第47話 2月-2
慰めのキスはいつまでも続いた。
そのキスは義母が風呂から上がるまで続けられた。風呂のドアが開いた音を耳にして二人は漸く離れた。
一の顔をちらりと覗き見るとさっきよりも幾分顔色が良くなっているような気がした。
「つばさ。ありがとう。お陰で元気が貰えた。大好きだよ」
最後の言葉にオレは耳を赤くした。
「好きとか今関係ないだろっ」
「言いたくなったんだ、無性に。つばさ、愛してる」
この言葉に体中が真っ赤になってしまったに違いない。一の横っぱらをぐーで殴った。一は避けなかった。殴られたのに、嬉しそうに笑っていた。
ほんの少し一らしさが戻って来てオレはホッとした。
居間に義母の布団を敷いて、一は自室に引き上げ、オレもまた自室へと引き上げた。布団に入ってもすぐには眠りにつけなかった。
一が心配だった。義母がオレの寝ている隙をついて一を襲うんじゃないかと思えたのだ。だが、それもやがて来た眠気に襲われ、考えられなくなった。
目をつぶり意識を手放そうと思った丁度その時、
「つばさっ」
オレを呼ぶ一の切羽詰まった声が聞こえた気がして、ぱっと跳ね起きた。勢い良くベッドから出ると、身だしなみを整えることすらせずに部屋から飛び出した。居間の布団の中には義母の姿はどこにもなかった。
オレは焦る気持ちを胸に、一の部屋のドアを開けた。
義母が一の上に圧し掛かり、片手で一のパジャマを脱がせようとボタンを一つずつ外していおり、そして、一の唇を奪おうと顔を近づけているところだった。
「一っ!!! 諦めんなっ、戦えっ!!! そんな女に負けんなよっ。お前の唇はオレとキスするためのものじゃないのかよ。オレ以外の女とキスするなんて絶対許さないからな。早くオレんとこ来い、ボケっ!!!」
オレの怒声がエネルギーになったのか、一は力強く義母を突き飛ばした。そして、オレの元に来てオレをきつく抱き締めた。体が小さく震えていた。
「出来るじゃんか。よくやったな、一」
一の背中を撫でながら、自分でもこんなに優しい声が出るんだと思うほど、優しげな声が出た。
一の肌にはじんましんが出ていた。触れられて気を失わなかったのが不思議なくらいだ。きっと一は戦ったんだと思った。薄れそうになる意識を何とか持ちこたえて、オレを呼んだんだ。
「あなた何なのよ。私と一君は愛し合っているのよ。邪魔はしないで頂戴」
邪魔をしているのはどこのどいつなんだ。この女は一体どんな神経をしているんだ。
「俺は、あなたを愛したことは一度だってない。俺が愛しているのはつばさ、ただ一人だ」
抱き締める手を緩め、振り返り顔を上げると、一はそう高らかに宣言した。
「一君? 何を言ってるの? あんなに愛し合っていたじゃないの。……そう、この女狐があなたを唆したのね。男みたいな顔しちゃってやる事は下衆い女と一緒じゃない。どうやって一君を誑かしたの? 言いなさいよ。その若い体で誑かしたんでしょっ」
初め、一に縋り付くように甘えた声を出していたが、オレを鋭く睨みつけると般若のような恐ろしい顔をしてがなりつけた。
こんなに直接攻撃的な言動を浴びせられた事も、狂気な目で睨みつけられるのも初めてで、恐ろしくて、オレは一の袖を強く握った。怖くて、挫けそうになった。
一が必死に戦おうとしている時に、オレがそれを助けないでどうする。オレが弱気でどうする。自分の気持ちを奮い立たせ、負けじとオレも睨み返した。
オレは一歩前に出て、反論しようと口を開いた。
だが、それを一にさえぎられ、オレは口を噤むしかなかった。
「つばさを悪く言う奴はどんな奴だろうと絶対に許さないっ。つばさに言った事全て訂正して謝罪しろっ!」
一が怒った時の低い声だった。怒りを抑えているのか手がわなわなと震えていて、きつく握りしめた拳は今にも動き出してしまいそうな雰囲気を醸し出していた。
