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第48話 2月-3

 幸一は義母を更生させようとしていたみたいだけど、それは無理なんだと思う。

 この女には解らない。人の苦しみも悲しみも寂しさも痛みも。きっと一生……。

 こんな女の為に一はずっと苦しんできたんだ。悔しくて涙が出て来た。一は、目を真っ赤にして、涙を堪えていた。その真っ赤な目で女を見ていた。今にも殴りかかりそうだった。

 そして、案の定一が女を殴りかかろうと手を振り上げようとした。オレはその腕にしがみ付いてそれを止めようとした。

 女はヒッと小さく叫んで目を瞑った。そんな緊迫したムードを壊すように突然、玄関のチャイムが鳴った。三人同時に玄関を振り向き凝視し、息を呑んだ。

 誰も返事しないのに痺れを切らしたのか、ドアの向こうの人物は、どんどんどんと直接ドアを叩いた。

「一っ! つばさちゃん! いないのか?」

 それは、幸一の声だった。夜中の大声にオレは若干焦ったが、それを咎める余裕はオレにはなかった。

「ああっ、幸一さんっ!!!」

 一番先に声を上げたのは女だった。そそくさとその場を逃げるように後にし、玄関を開ける。玄関を開け、幸一を見た途端に女は幸一の胸に飛び込んだ。

「幸一さんっ。怖かったのよ。あの二人が私を虐めるの。お願い、助けて頂戴」

 醜いと思った。男を前にころころと表情を変えるこの女は、もしかしたら人の仮面を被った妖怪なのかもしれない。

 幸一は抱き付いて来た女を見下ろし、大袈裟に溜息をついた。

「久美。取り敢えず放しなさい。俺達は一度きちんと話さなければいけないね。中に入って話し合おう」

 もう夜中の12時を過ぎていた。

 幸一は仕事が終わった後、飛んで来たんだろう。酷く疲れた顔をしていた。

「幸一さん。私は何も悪くないのよ。お願い、信じて」

 縋り付く久美(義母の名前はそういうらしい…)に幸一は、とにかく座りなさい、と冷たく言い放った。 

 唇を噛み締めて悔しそうな表情を浮かべながらも大人しく腰をおろした。オレと一は並んで座り、正面に久美が座り、右手――俗にいうお父さん席であろうか――に幸一が座った。オレはお茶を用意しようと立ち上がろうとしたが、幸一に止められ、再び腰をおろした。

「つばさちゃん。例のもの録ってくれたかな」

「はい」

 オレはポケットからボイスレコーダーを取り出し、幸一に渡した。この間幸一が来た時にこっそり渡され、頼まれていたもの。久美が現れて、一に何かをしようとしたら、それをこれで録ってくれと。そして、オレは一の部屋の出来事を全て録音していた。幸一はそれを再生すると、目を閉じてそれに聞き入っていた。つい今しがたまで交わされていた会話。楽しい気分で聞くものではない。幸一の眉間には深い皺が刻まれていた。

 オレは先程の出来事をさっきよりも冷静に聞いていた。

 隣にいる一の手に触れた。一の手に握り返された。一の手は驚くほどにひんやりとしていた。震えてはいなかったが、改めて聞くにはとても苦しいことだろうと思った。

 久美は全ての会話を、冷や汗をかいて、顔色が真っ青になって聞いていた。ガクガクと何処からともなく聞こえ、その音の先を探ると、久美が怯えからか体が震え、歯を鳴らしていた。

 あんなに長く感じていた時間だったが、実際聞いてみるとそんなに大した長さではなかった。

 ぷつりとボイスレコーダーが止まると、幸一は目をゆっくりと開き、一を見た。

「一、大丈夫だったか?」

 とても優しい声で幸一は一を気遣わしげに尋ねた。

「大丈夫だよ」

 そうか、と少し微笑んで頷いた。そして、厳しい顔つきで久美を見た。

「もうこれ以上俺の大事な息子を傷つけないでくれ。久美、俺は君と離婚する。もう二度と俺達の前に姿を現さないで欲しい。もし、俺達の前に現れたら、俺は君を許しはしない。言っていることは解るよね?俺は刑事だ。色んな知り合いもいる。君一人くらい東京湾に浮かべるくらい簡単なことなんだよ」

