は逃げようとする者の背中を刺し、命乞いをする者の喉を裂いた。 不殺? そんな寝言は、ベッドの中で言え。
「た、助けて……金ならやる! 隠し財産が……」 「いらん。地獄で使え」
ズブリ。 心臓を穿つ感触。 六匹。七匹。八匹。
ついに、立っているのはリーダーの男だけになった。 彼は腰を抜かし、壁際まで後退していた。 自慢のプレートメイルは俺の槍でへこみ、顔の火傷痕が恐怖で青白くなっている。
「く、来るな……俺は、元騎士団の分隊長だぞ……! こんな、平民ごときに……!」 「肩書きで勝てるなら、軍隊はいらねえんだよ」
俺はゆっくりと間合いを詰めた。 男は錯乱し、剣を滅茶苦茶に振り回す。 俺はその剣を槍で弾き飛ばし、男の胸倉を掴んで引き寄せた。
「ひぃッ!」 「よく聞け。……俺たちは勇者パーティだ。勇者様は優しいから、お前らを許そうとした。だがな」
俺は男の耳元で囁いた。
「俺は違う。俺は、勇者の影に隠れている、ただの人殺しだ。……俺のダチを傷つけた罪は、その命で贖え」
「や、やめろぉぉぉ!」
男の絶叫。 俺は躊躇なく、短く持った槍を男の眼窩に突き刺した。 脳まで達する一撃。 男はビクンと一度だけ跳ね、動かなくなった。
ドサッ。 重い鎧の音と共に、最後の死体が崩れ落ちる。 十五人。全滅。 所要時間、三分足らず。
広場には、鼻をつく血の臭いと、死の静寂だけが残された。
「……はぁ、はぁ……」
俺は荒い息を吐きながら、槍を下ろした。 アドレナリンが切れ始め、全身の古傷が痛み出す。 だが、そんなことはどうでもいい。
俺は血の海を渡り、フェイの元へと歩み寄った。
「フェイ……!」
彼女はうずくまり、震えていた。 出血は酷いが、命に別状はないはずだ。 俺は懐から上質なポーションを取り出し、彼女の傷口にかけた。
「……ぐ、ぅ……」 「痛いか。我慢しろ。……敵は全部殺した。もう大丈夫だ」
俺は自分のマントを引き裂き、包帯代わりにして彼女の頭に巻いた。 フェイが薄く目を開ける。 その瞳は潤んでいて、いつもの強気な光はない。
「……グレン……?」 「ああ。俺だ」 「……馬鹿ね。……不殺の誓いは、どうしたのよ……」 「破った。あんなもん、最初から守る気はなかった」
俺がぶっきらぼうに言うと、フェイは痛みに顔を歪めながらも、微かに笑った。
「……ありがと。……あんた、やっぱり強いじゃん。」 「お前に言われたくない。……少し黙ってろ」
俺は彼女を抱き起こし、安全な壁際へと運んだ。 そして、ゆっくりと振り返った。
そこには、茫然自失の態で立ち尽くす、勇者アルヴィンと聖女エリアナがいた。
アルヴィンの顔色は紙のように白い。 彼は周囲に散らばる死体の山と、返り血で真っ赤に染まった俺を交互に見ていた。 その目は、仲間を見る目ではない。 「理解不能な怪物」を見る目だ。
「……グレン」
アルヴィンが震える声で俺の名を呼んだ。
「君は……なんてことを……。彼らには、まだやり直すチャンスがあったかもしれないのに……」 「ありませんよ」
俺は冷たく言い放った。
「見ただろ。あいつらはフェイの耳を笑って千切った。村人を虫けらのように殺した。言葉が通じる相手じゃなかった」 「それでも! 僕たちが殺してしまったら、彼らと同じじゃないか! 僕は誓ったんだ、誰も殺さないと!」 「その誓いの結果がこれだ!」
俺は怒鳴り、フェイの方を指差した。
「見ろ! フェイの耳を! 死んだ村人たちを! お前が『可哀想な敵』に情けをかけている間に、守るべき仲間が、守るべき民が犠牲になったんだ!」
アルヴィンは言葉を詰まらせた。 図星だ。 彼の手加減が、彼らの増長を招き、被害を拡大させた。それは紛れもない事実だ。
「……勇者様」
俺は一歩、彼に近づいた。 エリアナが「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさる。俺の殺気がまだ消えていないからだ。
「あなたは強い。最強だ。だがな、戦場の何たるかを知らない子供だ」 「……ッ!」 「俺はあなたの理想には付き合いきれない。俺は俺のやり方で仲間を守る。……文句があるなら、俺を追放するか? それとも、その聖剣で俺を斬るか?」
俺は挑発的に両手を広げた。 アルヴィンは唇を噛み締め、拳を震わせた。 だが、彼は剣を抜かなかった。抜けるはずがない。彼は「不殺」を誓ったのだから。 俺を斬れば、彼自身のアイデンティティが崩壊する。
「……僕は、君を斬らない」
長い沈黙の末、アルヴィンは絞り出すように言った。
「でも……君のやり方は認めない。絶対にだ」 「結構。俺もあなたのやり方を認めない」
決定的な亀裂。 パーティという名の「器」は、ここで完全にヒビが入った。 だが、皮肉にもこのヒビのおかげで、俺たちは生き残ったのだ。
「……行くぞ、フェイ。手当てが必要だ」 「……ええ」
俺はフェイを支え、宿屋の方へと歩き出した。 村人たちが、物陰から恐る恐るこちらを見ている。 彼らの視線にあるのは、勇者への感謝ではない。 虐殺者である俺への、底知れぬ「恐怖」だけだった。
それでいい。 英雄ごっこは終わりだ。 ここからは、地獄の道行きだ。 俺は血塗れの背中で風を受けながら、壊れた世界を歩き続けた。




