第46話 2月-1
2月に入ってすぐのことだった。
2月に入ると、うちの学園も隣りの学園も3年生は自由登校となる。オレは、制服を着てわざわざ登校する理由も、気もないので毎日家で寛いでいた。一もわざわざ登校するつもりはなく、家にいる。
今日は、緑川に誘われたとかで、午前中から出掛けて行った。暇だったオレは家にいるのも飽きて、図書館に出向いてたっぷりと読書を楽しんだ後、スーパーで買い物をして、アパートに戻って来た。
オレ達の部屋の前に一人の女性が立っていた。
緩やかなウェーブのかかった長い髪を肩にたらし、小柄な体躯に高いヒールを履いて黒いコートを着、凛と背筋を伸ばした奇麗な人だった。
オレが近づくと、その足音を聞いて嬉しそうに振り向いたが、オレだと解るとあからさまにがっかりした顔をした。
「あなたは……、もしかして一のお義母さんですか?」
オレの問いかけに、オレを注意深く眺めた後、大きく微笑んだ。
「そうよ。そういうあなたは、つばさちゃんね?」
「はい」
オレは小さく呟いた。甚だ信じられなかった。こんなに小柄な女性に一が刃向かえなかったのか。いや、彼女に刃向かえなかったんじゃないのだろう。彼女の後ろにいる誰か、幸一や友人、先生に知られる事が怖かったに違いない。
小柄な美人。一を深く傷つけた人。可憐な笑顔。一が怖がる人。大きな瞳に無邪気な輝き。幸一を裏切った人。
オレの中の潜在的な情報による義母像と、今、目の前にいるこの女性と同一人物という気がしない。
本当にこの人が一を傷つけた人なのか。
「つばさちゃん。いつも、私の一がお世話になってありがとう」
あっ、今、さり気なく一を私のと言った。その一言を言った時の彼女の瞳が一瞬光ったような気がした。この人は、オレをライバルだと思っているのかもしれない。この人は、一を自分の息子ではなく、一人の男として好きになってしまったのだろうか。
母親と息子が仲が良くて、母親が息子を溺愛するせいで、息子の彼女に嫌がらせをして二人を別れさせるとか、ちょっと度の越えた親子愛のような話は聞いた事があるが、この人の場合はそれとはちょっと違う気がする。
相手が傷つくことも考える暇がなくなるほどの愛情。その想いを止めることが出来なくなってしまった。彼女はもう、一が息子だということすら否定してしまっている。都合の悪いことは見なかったことに、知らなかったことに、忘れたふりをしている。
本当は解っている筈なのだ。オレにはそう思えた。
「とにかく、どうぞ中に入って下さい。ここは、寒いので。一は出かけていて、夕方には戻ると思います」
「そう、早く会いたいわぁ」
そう言った彼女はまるで恋する少女の様で、幸せそうだった。
一を傷つけたという記憶を彼女は消去してしまったんだろうか。もしここでオレが一の彼女だと宣言したら、どんな反応を示すんだろうか。最悪、オレはこの人に殺されるかもしれない。
オレは、一と幸一に彼女が訊ねて来た事を素早くメールで伝えた。
夕方になって一が帰って来た。
ただいまとオレに笑顔で言うと、義母に顔を向けた。
「お久しぶりです。お元気そうで何より。今日はどういった御用件ですか?」
立ち上がった義母は一に抱き付こうとしたが、一に軽くかわされた。
義母の行動に眉を顰めた一がオレの手を縋り付くように握った。一の手が震えているのが解る。毅然とした態度をとってはいるが、かなり動揺しているのが窺える。オレも一の手を強く握ると次第に震えは納まっていった。
「何って、会いたいから来たのよ」
悪びれる風でもなく、義母はそう言った。
この人は無邪気で、自分がどんなに人を傷つけているのか解っていない、解ろうともしていない。一番性質の悪い種類の人間かもしれない。
