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【短編】巻き込み事故で異世界召喚された私が、なぜか邪竜サマの最愛の番になった話

作者: 天希莉緒

「はい……はい、申し訳ございません。すぐに正確な資料の作成にとりかかります。はい、今日じゅうに送信いたしますので!」


 受話器を握りしめたまま思わず頭を下げる私。

 電話の向こうで激怒する本社のマネージャーには見えるわけないのに、叱られることに慣れた体は自然に動いてしまう。


 ここは東京、丸の内。大型商業ビルに入るセレクトショップ。

 私、佐藤千花さとうちかが務める職場のバックオフィスだ。


「どうしました、チーフ?」

 

 近くで今日の売り上げを集計していた後輩社員が声をかけてくる。


「本社に提出したイベント売り上げ報告書の数字が、全部間違ってたんだって」


「それって、袴田はかまださんが担当した資料ですか? チーフが最終チェックしたんですよね」

 

「それが彼女、私を通さないで本社に送信しちゃったみたいなのよ。提出前に確認させてねって言ってあったんだけど……」


 仕方ない。私が手伝って、やり直すしか。

 これで今日も残業確定。他にもクレーム処理や企画書の仕事もあるし、終電までに帰れるかどうか……。


 思わず額に手をやる私の背後を、別の後輩社員がスタスタと通り過ぎる。


「お先に失礼しまーす」


 ピンクのワンピースの裾をなびかせ、茶色の髪をふんわり巻いた女性社員。

 まさに今、ミスをしたことが発覚した袴田みりあがオフィスの外へと出て行くところだった。

 

 お先に失礼しますって、いまは定時の三十分前ですよ?


 慌てて後を追う。


 社長の姪でコネ入社、普段から我儘な振る舞いが目立つ袴田さん。遅刻も早退も日常茶飯事だ。仕事上のミスも、めちゃくちゃ多い。


 チーフなんて中途半端な立場の私は、彼女のフォローのために毎日のようにサービス残業をしていた。店長は見て見ぬふりだ。

 

「袴田さん、ちょっといい?」


 エレベーターを待っているところを呼び止めた私を、袴田さんは余裕の笑顔で振り返った。


「何ですか、センパイ? みりあ、もう帰るんですけど」


 袴田さんの一人称は、彼女のファーストネーム「みりあ」である。


 私のことは「センパイ」と呼ぶ。

 「チーフ」でも「先輩」でもなく、あくまで軽い響きの「センパイ」。

 「おばさん」と揶揄する代わりに「センパイ」と言う言葉を充てているのは、何となく伝わっていた。


「あのね、本社から連絡があって、袴田さんにお願いしてたイベント報告書の数字が間違っていたそうなの。提出前に確認させてほしかったな」


「そうなんですか、スミマセン。センパイを煩わせたら悪いなーって思って、みりあ勝手に提出しちゃいました」


 可愛い顔で棒読みの台詞を吐き、袴田さんはエレベーターのボタンを押す。


「ちょっと待って、急いで訂正して再提出しないといけないのよ。本社の人たちも待ってて」


「あー、それセンパイがやっておいてください」


 え? とうとう丸投げ?


 店長からは、なるべく袴田さんを怒らせるなと言われている。社長に告げ口されて、覚えが悪くなるといけないからだ。 

 けど、今日はさすがに見逃せない、気がする。


「ねえ袴田さん、引き受けた仕事は最後までやろうよ。終業時間前だし、私も手伝うから……っ」


 思わず言葉が途切れたのは、いきなり強い力で袴田さんに腕を掴まれたからだ。


「しつこいですよ、センパイ。みりあのフォローをするのが上司の義務でしょ。パワハラされたって副社長おじさんに言いますよ? 遠方の支店に飛ばされても知りませんからね?」


「パワハラって……」


 威嚇するように睨み付けてくる袴田さん。

 これ、どっちがパワハラしてる側なんだろう。脅されてるのは私じゃないのか。

 

 内心泣きたくなったとき、言葉に詰まる私の足もとの床が、急に光り始めた。


(え……なに、この光?)


 私の腕を掴んでいる袴田さんも、異変に気付いて顔をこわばらせる。


「何なのよ、これ!?」


 袴田さんが叫ぶと同時に、体がフワリと宙に浮いた。 

 そして。




 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎




 なに、この光景。

 これは現実なんだろうか?


「せ……成功だ! 召喚が成功した!」


「聖女様の降臨だ!!」


「これで我々は助かるぞ!!」


 沸きあがる歓声。

 冷たい大理石の床に茫然とへたりこんでいる私――佐藤千花さとうちかの周囲を、遠巻きに大勢の人(ほとんどが中年男性)が取り囲んでいる。


 しかもみなさん、なんだか変な格好してますけど。

 白いトーガみたいな服に長い杖を持って……え、コスプレ?

 しかも外国人ばっかり。何のイベントですか?


「召喚? 聖女? 何それ……」


 思わず呟く私のすぐ隣で、


「いったあーい! ていうか、どこよ、ここ!?」


 キレぎみの喚き声が聞こえた。

 袴田さんが腰を摩りながら盛大に顔をしかめている。


 そう。

 さっきまで私は、この後輩社員と一緒に、職場である丸の内の商業ビルのエレベーターホールに居たはず。


 なのに、どうして今、こんなだだっ広くて薄暗い神殿みたいな空間で尻餅をついてるんだろう?

