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第28話 8月-9

 社長室に足を踏み入れると、大きなデスクの向こうのこれまた大きな椅子に桃井社長が座っており、デスクの手前には桃井が立っていた。オレ達がデスクの前まで歩み寄ると社長は立ち上がった。オレと一は軽く頭を下げる。

「忙しいところ突然伺ってしまってすみません」

 オレがそう言うと、社長は優しい微笑みを浮かべた。

「そんなことは気にしなくていいんだ。こちらの方から改めてお詫びに行くところなのに来て貰って本当に申し訳ない。それからこの間の夜のこと、大輝が失礼なことをして本当に申し訳なかった」

 社長はデスクを回って桃井の隣に立つと、二人は深々と頭を下げた。

 社長は、土下座をしようと腰を屈んだのだが、流石にそこまでして貰わなくてもオレの気持ちはもう納まっていたので、オレはそれを必死で止めた。

 社長のその姿に親の愛を見た気がした。

「もう、この間のことはいいんです。あの時にもう謝罪は受けてますから」

 オレは社長が頭を上げ、オレを見たのを確認してから再び口を開いた。

「今日、ここに来たのは、先日のドレスを返しに伺ったんです」

 オレはドレスの入った袋を差し出した。

「このドレスを着た君はとても美しかった。これは我々に返さずに君が持っていてくれたら大輝も喜ぶと思うんだが……」

 社長が桃井に目を向けると、桃井が言った。

「それはつばさちゃんにプレゼントしたものなんだ。俺に返されても、俺が着るわけにもいかないしね。君に受け取って欲しい、本当に君に似合っていたから。もしも持っているのも嫌だと思うなら、捨てて貰っても、売って貰っても、焼いて貰っても、君の好きにしてくれたらいい」

 そんな事言われても、こんな高価なドレスを着る機会なんてないし、かといって貰ったものは捨てたり焼いたりする事だって出来るわけがない。だが、桃井親子はドレスを受け取ってはくれそうになかった。

「じゃあ、有難く頂いておきます」

 オレは差し出していた袋を下におろした。もう、用件は終わった。

「それじゃあ、オレ達はこれで」

「赤川さん、私達に何か出来ることがあったら遠慮せずに言って下さい。君は、私達親子を救ってくれた恩人でもあるんだ。こんなことがなければ、今もなお大輝は遊び回っていただろうと思う。君に感謝しているんだ。有難う。君たちにお詫びと感謝のしるしに何かプレゼントしたいとも思ったんだが、お金で解決しようとしていると怒られてしまいそうなのでね。何か、困ったことがあれば、いつでも力になろう」

「有難うございます。その言葉、有難く頂きます。もし何かあれば、その時は相談に乗っていただくかもしれません。では、これで失礼します」

 オレは頭を下げて踵を返し歩き出した。一も頭を下げてオレの後について来た。

 ドアのところでもう一度お辞儀をして社長室を出た。

 エレベーターに乗り込み、ドアが閉まるのを待っていると、ガッと音がして扉が止まった。

 扉を両手で無理矢理こじ開けて立つ桃井がいた。

「つばさちゃん。俺、本当に君に惚れてしまったみたいなんだ。もう、二度とあんな真似をしないと誓うよ。だから、俺がもう少ししっかりとした社会人になれたら、もう一度会ってくれるかな?」

 この間までの粘っこいイヤらしい感じは消えていた。すっきりと清々しい表情をしていた。

「今の桃井の表情凄く良いと思うぞ。桃井が一人前になった時に誘ってよ。その時にならないと返事出来ないな」

 オレはニカッと笑って見せた。オレの笑顔を見て桃井も笑った。その笑顔は無邪気な少年のような素直なものだった。

 桃井がエレベーターから手を放し、閉まるドアの間から手を振った。

「今の桃井の笑顔はいい笑顔だったな。あいつが初めからあんな笑顔をしていたら、オレも好きになってたかもしれないな……」

 オレの一言に一の雰囲気が一気に重くなった気がした。

「一? また怒ってんのか?」

 オレが一を覗き込むと素早く唇を押し付けられた。その唇はすぐに離れたが、再び押し付けられた。そして、もう一度、もう一度、もう一度……。啄むように何度も何度も短いキスの襲来を受けた。社長室直行のエレベーターの中、二人を遮るものは何もなかった。

「一……。怒って……るのか?」

 キスの合間に素早く尋ねる。だが、それを覆い被さるようにすぐに唇を塞がれる。

「一……?」

「今は……黙って……」

 そう言われてオレは口を噤んだ。

 次から次へと降り止まないキスの雨が、オレの唇に小さな水たまりを作る。雨は止まない。オレに雨を止める術はない。熱を帯びた小さな雨が重なる度に温度を上げて行く。短いようで長いエレベーターが1階に辿り着くと、ぴたりと雨が止み、笑顔の陽射しがオレに注いだ。眩しくてオレは目を細めたと同時にどくんと一つ心臓が大きく跳ねた。

 オレは自分のそんな些細な変化を一に悟られないようにすたすたと歩き出した。

「つばさ、怒った?」

 オレが怒る? 怒っていたのは一の方じゃないのか?

