メビウスの輪
逢沢里紗は、学園の告解室の中にいた。
古風なステンドグラスから夕日が差し込む礼拝堂の、片隅の薄暗い部屋である。告解室とは、壁越しに神父に、犯した罪の告白をする部屋である。
告解の秘密は、理由にかかわらず、必ず守られるのだ。
「私は罪を犯しました」長い髪をかき分けながら、里紗はそう言った。
「どんな罪ですか?」
告解室の壁越しに、年配の男性の声がした。吉沢神父だろう。温厚で優しい神父だ。
「ある人を、好きになってしまったのです」
「人を好きになるのは別に罪ではありませんよ」
「実は、同じクラスの子なのです」
「……」
神父の言葉はない。
この聖セシリア女学院は女子生徒しかいない。
つまり、同じクラスの子を好きだという事は、女性同士の同性愛を意味する事になる。カトリックの教義では、伝統的に同性愛は罪深いものとされている。
「つまり、好きになったのは女性ですね」
「ええ」
「カトリックの教義では罪とされる行為ですね……」
「ええ。でも、その人の事を好きなのです。片時も忘れられないのです」
「その子の名前は?」
「言えません」
「言うのです。決してあなたを罰したりはしません。主の御前で私が嘘をつくと思いますか?」
「解りました。その人の名前は、杉本真美さんです」
「なるほど。その杉本さんをどうして好きになったのですか?」
「クラス替えで初めて会った時から、顔もスタイルも美しく、立ち振る舞いも優雅で品があり、とても教養もあるので気になっていました。話しかけてみたら、趣味も同じで、とても気が合ったのです」
「ほほう、それで?」
「気がついたら、いつの間にか親友になっていたのです」
「親友、ですか」
「はい」
「そこに恋心が生じたのは、いつですか?」
「解りません。いつの間にか、好きになっていたのです。彼女とずっと一緒にいたい、そう思うようになりました」
「なるほど」
「しかし教えに反します。私は、その事に苦しんでいるのです。恋を取るか、信仰を取るのか……教えに反する恋は、とても罪深いと悩んでいます。この気持ちを忘れたい、でも忘れたくない、そんな気持ちです。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてです。私には解りません。いったい、どうすればいいのでしょう?」
里紗は苦しそうにそう言うと、下を向いた。
壁の向こう側からの返事はない。
「神父様、この胸の苦しみは、神様からの罰でしょうか?」
「いいえ。違いますよ」
「では、なぜ?」
「初恋は、誰にとっても甘く、そして切ないもの……あなたはいま、それを体験しているのです」
「切ないもの……ですか」
「恋を貫くか、信仰を取るかで悩んでいるのでしょう?」
「はい」
「あなたは、どうしたいのですか?」優しく壁の向こうの声が問いかけた。
「解りません」
「どちらに、より心を惹かれますか?」
「どちらとは?」
「信仰か、恋です」
「私にとって、信仰は大切です。でも……」
「でも?」
「私は、彼女を忘れる事が、できません。私は、罪深い女です」
しばらくして、咳払いの音がした。
「罪深いのは、誰もが同じです。誰もがみな、原罪を背負って生きています。さてここからが大切ですが……思い切って恋を貫いてみては、どうですか?」
その意外な返事に、里紗は驚いた。てっきり、信仰を選ぶように言われると思ったからだ。
「恋を、ですか?」
「そうです」
「でも、教義に反します……カトリックの教義では、許されない事ではありませんか?」
「確かに教義に反します」
「主がお許しに、ならないでしょう? それをやれと、おっしゃるのですか?」
「ええ」
「本当に、いいのですか?」里紗は不安で尋ねた。
「恋を貫き、もしそれが、仮に失敗に終わったとしても……主は、暖かくあなたを見守っている、と思います。その時に信仰を選ぶのです。その信仰こそ、本物になります。いまは、ただ、恋を貫いてごらんなさい」
「解りました。思い切って、彼女に告白してみます」
「そうしなさい。では、これで」壁の向こう側の声は沈黙した。
「ありがとうございました」
そう言いながら、里紗が告解室を出た。
そこは既に、夕闇に覆われて暗くなっていた。
里紗が、礼拝堂を出て行った後の事である。
告解室の、もう一方のドアが開いた。
そこから出てきたのは、神父の吉沢だった。
吉沢の背後から、すらりとした影がやってきた。その影が吉沢の肩をたたいた。
「吉沢さん、ご苦労さま」
「お嬢様……」
吉沢が振り返った先には、杉本真美がいた。学園の制服姿だ。長い黒髪をさらりとかき上げると、にっこりと笑った。
「おじいさまに、あなたを次期学園長にするように、お願しておくわ」
「ありがとうございます。くれぐれも、理事長によろしくお願いします」
吉沢は深々と頭を下げた。
「ところでお嬢様、あの方を本当にお好きなのですか?」
「もちろんよ」
そう言うと、真美は長い髪をなびかせて、夕闇の中に消えていった。