 どう見ても、ここ、あのビルじゃないもんね?


 ドーム型の高い天井。支える柱には、竜みたいな生き物や、翼の生えた女性像が刻まれている。

 白い床には、私と袴田さんを中心に据えるように円が描かれていた。


 不思議な服装のおじさんたちは、円陣の外側で歓声を上げたり、感動のあまりむせび泣くような仕草をしている。何をそんなに興奮してらっしゃるんでしょうか!?


 ギャラリーの中から、白く長い髭をたくわえた老人が進み出た。

 私達の前まで来ると、恭しく膝を折る。


「アスダール王国へようこそ、聖女様」


 ひとまずは、明らかに西洋人の顔立ちのお爺さんの言葉が理解できることにホッとしたけど――問題はそこじゃない。

 お爺さん、いま何ておっしゃいました?


「は? 聖女って何よ、おっさん」


 髪をふわふわと巻いた可愛い外見にそぐわない舌打ちとともに、袴田さんが喧嘩腰で問う。

 やや面食らったように眉を上げ、髭の老人はますます頭を低くした。


「驚かれるのも無理はございません。聖女様には天を渡り、はるばる我々のもとへ来ていただいたのですから。私は神官長ヘルムート。聖女様、召喚の儀にお応えいただき、誠に有難うございます」


「召喚の儀?」


 今度は私と袴田さん、二人の声が揃った。


「さようでございます。我々をお救いください、聖女様。アスダールはもう長いこと、邪悪なドラゴンの呪いの下で苦しんでおります。かの者に対抗できるのは、天よりまいられし聖女様の祈りだけなのです」


 邪悪なドラゴン? 呪い? 

 アスダール王国って聞いたこともない国だし…… 


 円陣を囲む人々の笑顔に、ぞっと鳥肌が立った。

 何なの、この状況。気味が悪い。


 袴田さんが勢いよく立ち上がった。

 

「ばかばかしい! 帰る! ねえ、みりあのバッグどこ? あれ高かったんだから、汚れてたら弁償してもらうからね!」 


「袴田さん、いまそういう場合じゃ……」  


「あ、イヤリングも片方ないじゃない! ちょっと、どうしてくれるのよ!」


「そんなもの、これからいくらでも与えてやる」


 袴田さんの文句に被って、男性の声がした。


 神官長の後ろに若い男性が立つ。

 二十代半ばぐらいかな。背の高い、金髪の美青年イケメンだ。

 西洋の王族が着るみたいな軍服風のデザインの衣装に白いマント。頭部にも何やら王冠みたいなものが載っている。


 王子様のコスプレですか? と尋ねたくなりそうな出で立ちだけど、非現実感の割にコスプレ風味は全くない。

 彼が身に着けた宝飾品も、服の生地も、すべてが本格的な輝きを放っているからだ。


 袴田さんに向かって青年が微笑んだ。


「私はアスダール国王ラスティン。そなた、名前は?」


 王子様どころか王様だった!


「みりあです……袴田みりあ」


 さっきまでの剣幕はどこへやら、袴田さんがうっとりと答える。


「ハカマ……難しい名前だな」


「みりあって呼んでください」


「ではミリア、よくぞ我がアスダールへ舞い降りてくれた。まずは美しいそなたを、よりいっそう美しく飾らせてもらうところから始めるとしよう。人々が崇め、ひれ伏すように」


「はい……!」


「それから」


 ラスティン国王が、ようやく私を見る。

 ただし明らかに「つまらないもの」を見る目で。


「そこのみすぼらしい女。お前は何者だ?」




 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎




 ――弱冠二十九歳の国王ラスティンと、おじいちゃん神官ヘルムートがいうには。

 ここはどうやら、『異世界』らしい。


 日本じゃないどころか、地球でもないってこと。

 何せ世の中を動かしてるのは科学じゃなく魔法で、人を喰らうドラゴンが存在してるっていうんだから。


 そして、ここアスダール王国は長きにわたり、「邪竜」――人間に仇なす邪悪な竜のこと――の発する呪いに苦しめられているんだって。


 邪竜は国の外れに位置する広大な渓谷に棲んでいて、生きているだけで人間に害をもたらす。

 アスダールの人々は今まで数度に渡り討伐軍を送ったけれど、邪竜の力は強大で、その命を絶つことはできなかった。


 邪竜のせいで王国は幾度となく災害に見舞われ、産業も育たない。

 困り果てた国王は国じゅうの魔術者を集め、異世界から「聖女」を呼び寄せる術を行うようになった。


 なんだかね、邪竜の呪いに対抗するには、この世界の摂理の外で生きる「異質な存在」が祈りを捧げることが有効なんですってよ? それが異世界人、つまりは聖女ってことになるらしい。


 召喚の儀式とやらは過去にも実施され、そのたびに降臨した聖女の祈りによってアスダール王国は邪竜の呪いを免れてきた。


 しかも歴代の聖女は、アスダール国王の正妃になるのが習わしだそう。

 

 ラスティン国王が眉を顰める。


「ヘルムート、聖女は一人ときまっているはずだな?」


「さようでございます、国王陛下。魔法陣の中に異世界人が二人同時に現れたなど聞いたことがございませぬ」


 えーと、二人のうち一人は巻き込み事故に遭っちゃったってこと?

