第8話 4月-8
「あなた、ちょっと話があるわ。表に出てくれない?」
「いいですよ」
夏希と一がさっと立ち上がって外に出て行く。
「一?」
オレが一を呼びとめると、振り返り、大丈夫だよという風に親指を立てた。
何がどうなってるのか、オレにはさっぱり解らなかった。
「何が、どうなってんだ?」
「二人だけで決着つけなきゃならないことがあるんじゃない?」
絵里は何か解っているんだろうか?
その表情からは、何も読み取れなかった。プーさんに似たふんわかした笑顔をしていた。
あの二人は大丈夫だろうか?
オレの胸に自分でも説明困難な不安が過ぎる。
「ねぇ、つばさ。青柳君って本当にゲイなのかしらね?」
「はあ? 何で? だってあいつ彼氏いるぞ」
突拍子のない質問にオレは驚きを隠せなかった。
「そう。それならいいの。気にしないで。それにしても青柳君って恰好良いよね。きっと男にも女にもモテモテなんだろうね」
「うん、まあそうなんじゃないか」
ゲイじゃないなら一体何なんだ?
絵里は気にするなと言ったが、そんな事言われたら気になって当り前じゃないか。
絵里はなにを感じたんだろう。
夏希といい、絵里といい、オレには解らないことが多すぎた。
暫くして二人が戻って来た。
「ただいまっ」と、明るい声を上げたのは、満面に笑顔の一だった。その後ろを遅れて入って来た夏希は不機嫌を隠そうともしない厳しい表情だった。目だけは一を捉え、鋭く睨んでいた。あの鋭い目で、今なら蠅一匹殺せるかもしれない。その夏希の雰囲気は今まで感じたこともないほどの恐怖をオレに与えた。
「つばさ。私は金輪際彼のことで何かを言うことはないわ。安心なさい」
夏希のそんな低い声をオレは聞いた事がない。背筋に寒気を感じ、ゾゾゾッと身震いした。
「でも、彼に何かされたら私に言って頂戴。その時は容赦しないわ」
「う、うん、解った。ありがとう」
「いいえ、御礼には及びません。では、私はこれで失礼します」
夏希からは、話が終わった以上少しでも一の傍にいるのは耐えられないという殺気を感じた。
「じゃあ、私も帰るね」
座っていた絵里もそれに便乗して立ち上がった。
「ああ。オレ、そこまで送るよ」
「つばさ、ありがとう。だけど、下にお迎えを呼んであるから大丈夫よ」
優しい微笑みをオレに向けた。いつもの夏希の微笑みにオレは安息した。と思った瞬間には表情を強張らせ、一を見やった。
「それでは、青柳君失礼します。くれぐれもつばさに悪さなさらないようにして下さいね」
「ああ、勿論。つばさが嫌がることはしないつもりだよ」
二人の笑顔の仮面の下に隠された素顔が見えていないだけましなんだとオレは思った。流石に恐ろしくてその仮面の下を見たいとは思えない。
二人が去った後、オレは一に詰め寄った。
「なあ、夏希に何言ったんだよ?」
一は答える気などこれっぽっちもないんだろ。
「別にぃ。知りたかったら彼女に聞いてみたら?」
「あの様子じゃ絶対教えてくんねぇよ。聞いたら最後、あの恐ろしい目で殺されかねない」
オレはいじけていたんだ。皆、何か思う所があるみたいなのに、オレには何一つ教えてくれない。絵里だってなんか意味深なこと言ってたのに何にも教えてくれなかった。オレにだって関係があることなのに、オレだけ取り残されて訳も解らぬままに話がつけられている。
どうせみんなオレのことなんでどうでもいいんだ。ちぇっ。
ベランダに出て、しゃがみ込んで立てた膝に顔を埋めた。オレは小さな子供みたいに素直に気持ちを表していた。
「つばさ」
「何だよっ」
覗き込んでくる一に顔を背けて吐き捨てるようにそう言った。
一が後ろに座り、そっと包み込むように抱き締めた。
