第42話 1月-2
「ところで、一。母さんが姿を消した。こっちに来たり、電話は来ていないか?」
今までのおちゃらけた雰囲気がふっと消えて、厳しい表情となった。これが刑事の顔。職場での顔なのだろう。でも、何故自分の妻の話をするのにそんな厳しい顔をする必要があるのかが解らなかった。
一も途端に眉間に皺が寄り、苦しそうな表情を浮かべた。隣に座っていたオレの手を強く握った。オレは一の顔をちらりと窺ったが、何かに緊張しているようだった。
普通じゃない。そう思った。
自分の妻、自分の母親の話をする空気じゃない。例えばそれは凶悪犯が逃げ出した時のようなピリッとした緊張感があった。
「ない」
一がぼそりと呟いた。
「そうか。安心は出来ない。いつここに来るかも解らないからな。もし、来たり連絡があったらすぐに知らせるんだ。いいね? 一、俺はもう、終わりにしようと思っている。二度とお前に近づけないようにする。お前には本当にすまないと思っている。あと少し辛抱してくれるか?」
一は神妙に頷いた。
オレには理解出来ないことばかりだ。家族の問題。だが、一はオレの助けを求めている。それが、一の手からひしひしと感じている。
一が何かを恐れている。何かに不安を抱えている。それが、母親であるということがオレには解せないのだが。話の展開からしてそうであると推察される。母親事態を恐れているのか、母親に係る何かを恐れているのか。
「つばさちゃん。一を助けてやってくれるかい? 一が君を心の拠り所にしているのが解る」
幸一は繋がれた二人の手を微笑ましげに見ながらそう言った。
「はい。オレはどうすれば、何をすればいいんでしょうか?」
戸惑いながらオレはそう返事した。
「傍に。一の傍でそうやって手を取ってくれるだけでもこんなに落ち着いている。以前の一だったら酷く取り乱していただろうからね」
本当にそうなんだろうか?
オレは二人に一体何があったのか聞きたくて仕方がなかった。だが、それに関して二人とも背中を向けていて、その背中はオレが何かを問うことを強く拒否していた。幸一の方は、一の為に聞かないでやってくれと訴えかけているような気がした。これじゃとても聞けない。訳が解らない。
「ところで一は大学受かったんだよな? おめでとう」
180度方向転換したように、突然話が変わった。その迷いのない幸一の態度は、全身でさっきの話はこれでおしまいと無理矢理白線を引かれた様なものだった。一も一気に力を抜いたように、ホッとした顔になった。
「ああ、ありがとう。良かったよ、受かってなかったら今頃必死こいて勉強して、父さんの相手も出来なかった」
「そうだな」
そう言って幸一は笑った。
ほんの少し話を聞いているだけで、この親子がいかに信頼で結ばれているかが解る。一も幸一もお互いを信頼しているようだ。会話の端々で、表情の至る所でそんな関係が垣間見れた。
「つばさちゃんはもう進路決まってるの?」
「はい。オレは専門学校です」
「専門学校? 何のかな?」
「料理のです」
それはいい、と満足そうに頷いていた。
「昔ね、君のお母さんに料理を御馳走になったことがあるんだ。いやあ、あれは凄かった。危うく病院に担ぎ込まれそうになったよ」
笑ってそう言った。今だから笑える話だろうが、その時は大変だったろうと思う。
それもその筈、母さんの料理を食べてオレも一度死にかけたことがある。母さんの作る料理は時として毒薬にもなりかねないのだ。ある意味凶器なのだ。だが、不思議なことだが、母さんは自分が作った料理を食べて、美味しいと自画自賛するのだ。そして、オレと親父がもがき苦しんでいる中、母さんだけは毎度ピンピンしており、原因は一体何なのかしら、としきりに首を傾げているのだ。オレも親父も、母さんの料理が原因だ、と突っ込みたいのだが、あまりに苦しくて突っ込むことすらままならないのだ。
あの恐ろしい料理を幸一は食べたのか。何故そんな事に。犠牲は家族だけで十分の筈だ。