 じゃあ、袴田さんと私、どちらが聖女なのかというと――


「神官長、ミリアが聖女ということでよいな?」


「はい、国王陛下」


 国王と神官長のあいだでごく簡単な会話が交わされ、袴田さんが聖女に認定。早!


 まあ、わかるけど。

 二十歳の袴田さんは、もともと可愛らしい顔立ち。

 そのうえ茶色の巻き髪、淡いピンクのワンピース姿。いかにも聖女っぽい。


 かたや二十八歳の私。

 髪は一本縛りだし、服装は黒一色のパンツスーツ。

 それ以前に、顔立ちもスタイルも平均的。

 はっきり言って、地味。子供の頃は、よく「千花ちかちゃんって名前負けしてるよねー」と言われたっけ。


 第一、自分に特別な力があるとは到底思えない。

 だから袴田さんが聖女ってことで異論はないんだけど……

 

「みりあが聖女? じゃあみりあ、ラスティン国王のお嫁さんになれるの?」


「そうだ。どんな贅沢もかなえてやるぞ」


「やったー! ラスティン様、だーいすき!」


 まんざらでもなさそうな袴田さん。

 たしかにラスティン国王、ルックスはいい。それに「お妃」っていう響きは確かに魅力的だ。でも、でもね。


「ねえ袴田さん、いいの?」


「何が?」


 面倒くさそうに袴田さんが訊き返してくる。


「ここが安全な場所かどうかわからないじゃない。それに国王このひとたち、私たちを元の世界に還す気がサラサラないみたいよ……気づいてる?」


 私の言葉に、袴田さんはニヤリと笑った。


「そんなの、とっくに気づいてます。こうなったら少しでもメリットのある生き方を選択するまでってことですよ」


「メリット?」


 私たちのひそひそ話に、ラスティン国王が割り込んできた。


「ミリア、この女は? お前の侍女か?」


 尋ねられた袴田さんが、何かを思いついた顔で唇の端を上げた。

 国王へと振り返り、甘えた声を出す。


「違いますー。これ、みりあの召使いです!」


「召使い?」


 え、私が袴田さんの?


「そうか。では世話役として側に置くか?」


「結構です、国王陛下。この召使い、ぜんぜん使えないし、普段から意地悪ばっかりするんですよぉ。さっきもみりあ、この人に腕を掴まれて暴力を振るわれそうになってて。それで一緒にくっついてきちゃったんじゃないですか?」


「暴力って……それは違うでしょ、袴田さん!」


「いやー、こわーい!」


 国王の背後に隠れる袴田さん。


「それはいかん、取り押さえよ」という国王の言葉で、私は護衛騎士たちによって拘束されてしまった。


「ちょっと待って、聞いてくださいってば!」


 必死に訴えてみるも、誰ひとり耳を貸してくれない。


 床に押さえつけられた私を、袴田さんが口元に手を当てて見ている。笑いを隠しているのだ。


「この女、いかがいたしましょう、陛下」


 騎士団長らしき男性がラスティン国王に尋ねている。


「そうだな……よい使いみちがある」


 そう言って笑ったラスティンの表情は、さっきの袴田さんによく似ていた。




 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎



 国を守るための、異世界からの聖女召喚。

 ここまでは理解できないでもない。いや、荒唐無稽な話だなとは心から思うけど。


 だけど、それに巻き込まれただけの私の使いみちが「人喰い邪竜への生贄」って!

 それは納得いかないし、ひどすぎない!?


「邪竜の生贄って、私に死ねってことですか!? いくらなんでも理不尽……!」


「何を言う。聖女を苛めていた異世界人のお前が、竜に喰われることでアスダールの役に立つのだ。不要品の分際には身に余る名誉というもの。感謝するのだな」


 ラスティン国王はじめ、誰も私の言葉なんて聞いてくれない。


 そこからの流れは実にスピーディーだった。

 いかにも生贄風のシンプルなワンピースに着替えさせられた私は、手足を拘束され、扉に鍵のついた馬車に放り込まれた。


 水くらいしか与えてもらえず馬車に揺られ、外に放り出されたのは三日後。


「恨むなよ、異世界人」


 そんなことを言いながら、私をここまで運んだ男たちはそそくさと逃げ去っていく。


(どこよ、ここ……)

 

 たったひとりで残された場所は、深い森の中だった。


 森といっても、木々は立ち枯れ、白骨のような枝を曇天に向かって突き出している。

 草は萎れて変色し、乾いた空気の中で項垂れていた。

 生き物の気配がない。もちろん、花なんて一輪も見当たらない。


 まさに『死の森』という言葉がぴったりの空間に、やたらと広いステージみたいな石の台座が据えられていた。


 よく見ると円形のステージには、ところどころ溝のように深い傷が走っている。


 まさか、ドラゴンの爪あと!?

