第50話 3月-1
3月に入った。
久しぶりに来た学校は何だか新鮮だった。正直着るのが苦痛でしかなかったこの制服とも今日で解放される。
「つばさと制服姿で会うのも今日で最後と思うと寂しいわね」
夏希の言葉に苦笑を浮かべる。これから先、オレがスカートを穿くことはまずないだろう。それを解っているから、夏希はそう言ったのだ。
「絵里は緑川と上手くいってるのか?」
「えへへっ、うん」
絵里は恥ずかしそうにプーさんスマイルを浮かべる。思わず抱き締めたくなるほど可愛い笑顔だった。
この二人とは高校を卒業しても末永く付き合っていける友達であると思っている。
「つばさは? あの男と上手くいったんでしょう?」
オレは目を丸くした。まだ、二人には一との事は話していなかったのだ。
何で解ったんだろう?
「何で解ったんだろうって? そんなの顔を見ればすぐに解るわよ。あなたとても嬉しそうな顔をしているし、恋してますって顔に書いてあるわよ。それでよく何で解ったのかなってキョトンとした顔が出来るわね。それにしても、良かったわね。私は正直あの男があまり好きではないけど、あの男の気持ちが嘘じゃないのは解るし、あなたがとてもいい顔をしているから、我慢するわ」
我慢って……。本当に一とそりが合わないんだなと思い苦笑した。多分、一と夏希はずっとあんな感じなのだろう。あの二人は似ているんだと思う。本質的な部分が。だから、反発し合うんだろう。
卒業式は滞りなく終了した。
涙を流す生徒が多くいたが、オレは涙を流すことはなかった。オレの涙は一の前でしか流れない。一の前では、幼児のように大泣き出来るのに、人前では泣けない。どんなに感極まっていてもだ。
答辞は夏希が読んだ。
『―――この学園に在学中、私は恋をしました。その恋は決して叶うものではありませんでしたが、私はその恋によって多くを学びました。そして、良き友にも巡り会いました。どんな困難にも立ち向かう潔さ、勇気、友情。友からもまた多くを学びました。私達は本日をもってこの学園を卒業しますが、それは終わりではなく、始まりであると思います。この先も続くであろう友をもうけ、私は幸せに思います。陰で支えて下さった先生方及び保護者の皆様に感謝の気持ちを込めて答辞とさせて頂きます』
答辞のうちの約半分はオレへのラブレターだったように感じたのは自惚れだろうか。オレは夏希が大好きだ。恋人にはなれないけど、最高の友達だと思っている。
最後のホームルームを終え、夏希と絵里と共に校舎を出ると下級生にたちまち取り囲まれてしまった。次々にプレゼントを渡され、メッセージを書いてくれと頼まれた。このメッセージというのがなかなか曲者だったりする。知っている子へのメッセージは苦にはならないが、知らない子へのメッセージは何を書いていいやら解らないのであった。
なんとかその人だかりから解放され正門を潜ると、そこに一つ人だかりが出来ていた。
「一?」
その人だかりの中心に一と、それに完全にもみくちゃにされているが、しっかりと一の体を支えている緑川を見つけた。一は今にも気を失いそうなほどがっくりとしていた。慌ててその人だかりを掻きわけ、一を救出した。
「おいっ、一。大丈夫か?」
朦朧とする一がオレに手を伸ばし弱々しい笑顔を見せた。オレは外野が見ているのも構わず一を抱き締めていた。一の体にはじんましんが出ていたからだ。オレが一を抱き締めた途端、キャーだかギャーだかと凄まじい怒声のようなものが聞こえて来たが、そんなものに構っている余裕はなかった。
緑川がオレ達を庇い外野を蹴散らしてくれた。暫くすると外野が静かになって、オレ達の周りには緑川と夏希、絵里だけになった。
「不思議なものね。本当にじんましんが消えて行くわ」
一部始終を見守っていた夏希が感心したように呟いた。その頃には大分元気を取り戻していた一が得意気に言った。
「凄いだろ。俺とつばさの愛がなせる技だ」
「まあ、あなたが凄いんじゃなくて、つばさが凄いだけだけどね。流石私の親友だわ」
このままでは喧嘩が(口喧嘩だが)始まってしまいそうだった。
「まあまあ、二人ともそう熱くならないで。一ももう大丈夫なら飯でも食いに行こうぜ、みんなで」
