魔王城 地下 大浴場 (魔物に捕食の回)
後日談19話のその後、クヴェールタに捕食されかけるアステル
アステルはルーキスの黒いスーツの背中を見ながら歩いている。ルーキスの手にはカンテラの灯りがあり、ふたりが歩く暗い廊下には牢屋が並ぶ。ここは、魔王城の地下だ。なぜか湿度が高く、ジメジメとしている。
「地下牢は、悪さをした魔物が入る場所です。長年、ほとんど使われていませんでしたが……アステル様が捕らえておけと仰ったので、今、クヴェールタはここにおります」
「でもぼく、クヴェールタを牢屋にいれるように言った覚えがないんだよ」
アステルは不安そうに並ぶ牢を見る。
「仰いました」
ルーキスは振り返り、アステルを見つめる。
「謀反を起こしたのですから、本来であれば、処刑されてもおかしくはありません」
「謀反って……」
アステルは自らの髪をわしゃわしゃと触る。
「クヴェールタはぼくを守ろうとした結果だと思うんだよ。シンシアを池に沈めようとしたのはそりゃあ悪いことだけど、聖女がぼくを傷つけると思ったんでしょう? 確かに魔法でぼくを昏倒させたのは、ぼく、ちょっと怖かったけれども……そんな、処刑だなんて怖い話になるようなことかなあ」
ルーキスは静かにアステルを見つめた。
「アステル様はクヴェールタを信じていらっしゃる」
「うん、だって、友達だもの」
アステルは頷く。
「クヴェールタが悪くないことの証明に行かれるわけですね」
「うん」
「私もクヴェールタについて証明したいことがございます」
「うん?」
ルーキスの言葉に、アステルは首を傾げる。
クヴェールタは一番ジメジメとした牢屋に入れられていた……ルーキスの手によって。アステルは格子の向こうからクヴェールタに声をかける。
「クヴェールタ」
「アステルさま!」
「……元気? クヴェールタ」
とても元気そうには見えない、と思いながらアステルは聞く。
「ここは、本当にひどい部屋だよ、魔王様! クヴェールタの毛布にカビが生えちゃいそうだよお……えーん、えーん」
「ほら、ルーキス、やっぱり可哀想だよ……」
アステルの眉毛はハの字だ。
「もう、出してあげようよ、ルーキス」
「出すことはできません」
ルーキスは頑なだ。
「アステル様、お願いがあるんだ。クヴェールタのそばに来て、毛布を撫でて欲しいんだ」
「……ぼくが入る分には、いい? ルーキス」
ルーキスは黙って牢の鍵を開け、頭を下げる。入り口にルーキスがいることでクヴェールタが逃げないようにするようだ。
アステルは牢屋の中に入り、クヴェールタの毛布の端をなでてあげる。湿気で濡れていて、本当にカビ臭くなっている。
「アステル様、もう少しそばにきて、クヴェールタのそばにきて」
「わかったよ、クヴェールタ」
クヴェールタは毛布を大きく広げている。アステルと毛布でハグしたいようだ。アステルはクヴェールタに近づこうとする。
「アステル様、それ以上近づいてはなりません」
ルーキスが声をかけ、アステルは立ち止まり、振り返る。
「どうして?」
アステルは、クヴェールタが広げた毛布を、アステルの上に掲げているのに気づく。ぽた、ぽた……とアステルの頭の上に何かが落ちてくる。
「ここは湿度が高すぎるよ、ルーキス。クヴェールタ、水が滴るくらい濡れてしまって、カビも生えて、かわいそうに―― ?」
アステルの言葉の途中で、ぽた、ぽた落ちてきたものが、さらに、ぼた、ぼたと落ちてくる。水ではなく、粘液のようなものだ。アステルの頭の上にそれが落ちた瞬間、ルーキスは魔術で、牢屋の壁にクヴェールタを磔にする。
「痛いよお! やめてよお!」
「ルーキス、クヴェールタがかわいそうだよ! やめてあげてよ!」
ルーキスは頭に粘液をかぶったアステルの手首をつかみ、牢屋からアステルを救出し、牢に鍵をかける。
「私の証明は終わりました。やはり、しばらく、クヴェールタを牢から出すことはできません。あの者は大変、不敬かつ不埒極まりないことを考えておりますので」
「ルーキス! クヴェールタはお腹が空いているんだよ! そこに極上の魔力を持つアステル様がいらっしゃったら少しくらい」
「ルーキス、お腹が空いているって泣いているよ、せめて何か差し入れてあげようよ」
クヴェールタのよだれを頭から被りながら、それをよだれだとは知らずにアステルはルーキスに頼む。ルーキスは頭痛を覚えながら、アステルの手を引いて来た道を戻る。アステルは慌ててクヴェールタに声をかける。
「クヴェールタ、ごめんね。また来るからね!」
ーーーーーーー
「ここは、何?」
ひとつ階段を降りると、アステルはモワモワと湯気の立つフロアに居る。
「では、アステル様。汚れたお洋服を脱いでいただけると」
アステルは粘液のかかったローブを脱ぎ、手に持つ。
「全部、自分で脱いでいただけると助かるのですが……」
「え!? どういうこと? ルーキスは、ぼくにここで裸になれって言っているの?」
「はい」
「婚約者のお父様の前でどうして裸にならなければならないの?」
(魔物には全裸で婚約を許してもらう儀式とかそういうのがあるの!?)