 だとしたら、すごい大きさだ。邪竜の本体を想像すると、恐ろしくて眩暈がした。


 手足の自由を奪われ転がされたまま、私は今までの人生を反芻する。

 こんなところで、ドラゴンに食べられて死ぬなんて。


(ああ、ろくな人生じゃなかったな……)


 いつも、こうだ。

 もといた世界でも、私の話なんて誰も聞いてくれなかった。

 

 思えば子供の頃から、両親も私に冷たかったし。

 妹が可愛がられる一方で、姉の私は何故か邪魔者扱い。

 特に母は、事あるごとに私が嫌いと言って憚らなかった。私が喋ると、きまって不機嫌になった。


 高校を卒業したら、家から出て行けと言われて。

 奨学金を貰って大学へ通って、必死でアルバイトしながら卒業まで漕ぎつけて、外資系の服飾会社に就職した。

 その会社が、世間の企業イメージを裏切るブラック労働だった。

 

 店頭でのシフトは過酷をきわめ、退職者が続出。

 人手が足りないから残った社員は体調が悪くても出勤。休日も出勤。

 おまけに毎日が製品クレームの嵐。数字にならない仕事が山積みで深夜まで帰れない。


 気づいたときには同期は一人もいなくなって、同性の先輩社員たちも全員いなくなって、私は職場で最年長の女性社員という立ち位置になっていた。


 辞めていった人たちは悪くない。

 辛いときに辛いと言うのは悪いことじゃない。

 私がいちばんの社畜だったってだけ。自ら生贄になっていただけ。


 今年入ってきた新人(袴田さんのことね)は副社長のコネだとかで、仕事を覚える気が感じられなかった。ミスを連発しても反省するフリすらしない。

 おかげでこちらの仕事は増えるばかりだったけど、少しでも注意すると「副社長に報告しますよ?」の脅しがくるので強く言えなかった。

 

(……もう、疲れた)


 そもそも、あちらに残っていても過労死してたかもしれないな。


 「嫌だ」とか、「無理です」とか。

 そういうことが言えない性格で、人に頼るのも苦手で。


 生活が仕事だけになって、いつのまにか友達とも疎遠になってた。恋人だって何年もいない。

 チーフなんて中途半端な肩書のもと、上司にも部下にも便利に使われ、あげくに異世界で竜の餌食……って、どんな人生よ。特に最期がひどすぎる。


 ――ひとりぼっちになってから、どのくらい経っただろう。


 ただでさえ薄暗い森の陽射しが、急に翳った。

 頭上で大きな鳥が羽ばたくような音がする。


(……!?)


 何か、いる。

 上空に、とても巨大な何かが。


 さすがに恐怖を感じて、必死に上体を起こした。


 ザザザ……

 大きな音を立てて周囲の木々が激しく揺れる。

 次の瞬間、地面が揺らぐほどの重たい衝撃とともに、巨大な生物が石のステージの上に降り立った。


 鉤爪のついた大きく太い足。

 黒曜石を思わせる黒い鱗に覆われた躰。その背中から視界を覆うほどの巨大な翼が伸びている。

 こちらを見下ろす、暗い光を宿した宝石のような、深い紫色の瞳。


 石のステージの上で、私は、初めて遭遇する巨大生物と相対していた。


(これが、邪竜……!)


 恐怖で声も出てこない。

 竜のほうも鳴き声を発するでもなく、じっと凝視しているようだ。

 ていうか邪竜、大きすぎ。頭部だけで私の身長くらいある。


(あの口が開いたら、食べられちゃう)


 きっと牙なんかいっぱい生えてるんだろうな。できるだけ苦しまないで死にたいけど無理っぽいな……。


 あ、ドラゴンって言葉が通じるんだろうか。

 ちょっと頼んでみようかな、とか思った私は、既に恐怖で壊れてたのかもしれない。


「あ、あの……で、できるだけ痛みがすくない食べ方をしていただけますでしょうか? ど、どうかよろしく、ご検討くださいませっ」


 クレーム処理みたいな口調で噛みまくりながら言う。

 竜が大きな頭を上げた。天に向かって息を吐く。

 ゴウッと風が鳴り、木立がまた大きく揺れた。


「ひゃっ……」


 いよいよ食べられる、と思ったところで、高いところから声が聞こえた。


「喰わねえよ、ヒトの肉なんか」


「……へ?」


 いま喋ったの、誰?


「お前、あれか。俺への生贄とやらで連れてこられたのか」


「……」


 竜の眼が、じっとこちらを見下ろしている。

 やっぱり、この竜が話してる!


 返事をしない私に焦れたのか、竜がまた深く息を吐いた。


「あいつら、何度同じことを繰り返せば理解するんだ。ドラゴンは人間を喰わない。生贄なんて意味ねえよ」


「同じ、こと? わ、私の前にも生贄がいたんですか……?」」


「ああ、数えきれないくらい差し出されてきたぜ。全員、女だったな」


 ドラゴンが片方の髭をピンと上げた。

 その仕草といい、ぶっきらぼうな口調といい、妙に人間味がある。


「そ、その人たちは、どこに行っちゃったの?」


「決まってんだろ、送り返した。どいつもこいつもギャアギャア喚いてうるせーから。お前は珍しくおとなしいな。変なやつ」


 そう言って、邪竜はおもむろに片足を上げた。

 鉤爪の足がドン、と石のステージを踏む。 


 その足元に、たちまち銀色の渦が出現した。


 呆気にとられて見つめていると、手足を戒めていた縄がブツリと勝手に切れた。


「……あ、れ?」

 

「お前も帰れ」


 静かな声でドラゴンが言った。


「え……」


「帰りたいんだろ? この渦に入れば、もといた場所に戻れるぞ」


「うそ……!?」


 上体を起こし、渦をみつめる。


 あの中へ飛び込めば、帰れるっていうの?

 異世界へ通じる門のようなものだってこと?

