口付けの練習 後編
コルネオーリの社交界の『辺境伯の姫』の印象を払拭したであろう、大成功の帰り道。
馬車に乗る前に、ルーキスは聞いた。
「リーリアは何を案じていたのですか?」
ワルツを踊ったあとに食事もできたし、人々を観察することもできた。でも……人前でそんな振る舞いをしている人なんて当然だが、いなかった。
だからリーリアは、真っ赤になりうつむきながら、ごにょ……と白状した。
「結婚式で、ちゃんと口付けできるかが不安だった……」
「は?」
ルーキスは眉をひそめた。
「それは夜会で見ることではないのではないか」
「……おっしゃる通りですわ」
リーリアはそれまで、ルーキスとふたりで居て、気まずくなったことが一度もなかった。リーリアはいつも、自然体で居た。
だが、この帰り道の馬車の中は、ものすごーく気まずかった。
(怒っているかしら)
ちらちら、ルーキスを見るが、ルーキスは窓の外を見て何か考え事をしている様子だった。
そのうち、目を閉じてしまった。
(疲れているのかしら)
そりゃー疲れるか……苦労をして……なのにあんなおこちゃまな動機を話したら……。
リーリアは反省するが、反省したところで起こしてしまったことは仕方がなかった。
言葉にしてしまったものは、取り消せない。
それに言葉にしたのだから、結婚式の前に一回くらい、ルーキスは口付けの練習に付き合ってくれるかもしれない。
辺境伯の屋敷に馬車がつき、リーリアはルーキスの背を見ながら、屋敷の庭を本邸に向かい歩いていた。
庭木の薔薇の良い香りに、少し足をとめ。月明かりに照らされ透ける薄桃色の花びらが、昼間ほど開いてはいないけれど、閉じきりはしないのだと気づき。柔らかな花に、指先でちょんと触れる。
ルーキスも同じものを見ていると思い、声をかけようと顔をあげる前に、先に声をかけられた。
「リーリア」
「なあに?」
長い指先が頬にそっと触れたかと思うと、ルーキスはすこしかがんで、リーリアに優しく口付けた。
リーリアは大混乱に陥る。練習するなら、相談してくれると思っていたからだ。ルーキスのことだから、キスしていいか聞いてからキスがあると、勝手に思い込んでいたからだ。
こんな、楽しかった夜会の帰り道に。庭木の綺麗な薔薇の前で。月明かりの下、ふたりきりで。普通の恋人みたいな振る舞いではないか、という衝撃があった。
けれど、その混乱は長くは続かなかった。唇が離れたかと思いきや、ずる……と、ルーキスが頭をリーリアの肩に乗せたから。体調が悪くてふらついたような素振りだった。
「え? ルーキスさん、大丈夫!?」
「いえ……失礼しました」
ルーキスは顔をあげ、額を手の甲で抑えている。眩暈がしたような顔をしていて。あまりにも具合が悪そうで。リーリアはますます心配になった。
ルーキスは言った。
「練習が必要だったことがわかりました」
リーリアはあわあわとした。
(私に神聖力があるから、口付けでダメージを受けたのかも……!?)
特に口付けのことは話題にあがらずに、ふたりは本邸まで戻る。本当に具合の悪そうなルーキスをリーリアはずっと心配するが、はやく一人になりたそうな雰囲気だったので、「おやすみなさい」と言い、別れた。
ルーキスは私室に戻る。
ジャケットを脱いで、タイを緩めて。それらをルーキスにしては、ぞんざいにベッドの上に放った。椅子まで行く気力すらなく。ベッドに腰掛けると、そのまま後ろに倒れ込む。
顔を両手で覆った。
(幼子か? 私は……)
猛省。反省なんて言葉では覆い尽くせない失態が、ルーキスの前にあった。
リーリアから「結婚式の口付けが不安だった」と聞いて、ルーキスはそんなこと、早く言ってくれればよかったのに、と思った。相談されていたら、その場で口付けただろうに、と。
触れることは得意ではないが、リーリアの頼みであれば、すぐ聞いた。リーリアはアサナトスの花をくれるというのだから、ルーキスにできることなのであれば、なんだって、頼みは聞こうと思っている。
それが、どうしたことだ。
まさか口付けをして、リーリアの人肌の温もりに触れたところで、血を吸いたくなるだなんて。
マヴロスに現存する吸血鬼は、完璧を目指した種族だ。吸血鬼の歴史は、弱点の克服に費やした歴史と言って良い。太陽すらもほとんど克服している。血液に関しても、純血であればあるほど、必要量は少ない。料理に混ぜたり、血液を貯蔵する魔石を持ち歩いたりするのが常だ。常に、美しく、完璧でありたい種族なのだ。
人間の血を直接吸うだなんて野蛮な真似をするのは、獣じみた真似をするのは、貧しい者のすることだ。末端の、血の薄い吸血鬼たちのすることだ。
先祖代々、純血であるルーキスは、血を吸いたいという衝動に駆られること……そんなのは幼い頃、まだ分別のつかない頃の思い出だった。恥ずかしい思い出だった。
それが、どうして。何百年もなかったのに。
(どうしてリーリアに)
ルーキスは顔から手を離して、天井を見つめる。
まあ確かに、逸話はある。
吸血鬼は、好きな人間の血は吸いたくなるものだという逸話があるが。
(好意?)
