口付けの練習 中編
リーリアは濃紺のドレスに身を包んでいる。肩の出るドレスで、裾が揺れると、光沢のある生地とちいさな宝石の装飾がきらめく。ルーキスは濃紺のタキシードを着ている。どちらも結婚式の衣装の採寸の際に注文したものだった。今後のために何着か購入したのだ。
ドレスについて、ルーキスはリーリアに意見を聞いたが、リーリアはある程度絞ってから、ルーキスにも意見を聞いた。ルーキスは「こちらのほうが品が良い」と回答した。品の良さや美しさは、ルーキスの価値判断基準の上のほうにあるようだ。
なので今日はお化粧も、リーリアは上品さを意識した。メイドに長い髪を後ろでまとめあげてもらい、ドレスの宝石に合わせた耳飾りを身につけた。歩くと耳飾りが揺れて、小さな宝石が煌めいた。
煌びやかな会場に、ルーキスのエスコートで足を踏み入れた瞬間、リーリアは周囲の視線が一斉にふたりに向くのを感じた。リーリアが夜会に出るのは、とても久しぶりのことだった。
見られている、とリーリアは緊張した。
見にきたつもりが、見られている。
鋭い視線、値踏みする視線、舐めるような視線。さざなみのような嘲笑。
「あれはどなた?」「ほら、辺境伯の姫君だわ」「噂の……」「異国の方とご結婚なさるそうよ」「国内で相手にされていないから」「あの男の娘じゃ無理もないわ」
昔、夜会に出ていた頃は何を言われても慣れっこの気持ちだった。耳に届かなかった。でも今日は、自分ひとりの話ではないからか、リーリアの耳は声を拾った。
「リーリア」
うつむく背に手が添えられて、ハッとした。
「もう踊るの?」
「何を言っている? まだ時間ではないでしょう」
リーリアは驚いた。
あんなに(踊りはもう嫌だ)と思っていたのに、踊りたくなっている自分自身に。
踊れば、何もかも忘れられる。
人目も気にならなくなる。
ルーキスは、様子のおかしなリーリアのことを見つめる。魔物は顔を近づけ、リーリアの耳元で囁いた。
「うつむくことはない。リーリアが一番美しい」
ハッとして顔をあげる。
いつも通りの真面目な顔があった。照れも何もない。ルーキスはお世辞を言わない。
(つまり、)
今の言葉は、心の底からの言葉ということだ。
以前夜会に出ていた頃とは、また違った視線をリーリアは感じた。異性からの視線だ。
ダンスの時間が近づくとそのうちの一人がリーリアに声をかけた。パートナーのルーキスがすぐそばにいるにも関わらず。ルーキスに声をかけずにリーリアに声をかけるのは、コルネオーリでは失礼な振る舞いだ。
「辺境伯の姫君、ぼくと踊ってくださいませんか?」
「え? ええと」
リーリアは困る。ルーキスに目線を送る。
ルーキスは言う。
「私は構わない」
いや、構ってよ、とリーリアは呆れた。
(そこは婚約者として、断る流れでしょ?)
リーリアは(最初に踊るのはルーキスとが良い)と思い、断ろうとした。
「先に彼と踊ってから――」
しかしルーキスは、リーリアの背を軽く押した。流石のリーリアもムッとした。
(何考えてるの?)と。けれど、振り向き見たルーキスの表情は――何か考えがあるようだ。
相手の男はふたりの様子を見ていて、明らかにルーキスに嘲りの目を向けた。リーリアは当惑したが――ルーキスを信じることにした。
「わかりました、お受けいたします」
婚約者以外と最初に踊ろうとするリーリアに、人目が集中した。「父親に似て愚かだな」と聞こえた。
けれど、リーリアはもう下を向かなかった。
背筋を伸ばして前を向いた。
魔物は言ったのだから、「リーリアが一番美しい」と。
曲が流れ、男と踊りはじめて思った――遅い。
男は『人並み』だった、以前のリーリアと同じ。しかし今のリーリアには、男のダンスの粗が見える、わかる。
会場の空気が変わった。
感嘆の声が聞こえた。驚きの視線。リーリアが、人々を惹きつけている。
見るものが見ればわかる、努力に裏打ちされた美しさに。
注目を集めているのがリーリアであることに、目の前の男は気づいていない。男は、男がリードしているつもりでいるようだ。
(ルーキスさんとのワルツなら、こうはなっていない)
リーリアが認められる空気には、なっていないはずだ。
男と踊りながら、リーリアはチラ、とルーキスを盗み見た。ルーキスは――微笑みを浮かべていた。
あまりに美しい微笑みだった。
人形の魔物の微笑みが、これほど美しいということをリーリアは初めて知った。
(ルーキスさんは、)
(私がどんな噂話をされるか、私よりわかってた――だから完璧を求めたのかな?)
(それとも、ただ、完璧が好きなだけ?)
(今、貴方の目から見て――私は完璧?)
踊り終わって礼をして、急ぎ、ルーキスのところまで戻るリーリアを、男が追ってきた。
「きみとだとぼくはすごく上手く踊れた、ぼくたち、息がぴったりだったね。ねえ、もう一曲踊らないか?」
ルーキスは男とリーリアの間に立ち、言葉で両断した。
「貴方は下手だ」
「は?」
「貴方の踊りは醜い。リーリアのみが美しい」
男はカンカンになっている。
リーリアは。
背後で(実はラブラブなのかな)と噂するひそひそ声がしたが、リーリアにはよくわかっていた。
ルーキスに他意はない。リーリアの踊りが美しいと感じたから、思ったことをそのまま言っているだけだ。
「そんなに言うなら、お前はぼくより上手に踊れるんだろうな?」
ルーキスはリーリアの背に手を添えて踊りの場に促しながら、言葉を返した。
「誰に物を言っている?」
曲が流れ、踊り始めてリーリアは気づく。
いつもよりずっと、スローなペースだ。
(……気を遣ってる?)
2曲連続で踊ることになったリーリアに。
ルーキスの所作は、細部に至るまで完璧だった。いつも通りの美しさだ。リーリアも、それに倣った。
(あれ……なんだろう……楽しい……)
(楽しい)
こんなに踊るのが楽しいのははじめてだった。
ペースがゆっくりだから、ルーキスが相手だから。
こんなふうにしてみよう、がすべて叶った。
そしてリーリアの表現に、ルーキスは応えてくれるから。
普段の練習のペースでは、何かを見る余裕なんてなかった。でも今は、周囲の賞賛も。ルーキスの顔も、しっかりと見える。リーリアが見ているのに気づいて――ルーキスは、かすかに微笑んだ。
婚約者への微笑みは、周囲に見せるために計算されたものなのか。それとも心から、リーリアの努力に報いてくれているのか。いずれにせよ、ルーキスはちゃんと考えてくれていた。リーリアのことを。
リーリアは不思議でならなかった。今、この瞬間のためだけにあんな地獄の日々を……目の前の魔物のことがおかしくてならなくて、でも、なんだか愛おしかった。
リーリアもルーキスに微笑みを返した。
心からの微笑みを。