 

 それはこの上なく喜ばしい、はず……だったけど。

 

 もといた世界。

 いつも通りの日々。


 ぽろり、と頬を涙が伝った。


「そうか、泣くほど嬉しいか。そりゃよかった、さっさと帰れ……ん?」


 竜が首を傾げた。


「おかしいな、渦に何も映らない。お前の頭の中に帰りたい場所が浮かんでいれば、そこに繋がるはずなんだが……」


「嫌だ」


 短い拒絶の言葉が口をついた。


「帰りたく、ない」


「……何だって?」


「帰りたくない。帰りたい場所なんてないの」


「なに言ってんだ、お前」


 自分でも馬鹿なことを言ってると思う。

 でも、本当に帰りたくない。あの日々には。


 出勤の満員電車。

 クレーム対応で怒鳴られ罵倒され、深夜まで残業して、疲れ果てた体で家路を辿る毎日。


 誰も待っていない部屋。

 会社からの呼び出し以外で鳴ることのないスマートフォン。

 タスク満載のパソコン画面。


 冷たかった両親。

 帰る故郷のない自分――。


 ――『嫌だ』。

 その一言が言えない。言っても誰も聞いてくれなかった。


 嫌だ、って、やっと言えたのに。

 それが、こんなわけのわからない異世界の、わけのわからない巨大生物の前だなんて、もう本当にわけがわからなすぎ。

 情けなくて、涙が止めどなく溢れてくる。


 泣きじゃくる私を前にして、邪竜は黙りこくっていた。

 蛇みたいな顔は、表情の変化なんて殆ど読み取れない。でも、何かを考えているのが伝わってくる。

 

 そして。

 信じられない事態が起こり始めた。


 邪竜の体が、みるみる縮んでいくのだ。

 体高が半分になり、四分の一になり、横幅も縮んで――ていうか、体全部が変化してる?


 やがて目の前の巨大生物は、完全に姿を変えた。


「……!?」


 いま目の前に立っているのは、ひとりの青年。

 黒い頭髪は、邪竜の鬣の色そのままだ。宝石のような紫の瞳も。


 人間の男性、に見える。

 年齢も私とそう変わらないだろう。

 ただ、頭部には二本の角が生えているし、袖のない上着から覗く腕の上部は、ドラゴンだったときと同じ黒い鱗に覆われている。

 そして――その顔立ちは、おそろしいほど整っていた。


 異形。

 だけど、美しい。

 彼の容姿を表現するなら、ほかに言いようがない。


 これは夢なんだ、と思った。

 なんなら異世界召喚のあたりから全部、夢。

 だって、こんなに綺麗な男の人が現実にいるわけないもの――。


「泣くのはやめろ。俺はうるさいのが嫌いなんだよ」


 少し前までドラゴンだった青年が、困ったように言う。

 そして、こちらに向かって腕を伸ばした。


「……っ」


 何をされるのかと思わず身を固くした次の瞬間、彼が差し出した掌の上に、きらきらと輝く小さな光の球が出現した。

 それは見る間に輪郭を持ち、艶々とした赤い林檎になった。


「とりあえず、これでも食え。腹の虫が喚いてるぞ」


「え?」


 指摘されたとたん、私のお腹からグーッとすごい音がした。

 自分で気づかなかっただけで、ずっとお腹が鳴ってたんだろう。


 そういえば、しばらく何も食べてない。

 気づいたとたん、「空腹」という感覚を思い出してしまった。


 もう他に何も考えられなかった。

 林檎を手に取り、かぶりつく。


「……美味しい……!」


 ほんと、夢とは思えないくらい。

 みずみずしい果肉の甘酸っぱい味が疲れた体に沁みていく。


「おい……泣くか食うか、どっちかにしろって」


 私を見下ろし、青年が呆れたように言う。

 そして、


「名前は?」


「ち……千花」


「チカ? 妙な名前だな。意味とかあるのか」


「千の花、って、意味です」


「へえ。……てかお前、いい食いっぷりだな。俺が怖くないのか?」


「ふぁい」


 ドラゴンの姿だった時よりはね、というのが本音だったけど、食べるのに忙しくて返事がいい加減になる。


 ふうん、と呟く青年。

 彼の背後で、光の渦が音もなく消えていく。


 どこにも繋がらなかった門が閉じるのを見ながら林檎を食べ終えて、私が次に思い出した感覚は……信じられないことに「疲労」だった。


 ああ、眠い。

 だって、こっちの世界に来て以来、まともに寝てもいなかったもの。


 ここは、きっと夢の中。

 だから眠れば、周囲に広がる死の森も消えてなくなるんだ。

 目の前にいる、口の悪い綺麗な人も。


 


  ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎




 薄く差しこむ光に瞼をくすぐられる感覚で、目を開けた。

 柔らかい毛布にくるまって、私は横たわっていた。


(ああ、やっぱり夢だったか……ん?)


 てっきり一人暮らしの自分の部屋で夢から醒めたと思ったのに。

 肌にあたる寝具の手触りが、いつもと違う。


 まさかこのシーツ、絹じゃないよね? 

 しかも、やたらと豪華な刺繍が施されてるし……

 

 体を起こして見まわしてみた。

 私がいたのは、見知らぬ部屋のベッドの上だった。

 

 部屋といっても、普通の部屋じゃない。

 天井の高い、綺麗で清潔で広い部屋だ。

 ベッドは天蓋つき。天鵞絨とレースのカーテンに飾られた大きな窓から陽の光が射している。


 どこぞの貴族のお城ですか?

