第51話 3月-2
「緑川は大学受かったのか?」
喫茶店に入ったオレ達は注文をした後、他愛ないお喋りに花を咲かせていた。
「いや、発表は来週なんだ。花開くか、それとも散るのかは神のみぞ知るってとこかな。浪人生にはなりたくないんだよな」
絵里は既に結果が出ていて、残すところ緑川だけなのだ。
何となく緑川も大丈夫な気がする。うん、きっと大丈夫だ。ただの勘に過ぎないけど、そんな気がした。
絵里は緑川の隣で嬉しそうに微笑んでいる。隣にいられるだけで幸せって思っているのが、見ているだけで解る。
「一は家どうするんだよ?」
「それは今夜父さんと相談することになってるんだ」
今夜、オレ達は両家合同で食事に行くことになっている。うちの両親も幸一も卒業式を見る為に、一時的にこちらに出向き、三人とも同じホテルに泊まっている。しかも同じ部屋に。どんだけ仲良しなんだって感じだけど。
その日の夜、ちょっとお洒落なフレンチレストランにみんなで出かけた。
こんな風に勢揃いで集まるのは初めてのことで、変に緊張してしまった。しかもオレはテーブルマナーに自信がない。高校の授業でマナーを学んだが、こんな風に実際にこういうレストランに入るのは初めてのことだ。
ちらりと目をやると、一はとてもリラックスしていた。
何でオレだけこんなに緊張しているんだろう。
親父たちの後について行き、導かれるままにテーブルに着いた。大人たちはワインを頼み、オレと一にはソフトドリンクが運ばれて来た。
「一君もつばさも卒業おめでとう。乾杯」
何故かは知らないが、うちの親父の乾杯の音頭で食事は始まった。
「俺達も歳をとったもんだな。子供はもうこんなに大きくなっちゃって」
「本当だよ。俺達の学生時代なんて、ついこの間のように思い出せるのにな」
親達がワインを飲んで、いい感じに昔話を語って楽しんでいる横で、オレは正面に座る一と無言の会話を楽しんでいた。それは、『美味いな』とか、『なんか隣りは酔っ払いみたいだな』といったような感じのものだった。そんなオレ達の無言の会話が何だか無性に楽しかった。
「それで、幸一はこっちに戻って来るんだろう?」
幸一が戻って来る?
親父の言葉に、親父と幸一を交互に見た。
それじゃあ、一は幸一と一緒に暮らすことになるのか?
『一、知ってたのか?』
オレの問いかけに一は頷く。知っていたなら教えてくれたら良かったのに。
親父同士でどんな話し合いがなされていたのかは知らないが、オレと一の同居生活は一年間と決められていた。
一があの部屋を出て、幸一と暮らす……。
「なあ、親父。オレは一人暮らしになるのか? オレはこのままあのアパートにいていいんだろ?」
「お前はあそこにそのまま住んでていいんだが、新しい同居人はもう探しておいたよ。安心しろ、今度は女の子だからな」
あの部屋に一じゃない誰かが、住むことになる……。
言い知れない胸の痛みを感じて、心臓のあたりで手をぎゅっと握りしめた。
あの部屋に一がいなくなる。それは解っていたことなのに、何でこんなに苦しいんだ。オレは耐えられるだろうか、一のいない生活に。
テーブルを挟んで向かいにいつも座っていた一がいなくなる。オレの料理を大袈裟に褒めちぎる一がいなくなる。一緒に台所に立ち、隙さえあればキスをして来る一がいなくなる。テレビを見ながら手を握って来る一がいなくなる。他愛ない話を夜な夜なしてオレを抱き締めたまま寝てしまう一がいなくなる。オレ達は毎日あの部屋で抱きしめ合って、見つめ合ってキスをした。喧嘩もした。オレが一を怒鳴ることはしょっちゅうだったし、一もオレに怒りをぶつける事だってあった。その日常が消える。あの部屋の、オレ達のかけがえのないあの日々がなくなってしまう。
そう思ったら涙が出そうになった。オレは慌てて席を立った。
「つばさ? どうしたの?」