一がオレを庇ってくれた事は素直に嬉しく思った。だけど、一が心配で仕方なかった。
「何を言ってるの? 一君はこの女に騙されてるのよ。私が言った事は間違ってないのよ。だから、さあ、こちらにいらっしゃい」
まるで子供をあやすように甘ったるい猫撫で声で義母は一を誘う。
「俺はあなたを母親だと思いたくもない」
「それはそうよ。私達は愛し合っているんだもの。私達は恋人だもの」
「いいえ。俺はあなたを1mmも愛してませんし、恋人でもありません。俺にとってあなたは赤の他人です。それも二度と関わり合いにもなりたくない他人」
一はきっぱりとそう言い切った。あまりに痛烈で、義母を哀れに思ってしまうほどに。
「あなたは俺に何をしてきたか解ってるんですか? 戸籍上自分の息子となっている俺を無理矢理犯したんですよ。誰にも言うなと脅して。それのどこに愛があるって言うんですか? そんなものに愛など無い。俺はあなたを憎んでいた。殺したいと思った事も一度や二度じゃない。あなたが俺をめちゃくちゃにしたんだ。あなたはそれを解っていますか?」
一の声が酷く苦しそうだった。最初から一はこの人を憎いと思っていたわけではない。母親を亡くし、父親が仕事が忙しいこともあって新しいお母さんという存在は、一にとっては嬉しいものだったに違いない。まだ少年だった一は新しい母親が好きだったんだと思う。大人になり切れていない少年が母親だと思っていた人にそんなことをされたらショックを受けるのは当り前なのだ。裏切られた気持ちにもなっただろう。その気持はとても大きかったろうと思う。
一がどう感じて、どう苦しんで、どう悲しんで、どう絶望して、どうやり過ごしていたのか本当の所は解らない。たとえ一にその当時の心情を聞いたとしても、それを本当の意味で理解することは絶対に出来ない。だけど、苦しんでいる一を見ているだけで、オレは息が詰まるくらいに苦しかった。
「一君? 何を言ってるの? この私が無理矢理一君を襲ったって、そう言ってるの?」
「そうだ。あなたは俺を何度も……何度も襲い、父さんに見られた時には、俺に無理矢理犯されたと嘘まで吐いたんだ。全て忘れたとでもいうのか? そんな風に傷ついたふりをすればいつまでも騙せると思っているのか?」
両手で顔を覆い隠し、俯いた。
オレは最初、義母は泣いているんだと思った。自分の行いを悔やんで泣いているのだと。
ところが、それはオレの大きな勘違いだったのだ。
義母は肩を激しく揺らして笑っていた。
くっくっくっくっ、はっはっはっはっはっ、ひーっひーっひーっ……。
魔女なんじゃないかと疑いたくなるような耳を劈く不愉快な狂気じみた笑いだった。オレは義母が壊れてしまったんじゃないかと思った……。
「あ〜あ、可笑しい。あんたを襲うの私の楽しみだったのにね。小娘のせいで、もうそれも楽しめそうにもないわね。ああ、がっかり。あんたが泣きながら嫌がる姿を見るのが私の快感だったってのにさ。私があんたを愛しているわけないじゃないの。顔が可愛かったから、遊んでやっただけよ。私のことが憎かった? そりゃそうよ。だって、そう思うように仕向けたんだもん。あんたのあの目でみられるのが好きで好きで仕方なかったんだから。くくっ」
さっきまでのしおらしい女性の面影(勘違い女ではあったが)は、どこかに消えていた。
気違いなんだと思った。この女に人の心を思いやるそんな感情は持ち合わせていない。
最初に一に優しく接し、心を開かせたところで容赦なく襲う。その絶望と怯え、そして憎しみの混じった目を見る為の計算。全てはこの変態じみた女の計算でしかなかった。
昨日、一昨日とお休みさせて頂きました。お待ちになっていた方がいらしたら、すみませんでした。