 幸一の冷たい口調にぞくりとした。怖くなって一の手を強く握った。それに応えて一もぎゅっと握った。まるで大丈夫だよと言われている気がした。

「私を脅すつもり?」

「脅しているつもりはない。君には解っているだろう? これが脅しなのか、本気なのか」

「私が何をしたっていうの? 私だって寂しかったのよ。子供なんて育てたこともないのに、突然大きな子供の母親になってしまった。その子供は私に気に入られようと私の顔色を窺ってばかりだった。そんな顔を見ていたら堪らなく虐めたくなった。笑顔を見ていたら泣かせてしまいたくなった。寂しかったのよ。寂しかったの……」

 久美の金切り声が部屋中にこだました。寂しかった。それだけで、一人の幼かった子供の人生を狂わせていいんだろうか?

「嘘を吐くな。お前は寂しいだなんて思ってなかった。ただ、俺をおもちゃにしていただけだ。俺には解っているんだ。お前には、血の通った人間の心はない」

 そう叫んだのは一だった。オレの手は繋がれたまま。その手が繋がれていなければ、久美を殴っていたかもしれない。それほどの怒りを内に秘めていた。

「久美。一の言う通りだ。お前は寂しいだなんて思う人間じゃない。それは自分が一番解っているんだろう?」

「ふっ、そうね。その通りよ。男なんていなくたって寂しいだなんて一度だって思った事もないわ。幸一。あんたも馬鹿な男よね。死んだ奥さんに似てるからって私に惚れちゃうんだから」

 久美は馬鹿にしたようにせせら笑った。

「お前は一美とは似ても似つかない。一美を侮辱するな」

 幸一はテーブルを叩いて怒鳴り付けた。一美とは一の亡くなったお母さんだ。

「はいはい。もう解ったわよ。面倒臭いわねぇ、離婚でも何でもしてあげるわよ。この子にももう近づかないわ。もう、興味も失せちゃったしね」

 幸一はすでに用意していた離婚届を久美の前に出した。その場でその用紙に署名させ、そして、二度と一には近付かないと一筆書かせた。

「慰謝料とかいらないから」

「当たり前だ。お前は俺達に何をしたと思っているんだ。お前に払う金はない」

 ふんと、鼻で笑いアパートを出て行った。久美が出て行った後は妙に静かだった。

「一。すまなかった。俺があんな女と再婚したばかりに、お前には辛い思いをさせてしまった」

「母さんに似てたんだな?」

 ああ、と幸一は低く唸った。一の実の母親が亡くなったのは、一がまだ小さな頃で、一には記憶が殆どない。幸一は愛する人の死にショックからアルバムを全て隠してしまった。だから、一には優しく微笑むおぼろげな母の記憶しかなかったのだ。

 久美は一のお母さんに似ていた。だから、幸一は久美をなんとか更生させてやりたかったんだ。

「俺の力不足だ。すまなかった」

「父さん。いいんだ。あの人のことはもう忘れよう。俺はもう大丈夫だから。言いたい事も言えた。もし、また襲いに来たってもう怖くないよ。俺はもうあの人には負けない」

 幸一は男泣きしていた。その背中を一が摩ってあげていた。悪魔から解放された親子は、その余韻を少し残しながらぎこちない笑みを浮かべていた。

 幸一はその夜は泊まることにして、朝一番で帰ることになった。

「今夜は居間に布団を敷いて、三人で寝ないか?」

 幸一がそう提案した。

「俺はいいけど。父さん、つばさに手、出さないでよ?」

 解ってるよ、と幸一は苦笑いを浮かべる。

 幸一は、今夜だけは一人で寝たくなかったのかもしれない。幸一も大分傷ついたんだと思う。死んだ奥さんに似ていた久美。だからこそ、真っ直ぐに生きて欲しいと願っていた。久美には、それが出来なかったし、幸一にはその手助けが出来なかった。幸一にはそれが心残りなんだろう。オレには幸一を慰める術も解らないけど、こんな夜くらいみんなで一緒に寝るのもいいのかもしれない。

 オレ達は布団を二人並べて敷き、そこに並んで横になった。真ん中は一。一はオレの手を握った。一の冷たい指がオレの指と指の間に絡まっている。

「おやすみ」


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