ルーキスは腑に落ちない。
確かにリーリアは美しいし、まともな令嬢だ。レヴァンタと逃げた妻の子とは思えないほどまともで努力家だが。
だが、ルーキスの頭の中で、ルーキスとリーリアの間にあるのは「アサナトスの花」なのだ。
好意。
そんなあやふやな概念よりも、唇は皮膚が薄いから、血液に近いから、衝動を呼び起こしたと考えるほうが、納得ができた。
(リーリアの言うとおりだ)
翌朝、リーリアはルーキスの体調が気になって、ルーキスの部屋を訪れる。
「リーリア」
「ルーキスさん、大丈夫?」
部屋の扉の前で会ったルーキスは、いつもどおり黒いスーツを着て。髪をしっかりとかきあげていて。そして、いつもどおりの無表情ながらも、どこか晴れやかな顔をしていたのでリーリアは安心した。
けれど。
「えっ……?」
ルーキスはリーリアの両肩を手で優しくおさえると、リーリアに軽く。本当に軽く、口付けた。
「えっ? えっ?」
「リーリア、貴女の言う通りだ」
リーリアは、よく知っている。
ルーキスに、他意はない。
「えっ?」
「練習しておけば、結婚式で動じることはない。そうでしょう?」
不意打ちに困惑し、赤くなって固まっているのは、リーリアだけなのである。
目の前の男は涼しい顔をして、こんなことをのたまう。
「ワルツと一緒ですよ、リーリア」
「そっ……ち、違う! ワルツとは違う!」
リーリアは気づく。
目の前にいるのは魔物なのだ。
魔物の価値観で行動している。
「な、なんで照れずにそんな真似ができるの!?」
「照れる? 何故。必要だから行っている」
ルーキスの灰色の瞳は、本気だ。
リーリアは、怒る。
「もう、知らない!!!」
リーリアは走って逃げていく。
「……何故?」
何故リーリアを怒らせたのかが、ルーキスにはわからない。
ルーキスの心の中は、血を吸いたいという衝動をうまくコントロールできた喜びでいっぱいだった。やはり長く口付けるのはよくない、短ければ大丈夫なのだと。
そこの実証実験をしただけだ。
なのにリーリアは、怒った。
ルーキス的には結婚式の前に、もうすこし完璧にしておきたい。絶対に吸血衝動が起きないようにしておきたいのだが、あの様子で口付けの練習を、許してもらえるのだろうか?
リーリアは、口付けが先にあるのは、おかしな話だと気づいた。本来、好意が先にあって、口付けがあるべきなのだ。
リーリアはルーキスに口付けられて構わないと思っていた自分に気づいた。
(好意?)
リーリアは真っ赤になる。
(だって……ルーキスさんは魔物、魔物なのに……)
昨夜、一緒に踊っているときの微笑みを思い出した。薔薇の庭木の前で、口付けられた瞬間のこと。
(魔物なのに〜!!!)
リーリアは泣き出しそうになる。
リーリアには予感があった。
ルーキスは超・完璧主義だ。ワルツの練習でそれはわかっている。だから……ルーキスが口付けに何かが足りないと思っているのであれば、絶対に結婚式の前に、また練習してくるだろうという予感だ。
(止めないと、絶対に止めないと……)
だって、リーリアの心臓が、持ちそうにないから。
夫婦を目指すふたりの日々は、まだはじまったばかりだ。