 やっぱり私、まだ夢を見てるんじゃ……?


 と、枕の陰で何かが動いた。


「?」


 そーっと枕を持ち上げてみる。


 一瞬、何を見たのか理解できなかった。

 そこには、掌に載るくらいの小さな子供――ヨーロッパの絵画に出てくる天使みたいに、金色の巻き毛で翼が生えてる――が四人、上目遣いでこちらを見上げていたから。


「……きゃあ!」


『キャー!』

 

 私が悲鳴を上げると同時に、小さな人たちも叫ぶ。

 そして、


『ドラゴン!』

『ドラゴンニ知ラセナキャ!』

『オンナノコ、目ヲ覚マシタヨー』

『ハヤク来テ、ドラゴンー!』


 口々に囀りながら、背中の翼で羽ばたいて部屋から出て行ってしまった。


(何あれ、可愛い……)


 やっぱり夢だな、これ。

 だってアレ、天使でしょ? 現実にいるわけないよね? それとも私、死んだかな?


 とりあえず、小さな人たちに続いて部屋を出てみる。

 廊下に出たあとも、貴族のお城、という第一印象を裏切らない景色が続いた。

 高い天井。シャンデリア。階下へ続く螺旋階段。そして、誰もいない。


 小さな人たちは、待ち構えるように螺旋階段の手摺に腰掛けていた。

 私を見ると空中へ舞い上がり、手招きしながら下へと向かう。


 階段の下は広いホールだった。

 少し行ったところに大きな扉がある。


「目が覚めたか」


「ひゃっ」


 背後から急に話しかけられて、思わず変な声が出た。

 振り向くと、あの青年が腕を組み、紫色に輝く瞳でじっとこちらを見ていた。


『オンナノコ、生キテタヨ!』

『ヨカッタネ、ドラゴン!』

『トッテモ心配シテタモンネ、ドラゴン!』


「おい、余計なこと言うなって」


 周りを飛びまわりながらはしゃぐ小人たちを、青年が耳を真っ赤にして叱りつける。

 そしてこちらへ向き直り、


「こいつらのことは気にすんな。勝手に棲みついてる妖精だから」


「妖精?」


『ヨロシクネー!』

『ヨウコソ、ドラゴンノ森ヘー!』


 妖精ちゃんたちの声は合唱のハーモニーみたいだ。

 ようこそ、ドラゴンの森へ?


「ねえ、やっぱりあなた、あの邪竜……サマ、なの?」


「ああ。その呼び方はあんまり好きじゃねえけど」


 ぶっきらぼうな口調で青年が言葉を返す。


「てっきり夢かと……ドラゴンが人になるとか……」


「それはそうとお前、見かけによらず神経太いな。林檎食ったら即眠っちまいやがって」


(そ、そういえば!)


 林檎を完食したあと、あの石のステージの上で私、すぐに意識がなくなっちゃったんだった。

 どうやら気絶したっぽい。我ながらヒドイ有りさま。 


「あの……このお城は?」


「俺の棲処すみかだ」


「もしかして、わざわざ運んでくれたの?」


「仕方なかったんだよ、お前がいた世界に返そうにも『門』がどこにも繋がらなかったし。……そんなやつ初めて見た」


「ああ……」


 彼がいう「門」とは、あの渦のことだ。

 何も映し出さなかった、空虚な光の輪。


 帰りたい場所がない私には、転移の門とやらも無意味だったってわけね。  

 自分で思ってる以上に世界と縁の薄い人間だったんだな、私。

 

 二十八年も生きて、帰る場所も作れなかったなんて。

 たぶん、これからも同じ。

 私は、一人だ。


「どこへ行く?」

 

「お世話になりました。出ていきます」


 ここにいても、いずれ邪魔にされる、と思った。

 ここは知らない人の家。私が居ていい場所じゃない。相手が不機嫌になる前に出て行かなくちゃ。


「おい、ふらついてるぞ」


「大丈夫です。……わっ!?」


 つんのめったところを、青年に抱き止められた。


「言わんこっちゃない。無理すんなって。行く宛てなんてあるのか」


「……」


「ないよな。帰る場所もないんだから」


 青年の言葉は真実そのもので。

 だからこそ、棘のように刺さった。

 振り払うように彼の体を遠ざける。


「でも、私がここにいたら迷惑でしょ」


 言ってしまってから、あ、と思った。


(こんなにキツい言い方しなくてもよかったのに……)


 ちっぽけな自尊心を傷つけられて、態度が硬くなるのが私の悪い癖だ。 

 彼は悪くないのに、本当のことを言っただけなのに。 

 邪竜サマが、ちょっと怯んだ顔をした。


「誰がそんなこと言ったよ。可愛くねえな」


「よく言われます。……ごめんなさい」


 頭を下げて、ふたたび扉へと向かう。


「おい待てって、俺が言いたかったのは」


『オンナノコ、ドコ行クノー?』

『行カナイデー? アブナイヨー!』


 追いすがるような邪竜サマと妖精ちゃんたちの声を無視して、大きな扉に手をかけた。 

 体重をかけて押す。

 重い扉の外には、あの立ち枯れの森が広がっていた。


 こんな世界で一人、どうやって生きていけばいいのかわからない。

 でも、やるしかない。

 誰も頼っちゃいけない。今までだってそうしてきたんだから――

  