「実はね、罰ゲームだったんだよ。君のお父さんとゲームをしてね、負けたんだ。しかし、あんな恐ろしい罰ゲームは後にも先にもないと思うよ」
オレはつい腹を抱えて笑ってしまった。可笑しくて目尻に涙まで出て来てしまった。
「それは災難でしたね。でも、オレは母さんが料理が下手だったことに感謝してるんです。そうじゃなきゃ、オレは料理を作ろうとは思わなかっただろうし、料理人になりたいなんて思わなかったと思うから。だから、感謝してます」
「君は本当にいい子だね。いつか一のお嫁さんになってくれるといいんだけどね」
喉を潤そうとお茶を口に含んでいたオレは幸一にしみじみそう言われ、口に含んでいた物を一気に吐き出してしまった。そしてそれは、正面に座っていた幸一にまともにかかってしまった。
「ああ、ごめんなさいっ」
慌てたオレは顔にかかったお茶を台布巾で拭いてしまい、
「つばさちゃん。それ台布巾だけど?」
と突っ込まれ、オレは奇声を上げた。何度も謝りながら、ティッシュで幸一にかかったお茶を拭きとった。
一はその光景を、げらげらと笑って見ていた。
その日の夜、オレは幸一を手料理でもてなした。
幸一が大のハンバーグ好きと聞いて、張り切ってハンバーグを作った。
「ああっ、これは美味しいね」
料理に手をつける時、幸一は一瞬怯んでいた。恐らく母さんの料理の恐怖が一瞬霞んだのだろう。母さんの料理はなまじ見た目だけはいいのだから、一口食べて失神しそうになることもしばしばなのだ。それでも、幸一は食べてくれて、美味しいと言ってくれて、オレは嬉しかった。
「一はいつもこんな美味しい料理を食べているのか。羨ましい限りだな」
奥さん(一の義母)は作ってくれないんですか? と聞こうとしたが、きっとそれは触れてはいけないことなんだと思って口を噤んだ。
寝る時に幸一がオレと一緒に寝たいと駄々をこねたが、一に強制的に一の部屋に連れて行かれた。幸一特有の単なる親父的ジョークなのだが、一は本気で怒っているようだった。
「つばさちゃん。おやすみのちゅうは〜?」
無視しておいた。一は父親に向かってゲンコツをおみまいしていた。苦笑しながらオレは自室に入って行った。
暫くたった後、コンコンコンとノックされた。
はい、と短く答えると、俺、と短い返事が返って来た。どうぞ、と言うと一が入って来た。
まだ寝ずに横になって本を読んでいたオレは本を閉じると起き上がってベッドに腰掛けた。
「どうした? ベッドが狭くて眠れないのか?」
一は首を振った。
「つばさが足りない。今日は、父さんがいたからつばさにくっつけなかった」
それはそうかもしれない。暇さえあれば抱き付いて、キスしてくる一のことだ。今日は一度もしていないのだからそう思ってもおかしくはない。
「いいよ、ほら」
手を広げて一を招き入れた。といっても一の方が体が大きいからオレが包まれる方なんだけど。
一がゆっくり近づいて来て、オレをすっぽりと包みこんだら、凄く懐かしい感じがした。たった一日、いや半日だったかもしれない、一般的に言えば、ほんの僅かな間としか言いようがないそれだけの時間、くっついていないだけだったのに、それが寧ろ不自然なようにさえ感じた。一はもはや隣りにいて当たり前の存在なのだ。
一に出逢う前、オレはどうやって過ごしていたんだ? この先、一と離れたらどうやって過ごせばいい?
オレだって子供じゃない。一と離れたからって死ぬわけじゃない。だが、恐らく感じるだろう。喪失感を。居るべき人がいない物足りなさを、切なさを。いつも探すだろう。その姿を、面影を、声を。何処に居ても、恐らく常に。
オレと一は卒業と同時に同居人を解消される。勿論、完全なお別れではない。けれども、それが二人にとっての永遠の別れのように感じてならなかった。気付けば、オレは涙を流していた。一はオレの涙を一粒ずつ、大事なもののように丁寧に掬っていた。その雫がまるで聖水のように美しい清らかなもののように。
「つばさ、どうして泣いてるの?」