第1話
茹だる様な熱帯夜で、俺は堪らずコンビニで買った酒を開けていた。
会社の定時は18時。でも仕事が終わるのは20時を過ぎる頃。よくある会社のよくいる社員の1人。
空腹に負けて買った焼き鳥を手際よく口に放り込み、500mLのストロング缶で流し込む。
「疲れたなぁ...…」
家はアパートの一室で、恋人もいる訳でもない。地元の田舎を離れて、近隣都市の大学へ進学した。同年代の半数が学生になる時代に迷いは無かったが、上手く馴染める場所は見つからなかった。
仕事は大学のネームバリューの効く街で就職した。俺は特段業績が良くもなく、何とかしがみつく様に毎日こなしていたら、気が付けば8年目になっていた。真面目に仕事はこなしてるつもりだが、一部の上司からの当たりが強い。
「あんな言い方しなくてもいいだろ…」
仕事のことを思いだして、また一口酒を呷る。歩いていると、いつも目にしない看板が道の脇に立っているのに気が付いた。
BAR luna caldo
「こんな所に看板? 地下もあったかな?」
妙な怪しさも感じたが、吸いこまれるように階段を降りた。階段を降りると左手に扉がある。気分転換でもしよう、そう思いながら扉を押し開けると、通路が奥へ伸びている。中は薄暗く、バーカウンターが照らされていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
店主の姿は見えないが、奥から声が聞こえた。
「すみません。1人なんですけど…大丈夫ですか?…...」
突き当たると店はバーカウンターのみで、カウンターの奥ではサーカスに出て来る様なピエロが笑顔をこちらに向けている。髪は赤くオールバックで、上半身はワイシャツにベスト、蝶ネクタイ姿。店の照明も薄暗いためか一層不気味だ。
「もちろん。あなた様をお待ちしておりました。こちらへどうぞ」
俺は目を丸くしていたのであろう。ピエロはカウンターを挟んで対面する席を手の平で指した。
「ずいぶん個性ですね」
うわずった声がでた。店に入ったのは失敗だったかもしれない。このまま出るのも気まずく席に着く。
「多様性の時代ですから」
そう言いながら慣れた手つきで、おしぼりと冷水を出してくれた。
「ありがとうございます。このお店は今日オープンしたんですか?いつもの帰り道なんですけど、初めて目にしたので」
「そうですね。この街ではあなたのために、今日オープン致しました」
「僕のため?本当に個性的ですね。でも今日はそんな風に持ち上げられても、手持ちは少ないので沢山飲めませんよ。でも、1杯だけ美味しいの飲ませて下さい」
「かしこまりました」
嫌な顔1つせず、笑顔を貼り付けたままピエロは酒を作り出した。
(好みも聞かないのか…...)
「安心してください。好みは存じ上げております」
目を丸くしてしまった。つい口に出してしまってだのだろうか。
ピエロは笑顔のまま手際よく作業する。見てるだけで、面白く、職人技だ。シェーカーを1つ振り終えると、蓋を開けることなく2つ目に取り掛かり始めた。
「マスターさん、1杯で結構ですよ」
「分かっています。どちらか一方で構いません。今日は特別な日ですから」
(選ばせてくれるのか…...特別な日? オープンだからか? まぁせっかくの厚意だし)
最もらしい理由を探り当てる間もなく、2つ目が完成していた。
「ではまずは白から」
目の前に二つグラスを滑らせ、1つ目のシェーカーを開けながら、ピエロは語り始めた。
「この白は明日も今日と変わらぬ日を授けてくれる。いつものように眠りにつき、いつものように目覚めるでしょう。何事も無かったかのように」
「そして2つ目の赤は全てを解決してくれる」
(いやいや、いくら赤を飲ませたいからって...…)
「いいえ、全てです」
「あなたが望む全てを、今宵、解決してくれます」
気のせいじゃなかった。急に心臓の音が耳元で鳴り出すような感覚。
「そんな顔をしないでください。インチキな占い師でも、たまたま考えてる事だってあります」
「大丈夫。選ぶのはあなたです」
赤と白。目の前にあるグラスよりも、奥に立っているピエロが何を考えて、何の目的でこんなことを言っているのか考えたが、酔っている頭では想像もつかなかった。
きっと演出のひとつだろう…...
「じゃあ…...折角だし、赤を頂きます」
赤のグラスを一息で飲み干した。冷たいカクテルが喉を通り、ほんの少しだけバラの香りが鼻を抜けていく。少しだけ胃袋が熱くなった、と同時にすぐに高揚感と幸福感に包まれるような気がした。酔いが丁度よく回ったのかもしれない。
「すごいですね!とっても美味しかったです」
「白は明日飲みにきてもいいですか?」
「ぜひ。そうしましょう」
酒の味に疎くても、美味いのは分かった。けれど、これ以上ピエロと2人きりで過ごすのも不気味に感じて店を出たくなった。
「ごちそうさまでした。お代はいくらになりますか?」
「フフフ。人物画の紙切れに興味はありません。結構ですよ」
不気味だ。
「じゃあ、明日美味しいものでも持ってきますね。ごちそうさまでした」
「ええ。良い夜を」
足早に階段を上がり、いつもの帰り道に戻る。
「でも、ちょっと面白かったな…...」
見上げると、紺碧の空に満月がかかっていた。
「久しぶりに走ろうかな」
等間隔に並ぶ街灯の下を俺は駆けていった。
その夜、ある地方都市で3人の女性が襲われ、亡くなる事件が起きた。女性達は俺と同じ会社の社員で、身体には獣に切り裂かれた傷があり害獣被害として捜査が進められていると報じられていた。