 唇を噛みしめて外へと踏み出す。

 靴の下で枯れ枝が弾ける感覚に怯むと同時に、青年が叫んだ。 


「待てよ、チカ!」


 その瞬間。

 視界に入る色彩が、一気に変わった。

 

「……え?」


 爪先で緑色が弾ける。

 地面から草が芽吹き、枯れ枝を覆う。まるで若草の絨毯みたいに。


 それだけじゃない。

 白骨のように立ち枯れていた木々に生気が戻り、瞬く間に緑の葉を茂らせていく。

 足元の草を埋めるように、木々の枝先に、次々と花が開いていった。


 あっというまに、いちめんの花々が視界を埋めた。

 空を覆っていた雲は吹き払われ、陽射しが景色をよりいっそう明るく彩る――。


「聞けよ」


 邪竜サマ私の前に立った。

 乱暴な口調に似つかわしくない気弱そうな表情が、整った顔に浮かんでいる。


「俺が言いたかったのはさ。行くところがないなら、居ればって話」


「居れば、って……ここに?」


「ああ。さっきよりは少しマシになっただろ」


『オ花、キレイダネー』

『ヤッタネ、ドラゴン! ヤレバデキルネー!』


 妖精ちゃんたちが空中で抱き合ってはしゃいでる。


「あなたが花を咲かせたの? こんなことができるの!? こんな……こんな、すごいことが」


「ま、まあな。こんなの簡単だ」


「どうして……」


「どうしてって、そりゃあ……俺ひとりなら、こんなもんいらねーけど」


 足もとの花を見下ろして、青年が恥ずかしそうに言う。


「花でも見たら元気出るんじゃないかと思ってさ。お前の名前、チカって、千の花って意味って言ってただろ。たがら……うわ、なんでまた泣く!?」

 

 ……本当に。

 どうして泣いてるんだろう、私。


 情けないのか嬉しいのか、もうわからない。  

 しゃがみこんだ私の上に、慌てた声が降ってくる。 


「俺やらかした? 間違えた? こんなもん見ても嬉しくないか。人間の女わかんねー……」

 

「ちがう……」


 膝に顔を埋めたまま、首を横に振った。


「違う。間違えてない。……嬉しい」


「そ、そうか?」


「うん」


 今の今まで、どうして気づけなかったんだろう。

 誰も話を聞いてくれないなんて思ってた私こそ、いつのまにか他人の言葉に耳を塞いでた。


 自分の気持ちを伝えることを諦め、人を遠ざけてた。 

 心を閉ざしてたんだから、誰ともわかりあえるわけなかったんだ。


 そんな私と、邪竜サマは話そうとしてくれた。

 振り切って逃げようとした私に、聞けよ、って言ってくれた。喜ばせようとしてくれた。

 その気持ちを、この景色で伝えてくれた。


 だから――私も伝えなくちゃ。素直な自分の想いを。


「……ありがとう。はじめて見た。こんな綺麗な景色」


「そ、そうか、綺麗か。そりゃ、よかった」


 ほっとしたように顔を綻ばせた彼が、膝を折り、私と視線の高さを合わせる。

 そして真剣な表情に戻り、続けた。


「ここに、いろよ。チカ」


「うん。いる」


 頷いてみせると、青年はまた嬉しそうに笑った。


「ああ、それがいい。そうしろ、な?」


 その顔が、無邪気な子供みたいで。

 なんだか可愛いと思えてしまった。


 そういえば、「千花」って、名前を呼ばれたのも久しぶりな気がする。


 職場で呼ばれるときは苗字か「チーフ」だし。

 袴田さんは「センパイ」呼び。


 慌しい生活の中に埋没して、単なる記号に成り果てた私の名前。

 心のどこかで、本当の自分まで消えていくような気がしてた。

 いつも息苦しくて、居場所がないと感じた。


 だけど目の前にいるこのひとは、いちめんの花の中で私の名前を呼んでくれた。


「……ねえ、邪竜サマ」


「ん?」


「あなたの本当の名前は、なんていうの」


 彼の表情が、一瞬で曇った。


「そんなもん、ねえよ」


「そうなの?」


「この森に棲んでるのは俺だけだ。一人でいるぶんには名前なんて必要ないだろ」


 答える口調に苛立ちが滲んだ。

 怒らせたかなと思って、黙る。


 少しの沈黙のあと。

 邪竜サマは、急に言った。


「……なあ。つけてくれよ、名前」


「え? 私が?」


「嫌なら、いいけど」


 予防線を張る声が自信なさげに揺れているのを、私は聞き逃すことができなかった。


 きっと彼も、こうやって色々なものを諦めてきたんだ。


 何か、何か言わなくちゃ。

 私を生かしてくれた彼に、もう諦めてほしくない。


 名前。

 彼に相応しい名前――


「……アイオライト」


「は?」


 透き通る紫色の目が驚いたようにこちらをみつめた。

 ほんとうに、宝石のアイオライトみたいな。綺麗な瞳。


「私のいた世界にね、そういう名前の宝石があるの。あなたの目みたいな色。だから」


「……」


「ちょ、ちょっと長いかな? そうね……イオ! これからはあなたのこと、イオって呼ぶのはどう?」


「……イオ」


 反芻するように、彼の唇が音を刻む。

 目を閉じて上を向き、ふたたび瞼を開けて空を見上げて――


「悪くねえな。チカ」


 心底嬉しそうに彼は微笑んだ。


 やっぱり綺麗な顔だ、としみじみ思った。

 それ以上に、優しい笑顔だ、と思った。

 そして、思えた。ここにいても、いいのかな、と。


 イオと、たくさん話した。

 長い私の話を、イオは全部、聞いてくれた。


 私が元いた世界のこと。

 この世界には聖女召喚の巻き込み事故でやってきたこと。

 不要といわれて生贄にされ、この森に連れて来られたこと。

 