母さんに尋ねられ、「トイレ」と、短く答えてその場を後にした。歩いている途中、堪え切れずに涙が零れた。次々に。自分ではどうしたって止められなかった。
おかしい。別に別れるわけじゃない。二度と会えなくなるわけでもない。会おうと思えばいつだって会えるし、遠くに引っ越すわけでもないのに。何でこんなに苦しいんだろう?なんでこんなに悲しいんだろう? 何でこんなことで馬鹿みたいに泣いてるんだろう? きっと幸せすぎたんだ。一との同居生活が。あんなに楽しい一年間はなかった。色んな事があったけど、それでも楽しくて仕方なかった。
オレはトイレの鏡に映った自分を見た。うさぎのような真っ赤な目をしていた。
これじゃ泣いたのがバレてしまう。困ったな。だけど、行かなきゃ。ここにいつまでもいるわけにはいかない。
オレは諦めて扉を開けた。視線の先、正面の壁に寄り掛かった一が、そこにいた。オレが一の前まで来ると、一の手がオレの頬に伸びて来た。そこにはほんのり涙の跡があった。
一は悲しそうに顔を歪めた。
「つばさ、帰ろう。オレ達の家へ」
「だけど、まだ食べ終わってない」
「もう充分食べたよ。父さん達には、つばさが具合が悪くなったから先に帰るって言ってあるから」
行こう、と一は手を差し伸べた。オレはその手を思わずっといった感じで取った。無意識だった。
レストランを出て、オレ達は手を繋いだまま歩いた。もう春だけど、夜はまだまだ寒かった。
途中、自動販売機であったかい飲み物を買って、それで手と頬を温めた。一は、缶をコートのポケットに入れポケットの中を温めてから、オレの手を取って、そこに埋めた。一の手の温もりと、さっきの缶の温もりでポケットの中はほんわかあったかかった。
アパートに着くと、エアコンをつけ、温かい紅茶を出した。
「つばさ。俺と離れるの寂しい?」
熱々の紅茶をちびちびと啜りながら何気なくそう聞いた。
「そんな事……、聞かなくても一なら解ってるんだろう?」
「解ってるよ。だけど、つばさがどんな風に思っているのか。つばさの口からちゃんと聞きたい」
「寂しいよ。すっごい寂しい。自分でも何でこんなに寂しいのか解らないくらいに寂しい。本当は、ずっと一にここに居て欲しい。一といた一年があまりに楽しかったから、終わってしまうのが辛い。毎日、一を感じられなくなるのが嫌だ。一じゃない誰かが、オレの向かいに座るのは嫌だ。別に別れるわけじゃないのも解ってる。会いたくなれば会えるってことも十分解ってる。だけど、苦しいんだ。幸せすぎたんだよ、一との生活が。びっくりするくらいに幸せだった。一がずっと傍に居てくれて、いつも隣りに一の存在を感じていたから、あまりにそれが当たり前になってしまったから。ごめん、大丈夫。一が出る日はちゃんと笑顔で見送るから。だから……」
今はごめん、泣かせて欲しい。
それが涙で詰まって最後まで言えなかった言葉。涙で、息をするのも苦しくなった。涙で霞んで前が見えなくなった。
一がオレの傍に来て、優しく抱き締めてくれた。オレは一の胸に縋り付き、泣き叫んだ。
「一! イヤだよっ! 行かないでっ! イヤだ、イヤだ……」
自分では何が何だか解らなくなっていたけど、多分そんな事を言っていたように思う。一は優しくそれを受け止め、背中をとんとんと一定リズムで叩いてくれていた。
大いに泣いて、大いに叫んで、落ち着いたら、自分が何をしたかを思い起こして急に恥かしくなってしまった。
一の胸をとんっと押して、離れた。恥かしさでとてもじゃないけど顔を上げられない。
「えっっと、あの……ごめん、なさい」
下を向いて小さな声で呟く。叫んでいたせいで、声は嗄れてしまっていた。
「落ち着いた?」
一の何よりも優しい落ち着いた声が、オレの羞恥に拍車をかけた。オレは頷くことしか出来なかった。