魔王なんて俺には関係ない
世界が終わるというのに、空は腹が立つほど晴れていた。
異変は、音もなく訪れた。 北の空、王都の尖塔を見下ろす位置に、ぽっかりと黒い穴が開いたのだ。月よりも巨大で、夜よりも暗い、歪な円形。 王立学術院の賢者たちは「魔界の門が開いた」「古の予言が成就した」と泡を飛ばして騒いだが、俺たち下っ端の兵士にとって、それは単なる「背景」の変化でしかなかった。
雷が落ちるわけでも、血の雨が降るわけでもない。 ただ、見上げれば常にそこに「死」が張り付いている。それだけの、静かで、真綿で首を絞められるような絶望。
「――皆、顔を上げてくれ!」
沈殿した空気を切り裂いたのは、やけによく通る声だった。 俺は兵舎の窓から、気だるげに外を覗いた。 王城の白亜のテラス。そこに、一人の青年が立っている。
黄金の髪は太陽の光を吸い込んだように輝き、白磁のような肌は一点の曇りもない。身に纏うのは、公爵家に伝わるミスリル銀の鎧。そして腰には、国宝である聖剣『アスカロン』が佩かれている。 この国の希望。神に愛された天才。 勇者、アルヴィン・ド・ラ・ヴァリエール。
「魔王がなんだ。闇が深ければ深いほど、光は輝く。そうだろ?」
彼は本気で言っていた。 恐怖に震える民衆の前で、彼はまるで喜劇の主役のように、その胸に手を当てて微笑んでいる。恐怖など微塵も感じていない。彼にとって、空に浮かぶあの不吉な黒い星は、自分を引き立てるための舞台装置でしかないのだ。
「……眩しくて目が腐りそうだ」
俺は誰にも聞こえない声で呟き、窓のカーテンを乱暴に閉めた。 民衆の歓声が、壁越しに聞こえてくる。
俺の名は、グレン。 平民出身、第三歩兵部隊所属の槍使い。 英雄になりたいわけでも、世界を救いたいわけでもない。ただ、三男坊として口減らしのために軍に入り、死にたくないから必死に槍を振るってきた、しがない職業軍人だ。
あのテラスに立つ「主役」と、薄暗い兵舎で槍の穂先を研ぐ俺。 生きている世界が違う。生物としての「格」が違う。 だから、関係ないと思っていた。 あの黒い星も、輝く勇者も、雲の上の出来事としてやり過ごせるはずだった。
まさか翌日、その「眩しい主役」の旅立ちに、道連れとして選ばれることになるとは知らずに。
重厚な扉が開き、謁見の間に静寂が満ちた。
磨き上げられた大理石の床。漂う高価な葉巻の香り。 玉座には老いた国王が鎮座し、その左右を国の重鎮たちが固めている。 そして、御前。 真紅の絨毯の真ん中に、勇者アルヴィンが優雅に片膝をついていた。
「魔王の復活は確実となった。勇者よ、旅立ちの時は来た」 「御意。我が剣にかけて、必ずや吉報を持ち帰りましょう」
勇者の声は、朗々と響いた。 まるで吟遊詩人が語る英雄譚そのものだ。周囲の貴族たちが「おお……」と感動に震え、令嬢たちが頬を染めているのがわかる。
俺はというと、部屋の隅っこで、装飾用の柱みたいに直立不動で槍を握っていた。 動員された数合わせの警備兵の一人。それが俺の役割だ。 重たい儀礼用の鎧が肩に食い込む。朝から何も食べていない腹が鳴りそうになるのを、腹筋に力を入れて誤魔化す。
(早く終わらねえかな……)
兜の下で、俺は小さくあくびを噛み殺した。 魔王討伐? 結構なことだ。 だが、俺の今日の懸念事項は、世界の命運よりも、食堂のメニューがシチューかパンだけかということだった。 勇者様が世界を救う。俺たち平民はそのための税金を払い、彼を称える拍手を送る。そういう役割分担だ。 俺は勇者の輝かしい背中をぼんやりと見つめながら、他人事としてその歴史的瞬間をやり過ごそうとしていた。
王が、運命の一言を口にするまでは。
「して、勇者よ。旅を共にする仲間は決めてあるか? 近衛騎士団から選抜させてもよいが」
王の問いに、勇者は顔を上げた。 その碧眼が、純粋な光を湛えて輝く。
「いえ、陛下。僕の力は、神より授かりし力。ですが、旅には地に足のついた知恵と、泥に塗れる覚悟が必要です。家柄や身分ではなく、真に実力のある者を……僕の背中を預けるに足る『戦士』を求めています」
立派な心がけだ。 俺は心の中で毒づいた。綺麗事を並べるのは簡単だ。だが、貴族のお坊ちゃんに「泥に塗れる覚悟」なんてあるわけがない。どうせ、見た目の良い近衛騎士か、高名な剣術師範あたりを選ぶつもりだろう。
「――それならば、適任がおります」
