第43話 1月-3
「つばさ、どうして泣いてるの?」
オレは力無く頭を振った。一と離れたくないから泣いているのだと、そう言ったら一はどんな顔をするだろうか?
言えばいいじゃないか。オレ達は両想いなのだから。
オレは口を開いたが、そこからは何の音も出て来なかった。肝心な時に都合よく出なくなる声。
何故? 今は伝えるべきじゃないと、そう言っているのか。オレの中の何かが今じゃないと止めているということなのか。
オレの中の不安が? 何に対しての不安だというんだ? 一と思いを通じることによって、オレが女になる事か。オレは、一を好きだと感じたその時に完全に女になったのではないか? 確かにまだ
自分のことをオレと呼ぶが、それは癖のようなものだ。オレは男じゃなく、紛れもなく女だ。いつのまにかそう思うようになっていた。オレが不安に感じているのは、一がオレを男として見ているんじゃないかということなのかもしれない。
一はオレとセックスが出来ると言っていた。それは、確かにそうかもしれない。それでも、やっぱり一は男の方がいいと思っていたら?
「一はオレを男だと思ってる? 女だと思ってる?」
「つばさは女でしょ?」
当然だとばかりに、逆に問いかけられてしまった。
「じゃあ、どっちのオレを好きになった?」
「つばさは女だよ。俺には最初からつばさは女以外の何ものでもない。男しか好きになれなかった俺が、つばさは女だと解っていても好きになってしまったんだ。女嫌いを吹き飛ばしてしまうくらいつばさが好きってことだよ」
これは殺し文句ってやつなんじゃないだろうか。
「一はオレが女でもいいんだ?」
そうだよ、と優しく一が囁く。
女嫌いな一が、オレを女と解っていても好きになってくれた。それって凄くないか? オレが思っていた以上に一はオレを好いてくれてるってことなんだ。一の気持ちを強く感じて、オレは頬を染めた。何が不安だったのかすら忘れてしまうほどに、一の言葉はオレの心の真ん中に深く突いた。
「つばさ、聞いて欲しいことがあるんだ。俺の過去のこと」
一が真剣な目で語りかけた。ごくりと生唾を飲んだ音がオレにまで聞こえて来た。一が緊張している。それほど、今から話す事は重要なことなんだ。オレは一の手を握った。一の手はじっとりと濡れていた。
「過去?」
「そう。俺が女嫌いになった訳が過去にある。それを今、つばさに聞いて貰いたい」
オレは一の瞳を覗き込んで大きく頷いた。
「俺の義理の母がうちに来たのは俺が小学校5年の時だった。その頃、俺はあの人に気に入られようと必死だったように思う」
一は母親のことをあの人と言う。その響きは酷く冷たいものだった。
「一年間ほどは上手くいっていたんだ。少なからず、子供の俺の目からはそう感じていた。その頃、俺はあの人が大好きだった。父さんは、刑事をしていたからいつも忙しそうで、俺はいつも寂しかった。だから、嬉しかったんだ。純粋に。あの人がいてくれることが。それなのに……」
急に一の言葉が途切れ、握っていた手の力を強めた。オレは一の背中を摩った。
「……あの人は、オレが小学校6年の冬。寝ていた俺を……襲った……んだ。俺は……、戸籍上、母親となっている人に……犯された。勿論、そんな経験は初めてだったし、それなりの興味はあった。だけど、それをするのは俺がもっと大きくなってからで、そして相手は俺が好きになった同級生くらいの女の子だって思ってた。突然に、そんな行為を目の当たりにして、その相手が自分の大好きだった母親と思っている人で、俺はびっくりして、怖くて、何が何だか解らなかった。怯えている俺にあの人はこのことは誰にも言うなって言ったんだ。父さんがこの事を知ったら俺を嫌いになるわよって。先生や友達に言ったらいじめられるのよって。俺にもこのことが一般的に言って良くないことなんだって何となく解っていた。あの人にされたそれは俺にとって恐ろしく、気持ち悪いものだった……」
一は……、一が……義理の母親に性的虐待を受けていた。血が繋がっていないと言っても、相手は母親なのだ。そんな人に、しかも小学生のまだキスも知らなかったかもしれないいたいけな少年に、そんなことを……。
痛かった。一の心が悲鳴を上げている。その悲鳴が握られた手から流れ込んでくるようで痛かった。一の心の痛みが次々と伝わって来る。それでも、一が本当に感じている痛みに比べたら、俺が感じているこの痛さは、一が感じるその痛さのほんの一握りにすぎない。
「それは、その後もずっと続いた。頻繁にではなかった。それは、きっとあの人の性欲が溢れ出たときだけ。それは、半年ない時もあったし、1か月の時もあった。俺はいつも怯えていた。いつあの人が部屋に来るかもしれない。毎日、寝るのが怖かった。苦しくて苦しくて、でも、誰にも言えなかった。こんな事知られたら嫌われるってあの人が言った事を本気で信じていた。父さんには、絶対に言えないと思った。俺は父さんが大好きだったから、嫌われたら俺は一人になってしまう、そう思っていた」
小学生や中学生の男の子がそんなことを果して大人に言えるだろうか? 相談した大人にほんの少しでも疑いやイヤらしい目、侮蔑の籠った目で見られたら、子供の心は簡単に、それこそ棒きれのように折れてしまうだろう。
少年だった一に、一体何が出来たというんだろう。
「中学2年の時に父さんに見られたんだ。父さんに気付いた途端、あの人は父さんの足に縋り付いてこう言ったんだ。『一君に襲われたの。何度も何度もイヤらしいことをされたわ。助けてっ!!!』涙まで流して、大袈裟に。大根役者の演技でも見てるみたいで滑稽だった。父さんはあの人の言葉を信じるだろうと思って、俺はもう人生おしまいだってその馬鹿みたいな演技を見ながら放心していた。だけど、違った。父さんは、俺を信じてくれた。父さんは、刑事だったから、嘘を吐いている人間を見抜くのが得意だったんだ」
幸一が刑事で良かった。馬鹿な女に騙される碌でもない大人じゃなくて良かった。
「父さんのお兄さんに当たる人のうちに暫くお世話になった。父さんは刑事柄あの人をどうにか更生させたかった様なんだ。だが、俺が近くにいたらまた同じことを繰り返してしまう。そんな時だった。父さんの無理な捜査が問題になった。地方に飛ばされるほどの問題ではなかったんだ。署内に敵も多かったけど、それよりも多くの味方を父さんは持っていたんだ。こっちに残ることも出来たんだ。でも、父さんは暫くあの人を連れて遠くに行った方がいいと思った。普通に考えたら、あの人の近くにいるよりも父親である父さんは俺の近くにいるべきだって考えるかもしれない。だけど、その頃、俺は父さんのことも怖かったんだ。父さんはオレを寂しそうに、苦しそうに、悲しそうに見ていた。その表情を見るのは俺には辛いことだった。父さんは、俺を被害者だと思っていた。だけど、心のどこかで俺を罵りたいと思っているんじゃないかって思ってたんだ。そんな俺の感情を父さんは解っていたんだ。あの人と俺が離れた方がいいように、俺と父さんも距離を置いた方が良かったんだ。俺の父さんとつばさの父さんでどんな話し合いがあったのか解らないけど、俺達は同居をすることになった。ここに来る前にお世話になっていた伯父さんが凄く優しい人で、1年の間でどうにか普通の生活が出来る
ようになった。俺が気付いた時には、女を拒絶する体質になってたんだ」
ここまで読んで下さって有難うございます。
18日まで夏休みですので、お休みします。