いつもの常連客
「いらっしゃいませ!」
開いたドアの入口から、外気と喧騒が店内に流れ込んできたのを察した私は、カウンターを拭いていた手を休め、爽やかさを心がけながらお客様を出迎えた。
学生時代からずっと憧れていた喫茶店のマスターにようやくなれた私にとって、この半年間はとても充実したものになっていた。大好きな珈琲の香りと有線放送から流れる静かな音楽に包まれながら、ひとときの憩いを求めて訪れてくださるお客様を相手に、当店自慢の一杯をお出しする――ああ、何という至福の人生であろうか。あの身動きすら出来ない通勤電車に押し込まれ、上司にはねちねちといびられながら、得意先にひたすら頭を下げ続けていた灰色のサラリーマン生活がウソのようである。
それもこれも、早期優遇退職のお蔭だ。
単に体良くリストラに遭ったわけだが、サラリーマンが性に合わなかった私にとっては、むしろ渡りに船。それどころか、今のご時世、退職金が出ただけでも御の字であろう。
二十年以上、嫌でも辞めずに我慢していたのは、とにかく家族を養っていかなければならない責任があったからだ。すべてから解放された今は清々しい気持ちすら覚えていた。
ただ、その退職金で喫茶店を経営したいと妻に申し出たときは、さすがに呆れられた。娘の進学やゆくゆくの結婚資金、そして何があるか分からない夫婦の老後のために備えておくべきだと言われたのだ。妻の主張はもっともである。正論だ。しかし、今回ばかりは、私は何を言われようとも頑として折れなかった。
これまで流されるまま優柔不断な人生を送ってきた私にとって、人生における最初で最後とも言える固い決断だった。これこそが人生のターニング・ポイント。このチャンスを逃したら、二度と夢の実現は出来ないと思えた。喫茶店のマスターになるには今しかない、と。
そんな真剣な様子の私を見た妻は、不承不承という感じがありありではあったものの、最後には根負けしたらしく、承諾してくれた。いや、本当は諦めただけかもしれない。喫茶店が潰れるようなら、離婚しようとでも考えていたのだろう。
ところが、新規開店の喫茶店は順調なスタートを切った。場所的にも、多くの学生や会社勤めの人が利用する駅のすぐ近くという好立地であったため、来客は朝から夜まで途切れることなし。何より、最大の売りである珈琲の味に関してはかなりの自信があった。
無趣味だった私が唯一、これまで何十年もこだわり続けてきた味だ。大抵のお客様は私が淹れる珈琲の虜となり、毎日のようにお見えになる方も少なくない。
今では、あれだけ反対していた妻も、私が喫茶店を開いたことを喜んでくれている。妻に言わせると、最近の私は変わったそうだ。非社交的で陰気だった私が、まるで別人のように、とても生き生きとして見えるらしい。その通りだと私も思う。
ランチタイムを少し過ぎた時間帯、店に新しくやって来たのは、やや年配のサラリーマンだった。いつもの来るときは一人で、カウンター席に座る。開店直後から通ってくださっている常連さんだ。今日は何やら仕事のメールでも届いたのか、スマホの画面を熱心に見ていて、注文するのも忘れている。
そこで私は、
「いつものでよろしいですか?」
と、お冷やとおしぼりを出しながら尋ねた。メールに目を通していたサラリーマンは、一瞬キョトンとしたような顔をしたが、すぐに釣られたようにうなずく。当店ではオリジナル・ブレンドが一番人気なのだが、私は彼がいつも好んで飲んでいるアメリカンを淹れ始めた。
「お待たせしました。アメリカンです」
私はサラリーマンの目の前に珈琲カップを置いた。返信メールを終えたサラリーマンは出された一杯をしげしげと眺め、それから不思議そうに私の顔を見上げた。
「へえ、マスターは私がいつも何を頼んでいるのか憶えているの?」
「はい」
「私だけでなく、他のお客さんのも?」
「そうですね。大抵の常連さんならば。もっとも、日替わりで違うお客様もいらっしゃるので」
「へえーっ、そいつは驚いた! この店じゃ珈琲だけでも十種類以上はあるってのに!」
「お客様が来店されたら、すぐに飲みたいものをお出しする――そう常々、思っているだけです」
サラリーマンは、まるで華麗なカードマジックでも見せつけられたみたいに頭が追いついていないようだった。仰天しっぱなしの常連客に、私ははにかんだ。
「じゃあ、次に来るお客さんのも当ててみてよ」
私の記憶力がどれほどのものか試してみたくなったのだろう。常連のサラリーマンはそう私に持ちかけてきた。
「それは別に構いませんが……常連さんではないお客様もいらっしゃいますし」
「もちろん、そういうのはノーカンでいいからさ」
彼は遊び半分に言った。やれやれ、しょうがない。
すると都合良く、また新しいお客様が来店した。二人組のOLだ。遅いランチの帰りといったところだろう。
目の前のカウンター席に座ったサラリーマンは私に目配せしてきた。あの二人は常連か、という意味に違いない。私はさりげなくうなずくと、窓際のテーブル席に座った二人にお冷やとおしぼりを運んだ。
「いらっしゃいませ。いつものケーキセットですね? お客様はブレンド、そちら様はミルクティーでご注文はよろしいでしょうか?」
私が先回りするように注文しようとしていた品を言い当てたものだから、彼女たちは面喰った様子だった。ぎこちない笑顔を浮かべる。
「え、ええ……それで」
「お、お願いします……」
「かしこまりました」
私が戻って来ると、その様子を盗み見ていた先刻のサラリーマンが笑いを堪えるような顔をしていた。
「凄いですね! ビンゴだ!」
「いや、それほどでも」
その後も、私は一人で入店してきた営業マンと大学生三人組の注文を聞く前にそらんじて見せた。この遊びを気に入ったサラリーマンは、すっかり私の記憶力に感服した様子だ。
その彼が一服し終わり、そろそろ仕事に戻ろうとお勘定をしているところへ、また新たなお客様がやって来た。彼は如何にも運動不足だと見て取れる太り気味の営業マンで、額に汗を浮かべながら少し息を切らせていた。
「あ、あの……」
「どうぞ。今、空いておりますよ」
私が店の奥の方を示すと、その営業マンは小走り気味にそちらへ向かった。
「今のは?」
「ああ、あの方も常連のお客様でしてね。必ず来店されると、まず注文よりも先にトイレへ駆け込まれるのです」