沈黙を破ったのは、俺の直属の上官である将軍だった。 ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。 将軍の視線が、ゆっくりと部屋の隅へと向けられる。 頼む。俺を見るな。俺の名前を呼ぶな。俺を、その輝かしい世界の生贄にするな。
「第三部隊の槍使い。平民の出ではありますが、その槍捌きは騎士団の指南役すら凌駕します。先の大戦でも、最前線で生き残った強者……実力だけで言えば、この国で一番かと」
終わった。 将軍の指先が、真っ直ぐに俺を突き刺していた。
周囲の視線が一斉に俺に集まる。「ああ、あいつか」「確かに腕は立つが、平民だぞ?」という、ひそひそ話がさざ波のように広がる。
バカ野郎どもめ。 俺がなぜ強くなったと思う? 英雄になりたいからじゃない。お前らみたいに「名誉の戦死」なんてしたくないから、必死に泥を啜り、死人の装備を剥ぎ取り、生き延びるための技術だけを磨いてきたんだ。 その結果がこれか? 生きるための努力が、死地への招待状になるとはな。
「へえ……! すごいじゃないか!」
弾んだ声と共に、黄金の鎧が近づいてくる。 勇者だ。キラキラした瞳で、まるで珍しい昆虫でも見つけたかのような顔で俺を見ている。
「身分なんて関係ない。実力でそこまで登り詰めたんだね? 尊敬するよ」
やめろ。 その綺麗な言葉で俺を飾るな。 お前には見えないのか。俺の鎧に染み付いた、洗っても落ちない血の臭いが。俺の槍が吸ってきた、何百人もの命の重さが。
「僕には力が与えられたけど、戦いの『技術』はまだ未熟なんだ。君みたいなベテランに支えてほしい。……来てくれるね?」
勇者が差し出した手は、白くて、マメ一つなかった。 剣を振るったことなどないような、生まれたての赤子のような手。 俺の、節くれ立ち、無数の傷に覆われた汚い手とは大違いだ。
これを握れば、もう戻れない。 俺の技術はすべて、この天才を引き立てるための「便利な道具」に成り下がる。 だが、拒否権などあるわけがない。王の前だぞ。
俺は、胃の奥で煮えくり返る感情を「忠誠」という仮面で塗り固め、その白魚のような手を握り返した。
「……喜んで。勇者様」
「ありがとう! 君の名前は?」 「グレンです」 「よろしく、グレン! 最高の旅にしよう!」
勇者の手は、痛いほど力が強かった。 悪意など微塵もない。ただ、生まれつき持っている「出力」が違うのだ。俺の指の骨が軋む音すら、彼には届いていない。
ああ、貧乏くじを引いた。 俺が感じたのは、明確な殺意というより、これから始まる途方もない徒労への「憂鬱」だった。 まあいい。王命だ、給金は弾むだろう。適当に機嫌を取って、死なない程度に働き、終わったらさっさと田舎に引っ込んで引退しよう。
この時の俺はまだ、甘く考えていたのだ。 「天才」の隣に居続けることが、どれほど惨めで、残酷なことなのかを。
翌朝。王都の正門前には、既に二人の「仲間」が待っていた。 俺の憂鬱をさらに加速させる、厄介な連中が。
一人は、豪奢な純白の神官服を纏った少女。 もう一人は、黒いローブをだらしなく引きずった女だった。
「勇者様ーっ!」
少女が、俺を突き飛ばす勢いで勇者に駆け寄った。 教会の聖女、エリアナ。 癒やしの奇跡を行使する、国一番のヒーラーだ。金色の巻き毛に、大きな碧眼。絵に描いたような美少女だが、その目は勇者しか映していない。
「教会の代表として、僭越ながら癒やしの手を担わせていただきます! ああ、生ける伝説にお仕えできるなんて……! 昨日は興奮して8時間しか眠れませんでした!」 「ありがとう、エリアナ。君みたいな慈愛に満ちた人がいてくれると心強いよ」
二人はキラキラとした、砂糖菓子のような甘い空間を作っている。 だが、俺が挨拶しようと一歩前に出ると、エリアナの表情が一瞬で「無」になった。
「……あら。随分と『素朴な』装備の方が選ばれたのですね」
鈴を転がすような声。だが、目は笑っていない。 彼女は俺の使い古した鉄の槍を、まるで汚物を見るかのように一瞥した。
「勇者様のお荷物にならないよう、せいぜい頑張ってくださいね? 私は勇者様の傷を癒やすので手一杯ですから、あなたの擦り傷にかける魔力なんて一滴もありませんよ」
慇懃無礼とはこのことか。 綺麗な笑顔なのに、目が「ゴミ」と語っている。 (こいつとは絶対に仲良くできん……)
「あんたが例の槍使い?」
助け舟を出したのは、もう一人の女だった。 とんがり帽子を目深にかぶり、紫煙をくゆらせている。