 オレの早足に追いついた一がオレの目の前に立ち塞がった。

「怒ってない。けど、お前はキスしすぎなんだよ、ボケっ」

 オレは目の前にある一の頬を力一杯抓りながらそう言った。

「いはい、いはいおつばしゃ」(痛い、痛いよつばさ)

 オレは痛がる一の少し歪んだ顔を見て、漸く少し胸がすっとして一を解放した。

「煩いっ。自業自得だ。ほら、行くぞっ」

 横目でちらっと窺うと、一は両頬を手で痛そうに摩っていた。一の頬は一部赤くなっていた。ちょっと強く抓り過ぎたかな。その様子を見て、少し後悔した。謝るつもりはさらさらないが。

 

 オレ達はビルを出ると薫さんの店へと足を向けた。薫さんの店はビルから案外近くて、すぐに見つけることが出来た。前に来た時は車に乗っていて、車窓から外の景色を落ち着いてみているような状況になかったので、場所が解るか僅かな不安があったのだ。

 店に入ると、いらっしゃいませ、と声がかかった。

 奥で商品を整理していた薫さんが顔を上げオレを見た。オレは薫さんに頭を下げた。

「あら、あらあらまあ、来てくれたのね。あれから、心配してたのよ」

 近寄って来ると、相当嬉しかったのか、オレに抱き付いて来た。

「薫さんの防犯ブザー凄く役に立ったんです。桃井から貞操を守ることが出来ました。有難うございました」

 薫さんはオレを放すと、こくこくと何度か頷き、目頭を押さえた。

「そうなの。良かったわ。本当に良かった……」

 そこで初めて一の存在に気付いた。

「あら、この食べちゃいたいくらい可愛らしい子はつばさちゃんの彼氏かしら?」

 食べちゃいたいくらいって……。

 隣に立ってる一が解らない程度に引き攣っているのが解る。

「いや、オレの同居人」

 へぇ、と一を下から上へと眺めまわした。一はあまりの強い視線に少々戸惑っているようで、そのほんのちょっと怯えた一の姿が可笑しかった。

「つばさちゃんの王子様ね。つばさちゃんは私の可愛い妹分みたいなものだから、手は出さないでおくわね」

「だから、薫さん違うって」

「あら、でも彼が桃井からつばさちゃんを救いだしたんじゃないの?」

「そうだけど……」

「ほらっ、やっぱり王子様じゃない。それにしても奇麗な顔してるわ。私ともたまには遊ばない?」

 いや、結構です、と一が少し困った顔でオレに助けを求めた。

「いやあね、冗談に決まってるじゃないの。つばさちゃんの王子様に手出すわけないじゃないの。それに、私、彼氏いるもの。ラブラブで、他に目が行かないわ」

 ふふふっと薫さんは笑った。オレも一の慌てぶりに笑った。一はちょっと頬を脹らませ、そっぽを向いた。

「それで、薫さんに借りた防犯ブザー壊しちゃって。オレ、全然お金持っていないから、これ。こんなもので申し訳ないんですけど、スタッフの皆さんで食べて下さい」

 オレは美味しいと評判のお店で買ったシュークリームを薫さんに手渡した。

「まあ、私このシュークリーム大好物なの。おやつにみんなで食べるわね。でも、気を使わなくても良かったのよ。あれはつばさちゃんにあげた物ですもの。まっ、これは遠慮なく貰うけどね、ふふふっ」

 薫さんは余程シュークリームが大好物なのか予想以上に喜んでくれた。

 オレ達は薫さんに別れを告げると、家路についた。

「薫さん、一のこと気に入ったみたいだったな?」

「勘弁してくれ。オレにだって好みってもんがあるのさ」

 オレは、本当に困惑しているって感じの一をからかっては爆笑した。

 オレは夏休み中、夏希を宥めるのにだいぶ苦労させられた。

 オレに負い目があるようで、私のせいでつばさをあんな目に遭わせてしまったと、絶えず悔いているようだった。確かにオレにとって嫌な思いもしたが、それでも個性的な面々に巡り会えたことは損じゃなかったのかなと思えた。


8月はこの話でおしまいです。来週からは、9月に入ります。

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