「つばさ。怒ってんの?」
「怒ってない」
オレの愛想のない返事に一が苦笑しているのが、背中越しに伝わって来た。
「みんなつばさが好きなんだよ。だから、えっと名前なんてったっけあの子」
「黒田夏希」
「ああ、そうそう、黒田さんは、俺がつばさに手を出すんじゃないかって心配なんだ。でも、大丈夫だよ。俺、つばさが嫌がることはなにもしない。彼女にそう伝えて解って貰ったんだ。でもまだ半信半疑だからあんなに機嫌が悪かったんだ。つばさ、オレにこうされてるの嫌?」
オレは大きく首を振った。本当に、本当に不思議なんだけど、一のこと散々ぼろ糞いってるのに、嫌いじゃないみたいなんだ。寧ろ一の温もりがオレを安心させてくれる。だから、オレは一に抱き締めて貰うのが好きなんだ。
「良かった……」
その一の声が本当に真剣で、本当にホッとしているのが解ってオレは混乱した。
一はいつも強引で、オレの気持ちなんてお構いなしで、オレの心の中にまで土足で入って来ようとする。そういう奴だとばかり思っていたから、そんな風に言われたらそれが間違いだったんじゃないかと考えざるを得なくなってしまう。
「じゃあ、キスしてもいい?」
オレは近付いてくる一の顔を平手でベチンと叩いた。
却下。今、オレが考えたこと全部なし。しんみりと考えたオレが馬鹿だったんだ。
「痛いよ、つばさっ」
一がオレの背中に顔を埋めてそう言った。一の温かい息を洋服越しにほんのりと感じる。
「今のは一が悪い」
「ごめん。調子ん乗った」
もうすぐ日が暮れる。風がほんのり冷たい。だけど、背中だけは文句なく温かかった。
「なあ、一。今日ごめんな。一、女の子嫌いなのに、オレの為に話してくれて」
何でかな、今日は凄く素直になれるんだ。すらすらと自分の気持ちを伝えることが出来る。一の温もりがそうさせるのかな。それとも、奇麗すぎるあの夕陽がそうさせるのか。でも、どんな理由であっても伝えることが出来て良かった。
「平気だよ、全然。俺、つばさの為なら何だってしたくなるんだ。何でだろ」
どう答えていいのか解らなくて黙ってしまった。だが、不思議とその沈黙が嫌じゃなかった。かえってそれが心地よくさえ感じたのだ。
オレ達はそのまま夕日が沈むまでそこに佇んでいた。
「なあ、一。そろそろ中に入ろうぜ。夕飯作んないと。オレ、腹減って来た」
背中の一にそう問いかけるが、返事が返って来ない。あれ? と思って耳を澄ませると、一の寝息がすぅすぅと聞こえて来た。
寝てらぁ。
ごめんな。一。女嫌いのお前には、今日は本当に辛かったのかもしれないな。あの二人、本当にどっからどう見ても女の子だもんな。
そういえば、何で一は女の子が嫌いなんだろう。最初から嫌いだったのか、それとも何か訳があって嫌いになったのか。そういうのって本人に聞いてもいいことなのかな? 駄目なんだろうな。最初から嫌いだったら、そんなに気にしないかもしれないけど、何か原因があってそうなってしまったとするならば、それを聞かれたくないと思うかもしれない。いつか、一はオレにそれを話してくれるだろうか?
そんな事を考えながらオレは一の温もりを感じていた。これから一年間お世話になるその温もりを。
ここに越して来た日には、こんな風に考えるようになるなんて思っても見なかった。すぐに親に話して、一人暮らししてやるって思っていたのに、その気持はオレにはもうない。ここで、一と暮らしていくことしか考えていない。
やがて、オレも睡魔に襲われ、4月の夕暮れのベランダでそのまま眠りについてしまった。
気付いた時には、どっぷりと夜になっていて、オレも一も風邪でニ、三日寝込んでしまったのは言うまでもない。