「あたしはフェイ。宮廷魔導師をやらせてもらってる。……ま、あたしの顔を見て察しなよ。あんたと同じ『巻き込まれた側』だから」
フェイと名乗った女は、けだるげに欠伸をした。 目の下には濃い隈があり、肌は病的なほど白い。とても王宮勤めのエリートには見えないが、その腰には一級魔導師の証である銀のタリスマンがぶら下がっている。
「……ああ。将軍に推薦されてな。断れなかった」 「ご愁傷様。あたしもさ。『勇者のお目付け役が必要だ』って大臣に泣きつかれてね。早く研究室に戻って、睡眠導入剤の調合実験をしたいのに」
フェイは肩をすくめ、携帯用の水筒から何かをあおった。酒の匂いがする。
「このパーティ、『常識』を持ってるのはあたしとあんただけみたいだから。精々、胃薬でも分け合いながらやろうよ」 「……ああ、それがいい」
彼女とは美味い酒が飲めそうだ。唯一の救いかもしれない。
「さあ、みんな! 出発だ! 世界が僕たちを待っている!」
勇者アルヴィンが高らかに宣言し、白馬の手綱を握る。 その背後には、彼を崇拝する毒舌聖女。 最後尾には、やる気のない魔女と、生活のために嫌々ついてきた俺。
前途多難なんてレベルじゃない。 俺は重い槍を担ぎ直し、深いため息と共に一歩を踏み出した。
王都を出て半日。 街道沿いの森に差し掛かった時、俺たちの「初陣」は唐突に訪れた。
「グルルルル……」
木々の間から現れたのは、身長三メートルを超えるオーガの集団だった。 皮膚は岩のように硬く、手には丸太のような棍棒を持っている。数は五体。 通常の兵士なら、一個小隊で囲んでやっと倒せるかどうかという強敵だ。
「きゃっ! 勇者様! オーガです! お下がりください!」
聖女エリアナが悲鳴を上げる。 俺は反射的に前に出た。 (五体か。地形は平坦。まずは前衛の二体を足止めして、魔法で撹乱し、各個撃破するしかない)
俺の脳内で、瞬時に戦術が組み上がる。 二十年の軍務で培った、生き残るための計算式。 俺は槍を短く持ち直し、一番手前のオーガの膝関節に狙いを定めた。あそこなら刃が通る。機動力を奪えば、あとはどうにでもなる。
「フェイ、目くらましの術を! 俺が注意を引く!」 「りょーかい。……と言いたいところだけど」
フェイが杖を持ち上げるより早く、俺が槍を突き出すより早く。 金色の突風が、俺の横を駆け抜けた。
「下がっていてくれ、グレン! 怪我をしたら大変だ!」
勇者アルヴィンだ。 彼は剣を抜くことさえせず、無防備にオーガの正面へと躍り出た。 バカか、あいつは! オーガの棍棒は鉄の鎧ごと人間をひしゃげる威力があるんだぞ!
「危ない!」
俺が叫んだ瞬間、オーガの棍棒が振り下ろされた。 勇者はそれを――なんと、左手の甲で軽く払いのけた。 蚊を追っ払うような動作。 たったそれだけで、巨大な棍棒が「パァン!」という乾いた音と共に粉砕された。
「え?」
オーガが呆気にとられている。俺もだ。 勇者はニコリと笑い、腰の聖剣を一閃させた。
「はぁっ!」
剣圧。 ただ剣を振った風圧だけで、空間が歪む。 五体のオーガたちは、悲鳴を上げる暇もなかった。 衝撃波に巻き込まれ、上半身と下半身が泣き別れになり、そのまま後方の森の木々ごと薙ぎ倒されていく。
土煙が晴れた後には、何も残っていなかった。 オーガだった肉塊と、更地になった森の一部があるだけ。
「ふぅ。みんな、無事かい?」
勇者は爽やかな笑顔で振り返った。 その鎧には、返り血ひとつついていない。息ひとつ切れていない。
俺は、構えていた槍をゆっくりと下ろした。 膝を狙う? 足止め? バカバカしい。 俺が必死に研いできた技術など、こいつの前では児戯にも等しい。 戦術も、駆け引きも、努力も。すべてを無意味にする圧倒的な「暴力」の化身。それが勇者という生き物なのか。
「……すごいです、勇者様! さすが神に愛されたお方!」
エリアナが諸手を挙げて称賛する。 フェイは「うわぁ……生態系壊れるわね、これ」と顔をしかめている。
俺は、震える手で槍の柄を握りしめた。 恐怖ではない。 これは、屈辱だ。 俺の二十年は、こいつの「あくび」一回分にも満たないのだと、まざまざと見せつけられた。
「グレン、大丈夫? 顔色が悪いよ?」
勇者が心配そうに覗き込んでくる。 その無垢な瞳が、今は何よりも憎らしかった。
「……問題ありません。埃が目に入っただけです。」
俺は仮面を貼り付け、嘘をついた。 この旅は、地獄になる。 俺はそう確信し、折れそうな心を必死で支えながら、勇者の背中を睨みつけた。