緑川が間に入ってくれたお陰で大事には至らなかった。緑川が絵里と夏希をさっさと誘導していく。
オレはそっと息を吐いた。それから、一を覗き込んだ。
「大丈夫か、一?」
そう尋ねると一は笑顔を見せた。あまり顔色が良いとは言えないが、取り敢えずは大丈夫なようで、オレは安心して口元を緩めた。
一は立ち上がる時に誰にも解らぬようにそっと唇を寄せた。それは迷わずオレの唇に触れ、すぐに遠ざかって行った。
「一っ」
近くにはまだあの三人がいたし、それにここは校門の横。まだ沢山の生徒が通って行く。
「恥かしいだろうっ。止めろよ、こんな所で」
「俺はつばさとキスしたい。どんな所でだって、誰が見ていたって構わない。それに、誰にもバレないようにやっただろ?」
本当は、オレだってキスしたかった。いつだってどんな所でだって。だが、それにはオレの理性が邪魔をしていた。恥かしくてこんな所で出来るわけがない。
「つばさ。キスしたい。してもいい?」
悪魔の誘惑みたいだ……。人が見ている。それは十分わかっている。あまりここに留まっていたら、あの三人も心配して振り返るだろう。それもわかっている。だけど、悪魔の誘惑には抗えない。
オレは自覚もないのに頷いていた。
実際には悪魔の誘惑に負けたってのはただのオレの言い訳で、オレも今ここで一とキスがしたかったのだ。理性が吹っ飛ぶほどに。
一の手がオレの後頭部にのび、頭を引き寄せられた。そして、一の唇がオレの唇を塞いだ。誰が見ているのかも解らない、そんな場所でオレ達は本気のキスをした。深く舌を絡め合う、大人なキスを。甘いキスに翻弄されて、周りの視線も声も何も気にならなくなった。完全に二人だけの世界に浸っていた。
あの三人がその刺激的なキスを呆れた顔で眺めていたとも知らずに。
唇を放すと一は何も言わずにオレの瞳の中を覗き込んだ。オレもまた一の瞳の中を見ていた。一が照れ臭そうに笑うので、オレも同じように笑った。
「行こうか」
一が明るくそう言ったので、オレは頷いて立ち上がり、一に手を差し伸べた。いつの間にか一のじんましんは奇麗に消えていた。
さて行こうかと顔を上げたら、三人がばっちりこちらを見ていた。緑川はニタニタと殴り倒したいような憎たらしい顔を、絵里は興奮しているようなプーさんスマイルを、夏希は不機嫌極まりないといった厳しい顔をそれぞれしていた。緑川はオレ達をからかいたくて仕方ないみたいだった。緑川の憎たらしい顔を無視して顔を背けると、そこには夏希の不機嫌な顔があって、やばいと直感的にそう思った。
「つばさ。あんな所でキスをするなんてはしたないわよ。感心できないわ」
冷たい声でそう言われ、オレは素直に、ごめん、と謝った。
「やきもち妬いてるんじゃないの? つばさは俺のなんだから、誰にもあげないけどね」
背後から一の腕が首に巻き付き、その状態で夏希の怒りを買うような言葉をさらりと口にする。
ああっ、勘弁して。
オレは天を仰いだ。
「つばさ。こんな男と付き合うのは今すぐ止めるべきよ。今すぐその汚い手を放しなさい」
夏希は案の定、一の言葉にご立腹である。
「夏希、一が嫌なこと言ってごめんな。でも、オレ、一のこと好きなんだ。付き合うのを止める事なんて出来ない」
夏希の顔が一気に凍ったようだった。一は苦しがるオレをものともせず、巻き付いた腕をぎゅっと強めて、オレの頬にキスをした。
「つばさ。可愛いっ。好きだよ」
「馬鹿っ、一。苦しっ、首締まってるって」
オレの苦しそうな声にようやく気付いて、腕を解放する。オレは一の頬を力一杯抓った。この一年、オレは一に蹴りを入れたり、パンチを入れたりと試みて来たが、頬を抓るのが一には一番効果的であると悟った。頬を撫でる揺りをして、思い切り抓る。何度やっても一はこれに騙されるのだ。たまに、本当に頬を撫で、キスをすれば、より効果的なのである。
そんなじゃれ合いを続けるオレ達を呆れて、また、置き去りにする。
オレの気が済むと、三人の後を追いかけた。右手は一に捕らえられていた。こんな些細なことだが、幸せな恋人に、オレ達はやっとなれた様な気がした。