アステルは混乱しており、ルーキスはアステルの慌てようがよくわからず、無表情に告げる。
「お風呂に入っていただきたいので……アステル様は魔王城の構造を少しも覚えていらっしゃらないのですね」
「?」
ルーキスは、何も言わずにアステルを部屋の先に連れて行く。そこにはものすごく広くて大きな、ごつごつした岩でできたお風呂があった。アステルは驚く。
「魔王城の地下に、こんなに大きいお風呂があるんだね!」
「天然の温泉なのです。カタマヴロス様はお風呂が好きでしたので、温泉の上にお城を建てたんですよ」
「それで牢屋があの湿度だったんだね……」
アステルは納得する。それから、お風呂を見渡してもう一度感嘆する。
「ぼくは、そんなにお風呂好きじゃないけれど、こんなに広いお風呂は生まれてはじめて見たよ」
「コルネオーリ城と違って、魔物たち皆、湯治などに利用するお風呂となります……王族だけ入れるというわけではありません。ですが、今は誰も入らないように伝えているので、アステル様だけで入ることができます」
「ぼく、お風呂に入ったほうが良いのかな?」
「絶対に入ったほうがよろしいかと。アステル様の綺麗な御髪が、クヴェールタのせいで汚れておりますので」
(そんなに汚れたかなあ? クヴェールタの毛布に含まれていた水分を被っただけなのに)
よだれを落とされたと知らないアステルは、首を傾げる。そして服を脱ごうとして襟のボタンに手をかけて、止める。
「……ルーキスはここで見ているの?」
「おそばで見守るのがお嫌でしたら、入り口のあたりにおります。何かあったら呼んでください」
「ありがとう」
(シンシアに裸を見られる前にルーキスに見られるのはちょっと、なんだかなあって感じだよね)
ルーキスが去ったのを見届けたあとで、アステルは服を脱ぐ。
(まあ、シンシアに裸を見られるのだってずっとずっと先の話なんだけれどね!)
ーーーーーーー
「というわけで、今日のぼくはもうピカピカだよ! 魔王城の地下温泉に入ってきたからね」
タフィに帰って来て、晩ごはんを食べながらリアとロアンにアステルは自慢している。ルーキスはもう一度クヴェールタと『話す』からと魔王城に残り、アステルだけが帰って来たかたちだ。
「魔王城の地下に温泉があるなんて。そんなに広くて良い温泉なら、私も入ってみたいわ」
「シンシアも今度、入りにおいでよ」
アステルはニコニコとしている。
「一緒に入ってくれるの? アステル」
「え!?」
ニコ、とするリアに、アステルは赤面する。
「結婚前にシンシアの裸を見るなんて、そんなことはできないよ!」
「じゃあ、私がアステルの裸を見るなら良いのかしら?」
「ダメだよ! ぼく、ルアンとなら温泉に入るけど、他の人とは入らないよ!」
アステルは目をぎゅっとつむりながら叫ぶ。
「なんで私なんですか?」
「……え、ダメなの? ぼく、人に裸を見られるのは抵抗あるけれど、ルアンはぼくのお風呂を手伝っていたこともあるじゃない」
「小さな頃の話でしょう? タフィに来てから、もうアステル様は、ひとりでお風呂に入れるじゃないですか。それに私は、服を着てアステル様のお風呂を手伝っていただけで、一緒に入ったことなんて一度もないですよ。私は、そんな身分ではありません」
「そうだっけ? 一緒に入ったこともあった気がしたんだけど……じゃあルアンは、魔王城地下の広い温泉にぼくと一緒には入ってくれないってこと?」
「入りませんよ。服を着たまま見張りして、見張りしながらお湯かけて遊ぶくらいなら良いですけれども……」
「そっかあ、遊べるくらい広い温泉なのになあ」
アステルは残念そうだ。14歳のアステル的には、一緒に遊んでくれてかつ裸を見られても良い人と入りたかったようで、それはロアンだったのだが断られたようだ。
