蝶の標本 2
コルネオーリ国王イレミアは60代となったある夜のこと、夜風の冷たさに目を覚ます。閉めて寝たはずの窓が開いているのに気づく。暗殺ではないかと疑い、護衛を呼ぼうと魔石に手を伸ばし、やめる。薄いカーテンの向こうに金色の髪の青年の姿が見えたからだ。
青年は黒いローブを着ている。カーテンの向こうから出るのを躊躇しているようだ。
イレミアはしばし呆然としたあと、弟の名を呼ぶ。
「アステル」
そろり、とカーテンの向こうから出てきたアステルは、イレミアと9つ違いのはずだが、まだ年若い青年のように見える。エルミスに聞いていた話のとおりだ。
イレミアは……末の弟が、この大陸でなんと呼ばれているかを知っている。「大陸一の狂人」「誰も手出しできない狂気の魔物」「平和な大陸の真ん中に落とされた黒い点」「恐ろしい魔王だがひきこもり」などなど……。
しかし、イレミアは弟の存在によって、逆に大陸は平和になったようにも考えていた。動かない、巨大な敵――人間と魔物の平和を謳い、魔王城に、領土に引きこもっている魔王――その存在によって、国同士の小さな争いが起きづらくなったためだ。
他国の王であれば、魔王に深夜の訪問を受ければ恐れ慄くのだろうが……イレミアは、他国の王よりは、アステルの性格を知っている。アステルは昔からやや狂っているが、イレミアを害そうとはしないだろうということをわかっている。
「イレミア兄さん、こんばんは」
「アステル、すまないが窓を閉めてくれないか? 夜風が冷たいので……きみも、寒いだろう?」
「ああ、ごめんなさい、兄さん」
アステルはパタン、と窓を閉める。
イレミアはベッドから出て、アステルを抱擁しようと手を広げた。アステルは意外そうな顔をするが、微笑むと抱擁に応じた。
「久しいね、アステル」
「うん、兄さん。元気そうでよかったよ」
「今日は、兄さんにお願いがあってきたんだ」
「お願い?」
イレミアはアステルから離れ、やや警戒する。国同士の取り引きのようなことを夜分に持ちかけられても困るからだ。それならまず先に訪問の手紙を出して欲しいものだ。
「あの……」
アステルはうつむく。
「むずかしいかもしれないのだけど……」
言いにくそうな様子に、イレミアはさらに警戒する。
「兄さんの蝶の標本をひとつ、貸してくれませんか?」
イレミアは、ホッと胸を撫で下ろす。
(大陸一の魔力を持つ魔王のお願いごとが、蝶の標本を借りることとは……)
イレミアはアステルを可愛らしく思う。
「貸すのではなく、アステル。いくつか、あげよう」
「え!? いいよ、悪いよ。ちゃんと返すから」
「いいや、いいんだよ、アステル。私の子どもも孫も、蝶の採集にはあまり興味がなくてね」
「こっちにおいで」
アステルは白い寝巻きに紅色のガウンを羽織ったイレミアのあとをついて、となりの部屋に入り、感嘆の声をあげる。イレミアの蝶の標本のコレクションが、壁や戸棚に、ところせましと並べられていたからだ。
「すごいコレクションですね、兄さん」
この、美しい蝶だらけの部屋に連れてきたらリアは絶対に喜ぶだろう、と思いながら、アステルは話す。
「ぼくの妻が、このあいだ、街で蝶の標本を見て――すごく気に入ったみたいだったんです」
「結婚しているのかい?」
「え? ええ、そうです。妻のシンシアはぼくよりふたつ年上で。もうすぐ誕生日なんですが、もう40年以上 一緒にいるので、誕生日の贈り物が毎年同じようなものになってしまっていて」
イレミアは、アステルは偉いな、と思う。イレミアの妻は花を使った砂糖菓子と花が好きなので、誕生日の贈り物といえば毎年、それらに関連したものだ。イレミアはそれで良いと思っていた。しかし、アステルは工夫をこらそうとしているようだ。
(愛妻家なのだな)
「蝶の標本を気に入っていたから、今年は手作りを渡してみようかなって思って……でも、うまくいかなくて……ぼくは蝶はつかまえるのと破くのしか才能がないみたいで」
「破く?」
「ああ、いえ、なんでもありません……それで、兄さんが上手だったのを思い出して、兄さんの標本を借りて見本にしようと思ったんです」
イレミアは(そう簡単には行かない)と感じる。イレミアは蝶の標本作成にはこだわりがあるからだ。見本にするだけでは、イレミアのようにはできない。
「アステル……今、コツを教えようか」
「え! いいです、兄さん。忙しいでしょう? 深夜にこんなかたちで訪問したのに……」
「目がさえてきてしまったよ」
イレミアはアステルに微笑む。
アステルは50代のはずなのだが、見た目のせいで、孫と同じように感じられてならなかった……一国の王に対し、失礼だろうか?
イレミアの技術を見てアステルは喜ぶ。
「兄さん、すごい!」
「こういうふうにすれば良いのだよ、アステル」
アステルとの蝶の標本づくりを、イレミアは心の底から楽しく思う。深夜に国王の部屋に灯りをともし、異国の、魔物の王とふたりで――何をやっているのだろう? とも思いながら。
(こんなふうなやりとりが、子どものころにあってもよかった)
今思えば、すごく些細なことを気にして……兄弟全員とよそよそしかったように感じられた。今となってみれば、ものすごく些細なことで。
「そうだ、今、ぼくも作ったほうがいいですね」
「? でも、アステルは蝶を持っていないだろう?」
アステルは微笑んで、中に何か包むように両手をあわせる。アステルが手を開くと、数匹の蝶が部屋のなかに舞った。
「ぼくが妻にあげたいなと思っている蝶なんです」
「アステル……相変わらず、きみはすごいねえ」
アステルの魔術に、イレミアは感嘆の声をあげる。
「そう? ぼくは兄さんのほうがすごいと思うよ みててください」
アステルはイレミアにかわり机に向かい蝶の標本作りをはじめるが、不器用なのかイレミアのようにはうまくいかなかった。
「ひとには、得意不得意というものがあるね」
イレミアはあたたかく笑った。
アステルは深夜に、イレミアに教えてもらいながら、苦労しながら蝶の標本を完成させると大事そうに腕に抱えた。
「ありがとう、イレミア兄さん」
アステルは本当に嬉しそうな、眩しいばかりの笑顔をみせた。
イレミアは目覚め、もう何十年も会っていない末の弟の夢を見たと思う。
……あれは夢だったのだろうか? と思いながら身を起こし、部屋の中を見て絶句する。希少な蝶が、何匹も、部屋のなかに羽ばたいていたためだ。……。
(お礼のつもりなのだろうか?)
イレミアは頭を抱える。
(アステルは本当に50代なのだろうか……)
(兄さん喜んでいるかなあ〜)とニコニコしているアステルが脳裏に浮かび、イレミアはこの状況を従者に、護衛にどう説明すれば良いのかと頭を悩ませる。
しかし、目の前を舞い、何かに止まり、ふたたびはばたく蝶はとても美しかった。
イレミアは微笑む。
(昨日は楽しかった、アステル。またいつでもおいで)
死んでこの世界を離れるまでにあと何回、末の弟と会えるだろう? 心の片隅でそう思いながら、イレミアは頭の中で弟にそう呼びかける。
また会いたいと、ちいさな願いを込めながら。