 イオのことも聞かせてと頼んだら、話してくれた。時間をかけて、ゆっくりと。


 彼が遠い昔、母親らしき人にこの森に捨てられたこと。

 それからはずっと一人で暮らしていること。

 彼は決して人間たちに害を与えるつもりはなく、静かに暮らしたいと思っていること。

 そして、ずっと名前が欲しかったこと。


 私たちは似てる、と思った。

 改めて思った。ここで彼と一緒にいたい、と。

 

 運命なんてものが本当にあるのか、わからない。

 でも――イオに会えただけで、私が異世界召喚事故に巻き込まれたことには意味があったんだと思う。



  ・

  ・

  ・



 そして、時は流れて。

 一緒にいることが自然になった頃、イオが私にこう言った。


「チカ。俺のつがいになれ」


「番? 何それ?」


 思わず尋ねると、イオは耳まで真っ赤になった。


「何って……その、つまり、俺とずっと一緒にいろってことだよ!」


 つがいって、要は夫婦のこと。たぶんドラゴン用語ね、これは。

 意味がわかった時には思わず笑ってしまって、イオは拗ねちゃったけど。


 断る理由なんてなかった。

 私も、彼を好きになってたから。




 ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎




「チカ、寒くないか?」


 花と緑に溢れる森で夕焼けを見ながら、イオが私を後ろから抱き寄せる。

 

「大丈夫。イオのからだ、あったかいもの」


 全身を包むようなイオの体温。

 私と一緒のとき、彼は大概、人間の姿でいてくれる。「でないとチカを抱きしめることも、接吻キスもできないだろ?」って。


 彼は毎日、何かと理由をつけては私に触れたがる。

 そして二人で暮らす森を、いつも美しい花で彩っていてくれる。


『イオ、チカノコト大好キダネー』

『イオ、優シクナッタネー』


「相変わらずうるさいな。俺は前から優しいだろ」


 今日も今日とてやりあう妖精ちゃんたちとイオ。なんだかんだ仲良しなんだから。


 うん。たしかに彼、出会った頃より丸くなった。

 ていうか、こんなに甘々な旦那様……つがいになるなんて思わなかった。 


 どうやらドラゴンという生き物は、そのメンタルが気象や自然現象に影響を及ぼしてしまう存在らしい。

 アスダールの人々が「邪竜は生きているだけで悪影響を及ぼす」と言っていたのは、あながち言いがかりでもなかったかもしれない。


 ドラゴンの力を怖れる人間たちは森を襲ってイオを殺そうとし、そのたびに怒ったイオが天変地異を起こしてしまう。

 そしてまた森への襲撃が繰り返され……という悪循環は、ずいぶん長く続いていたようだ。


 イオが変わることで、いろいろなことが変わった。


 彼が安寧を知ることで、アスダールが天災に見舞われることはなくなり――人々は気づいたのだ。

 イオは「邪竜」じゃないと。

 聖女や生贄という存在にも意味なんかない。国王たちが悪政の言い訳に使っているにすぎない空虚なシステムだってことにも。


 私をこの世界に召喚したあげく生贄に差し出したラスティン国王は、国民の反乱を受け、地位を失い投獄されてしまったそうだ。

 その妃だった袴田さんも、偽聖女として断罪され、いまは獄中にいるという。


「これでも着てろ。空の上は地上より冷えるからな」


 体を離したイオが自分の上着を私の肩にかけてくれた。


「ありがとう」


「体を大事にしろよ、チカ。……俺、ずっとお前と一緒にいたいんだ」


 イオと一緒に暮らすようになってわかったことだけど、ドラゴンはとても長生きなんだって。


 私は私のことを大事にして、なるべく長くイオのそばにいたいと思う。

 彼をふたたび、ひとりぼっちにさせたくないから。


「陽が沈む前にいえに帰るぞ、チカ」


 私の頬に軽くキスをして、イオがドラゴンへと姿を変える。


「うん。帰ろう、イオ」


 頭を低くしてくれる彼の背に乗り、艶々としたたてがみの中に身を沈めた。


 キャーキャーと歓声をあげて、妖精ちゃんたちもイオの背中に乗る。


 みんなで辿る家路は、しばしの空中散歩。贅沢で幸せな毎日の日課。


 こんな穏やかな日々が、ずっと続きますように。

 イオとなら、ずっと一緒にいたい。


「しっかり掴まってろよ」


 イオが大きな翼を広げる。

 花々の甘い香りに包まれて、私たちは空へと舞い上がった。





 

お読みいただき、ありがとうございました。

また別の物語で、お会いできますように。

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完結済みの作品 『元・付き人令嬢の偽装婚約~妹聖女に追放された双子の姉は、異国の騎士侯爵の最愛の花になる~』
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