「私が遊んであげるわ、アステル」
「だから、シンシアとは入らないんだよ」
アステルは首を強く横に振る。
「じゃあ、私が入っているあいだ、見張りして、アステル」
「……それなら、いいよ。でもぼく、絶対にきみの裸を見ないって誓うよ」
「見てもいいのに」
「見ないよお」
アステルは頭から湯気がでそうなくらい真っ赤になっている。
(リアは、どうしてこういう育ち方をしたんだか……)
20歳のロアンは呆れながら、14歳のアステルをからかい続ける16歳のリアのことを見守る。
ーーーーーーー
数日後、ロアンはアステルが鏡を見て髪を触り、眉毛をハの字にしているのに遭遇する。
「アステル様、何してるんですか?」
「ねえルアン、ぼくの髪、溶けてない? 禿げてないよね?」
「え?」
ロアンは屈んだアステルのつむじを見る。いつもどおり綺麗な金色の髪だ。ロアンはアステルの発想に笑う。
(まだ禿げるような歳じゃないし、そもそもアステル様は歳をとらないのに……)
「禿げていないですよ、なんでそんなことを考えたんですか?」
こちらに笑いかけているロアンに、ホッとした笑顔でアステルはいきさつを説明し始める。
「このあいだ、なぜ魔王城の温泉に入ることになったかというと、ぼくの牢屋に入っている友達に、」
「牢屋に入っている友達」
ロアンの顔から笑みが消える。
「ええと、その友達に、頭に液体をかけられたからなんだけど、それが実はよだれで、消化液でもあったって言われたんだ」
アステルは髪を触っている。
「だから禿げていないか、気になったんだ。まったくもうルーキスもはやく言ってくれたら良いのにね」
目の前のアステルは困ったように笑っている。ロアンは、なぜアステルが笑い話にしているのかがちっともわからない。笑えない。
「アステル様、あの……よだれとか消化液をかけてくる相手と友達になっちゃダメですよ?」
「え? でも牢屋にいて、お腹が空いていたからなんでも美味しく見えたんだよ。まったくもう、ぼくなんか食べたって美味しくないのに、おかしいよね。今度は食べられないように、ちゃんとした差し入れを持って会いに行くよ」
アステルはくすくす笑っている。
(は? 何を言っているんだこの人は)
ロアンは呆れも怒りも通り越して、無になりながら言う。
「もう行かないでください」
「え!? 大事な友達なんだよ」
アステルは目をまんまるにしている。
ロアンは思わず真剣に聞く。
「私より大事な友達なんですか?」
「? ルアンより大事な友達なんていないよ」
アステルは不思議そうにロアンを見上げる。
「でしたら、行かないでください」
「う〜ん でも、お腹の空いた友達を放っておけないよ……」
(胃に穴があきそうだ……)
ロアンは胃をおさえている。ロアンとリアで、アステルが我が身を大事にするようにと育てているはずなのに、いまいち危機管理能力に欠ける目の前のアステルを見て。
(よだれと消化液が頭にかかったって……信じられない)
魔物に物理的に食べられかけているアステルを想像すると血の気が引いた。アステルが笑っているのが本当に信じられなかった。
(やっぱりアステル様を魔物の中で過ごさせるのは、危ないことなんじゃ……)
そのとき、ちょうどよくリアが通りかかる。
「ねえリア、アステル様が魔物に食べられかけたそうですけど」
「え!? 朝から何を言っているの?」
リアは驚く。
「ルーキスさんもそこに居たらしいです」
「ちょっとお父様、お父様ー!?」
リアはルーキスに話を聞きに行くが、寝ているのか不在なのか扉に鍵がかかっていて会えなかった。
アステルは2人から『その魔物の牢屋に行かないように、危ないから』とお説教を受けながら、ぼんやりと思う。
(なんで? クヴェールタは本気でぼくを食べたりしないのになあ……)