「そうですか。では、用も済んだし、今日は直ぐに帰られるんですよね?」
一の他人行儀な言いように義母も少しは心を痛めるかと思ったが、本人は全く動じていなかった。寧ろ喜んでいるようにも見えた。一の心を弄んで喜んでいるように。
義母の第一印象と今では印象も大分違ってきていた。この人は明らかに一を傷つけた人なのだと解るし、この人ならやりかねない。人を見かけで判断してはいけないんだと、この時強く思った。
「あら。今日は泊めて貰おうと思っているの。駄目だったかしら?」
「別に構いませんが、居間で寝て貰いますが、宜しいでしょうか?」
一の無機質な声などさっぱり気にせず微笑み、頷いた。
オレと話している時は恋する少女のようだった義母が、今は好きな人を虐めて楽しんでいるサディスティックな悪女になっていた。
一は義母に頑なに気持ちを閉ざしていた。このままでは、義母との事を乗り越えたことにはならない。一が義母に会うたびに怯えていては駄目なんだと思う。突き放すようだが、一自身が乗り越えなければ意味がない。オレが一の代わりに義母に何かを言ってもそれは乗り越えたことにはならないんだ。一は義母の目を真っすぐに見られない。義母と話す時は目が泳いでいる。どんなに毅然とした態度で話しをしようとしていても目が見れなければ駄目なんだ。
義母はそれに気づいていた。そんな一を見てほくそ笑んでいる。我が物を得たりというように。
蛇みたいな女だ。一を丸呑みにしようと企んでいるみたいだ。
一には強くなって欲しい。義母を撥ね除ける強い気持ちを持ってほしい。
オレは直接手は出せない。それでも一の隣りにいる。それだけでも一の助けになると信じているから。
その日の夜、オレは義母に手料理を振る舞った。
一はオレの隣りに座り、必要以上を口を開くこともなく、黙々と食べ物を口に運んでいた。
義母の目は一を常に捕らえていた。その目は傍から見ていても気持ちがいいものではなかった。
獲物を狙う蛇の目。
義母はたまにオレにもお義理と言った感じで話を振って来たが、目は一から離れることはなかった。
一は痛いほどにその視線に気づいているのだろう。俯いて顔を上げようともしない。
オレが一番気を揉んだのは、お風呂の時だ。一と義母が二人きりになってしまう。義母が何をしでかすか解ったものじゃない。オレは湯船に入らず、体を洗うだけに留めた。頭は明日の朝にでも洗えばいい。一日洗わなかったからといって死ぬことはない。烏の行水のごとく風呂から出たが、見た感じ特に何かあった風ではなかった。
オレの後に義母が入った。本来ならお客様である義母に先に入って貰うところだが、義母が頑なにそれを拒否するので仕方なくオレが先に入ったのだ。
義母が風呂場に消えたのを見計らって一の顔を覗き込んだ。
「一。何もされなかったか?」
「つばさ。大丈夫だよ」
力無く一が微笑む。こんなに一を短時間で弱らせるなんて。
「つばさ。抱き締めてもいい?」
オレは頷いた。いつもの一ならそんなこといちいちオレに聞いたりしない。オレがイヤがろうがなんだろうが、抱き締めたい時に抱き締めるし、キスしたい時にキスをする。そんな一の温もりが何だか悲しげに思えた。
オレは一の背中に腕を回し、さらに一にくっついた。もっと近くに行きたかった。もっと一の温もりを感じたかった。
「キスしてもいい?」
「聞くなよ、馬鹿」
一を好きなオレが、一のキスを拒む事なんてあるわけないのに。顔を上げるとすぐに一の唇で塞がれた。貪るように熱いキスだった。どこまでも深くオレを求めようとする。オレはそれに応えた。唇から一の悲しみと苦しみ、そして動揺が伝わって来る。オレはそれを受け取る代わりに、オレの勇気を一に分け与えた。伝わったと思う。オレの気持ちも与えた勇気も。慰めのキスはいつまでも続いた。