第25話 8月-6
「つばさちゃんはやっぱりモテモテだね」
桃井の声に振りかえると、さも満足そうに微笑む桃井に出逢った。
「モテてなんかねえよ」
くくっと桃井が可笑しそうに笑った。
「この会場にいる全て、男も女も君を注目しているよ。ほらっ、見てごらん」
今まで一切気にもしていなかった周囲をぐるりと見回すと、オレと目があった途端に皆さっと目を逸らす。みんながみんなそうだった。みんながオレというよりもオレと桃井を見ている。
「何でだ?」
「つばさちゃんが美しいからだよ。男は美しい君を欲しいと渇望する。女は君の美貌と若さを羨望する。君を見ずにはいられないんだ」
確かに女の鋭い視線はオレに向けられている。だが、それはオレの美貌とか若さを羨んでとはちょっと違う気がする。
「そんなことないだろ? 少なからず女は、お前をとられて睨みつけているって感じだぞ」
桃井はここにいる女の全てではないにしても、相当数の女に手を付けている筈だ。
「まあ、それもあるかもしれないね」
どうやら否定はしないようだ。
まったく、どこまで行ってもいけすかない男だ。
オレは今、エレベーターの中にいる。
パーティーは先ほど終わり、その同じホテルに部屋を取ってあると桃井は言った。
ここまで来て、くじけそうになる心を何とか強く持とうと下を向くことだはしないようにと無理に顔を上げた。
一は一体どこで何をしているんだろう?
一がアパートを出て4日がたっていたが、何をしているということは一切話そうとはしなかった。
一はオレを助けると言ってくれたけど、きっとそれは無理なことなんだ。
たかだかセックス1回やるだけだ。心を閉ざしていればそんなものすぐに終わる。本当は大好きな人と、心と心が通じ合った人と、初めてを迎えたかった。
一……、何やってんだよ。早く助けに来いっ。
無情にもエレベーターは最上階に止まった。桃井はこのホテルのスウィートルームをとっていた。桃井がすたすたと歩いて行くその後をオレは気丈に上を向いて歩いた。
桃井が一室のドアの前に立つとキーを回し、ドアを開け、オレを中に招き入れた。その全てが手慣れていて、見ていて気分が悪くなる。
オレは中に入ると、スウィートルームってものが珍しくて、口を開けて首をキョロキョロと回して眺めた。それを見て桃井が可笑しそうに笑った。
桃井の気配が急に背後に感じて、オレは体を強張らせた。桃井の腕がオレの耳元を通り、首に巻き付いた。触れられただけで、鳥肌が立つのはオレの体が、桃井に拒絶反応をしているからなんだろう。それでも、桃井を叩きのめしたいという願望を懸命に堪えた。
「楽しみだ……」
耳元で囁かれ、気持ちの悪い生暖かい息がオレの耳に微かに触れる。耳の中にナメクジのような気持ちの悪い物体が侵入して来て、オレはぞぞぞっと寒気を感じた。そのナメクジが桃井の舌であると解った時には、気持ち悪すぎて死ぬかと思った。
首に回っていた右手が下に降りて来て、オレの手を取った。
「おいで……」
手を引かれてオレはベッドルームに連れて行かれた。ベッドルームに入った途端に桃井に押し倒され、桃井の想い体がオレの上に圧し掛かって来た。キスをされそうになって顔を背けると、首筋に吸いつくように桃井の唇が押し付けられた。首筋にほんの少しちくっとした感じがした。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い………………。
ギュッと瞑った瞳から涙が一粒零れ落ちた。
どんなに自分自身にこんなの平気だと言い聞かせても、体は、心は、決してそれを受け止めようとはしてくれない。
怖いっ、嫌だっ、助けてっ、一!!!
心の中でありったけの想いを込めて叫んだ。届かないことは解っていた。それでも助けを求めずにはいられなかった。
『つばさ。つばさっ、どこにいるっ? 返事しろっ!』
頭の中で一の声が聞こえた……気がした。返事をしたいのに、オレはここにいる、と叫びたいのに、オレの喉は恐ろしさの余り音を失ってしまったようだ。
ふと薫さんがくれた防犯ブザーを思い出した。薫さんはオレのドレスの脇の下のあたりに目立たないように防犯ブザーを仕込んでくれた。
「いいこと、何かあったらこのボタンを力一杯押すのよ」
薫さんの顔が浮かぶ。薫さんの心配そうな表情と、頼もしい笑顔が瞬時に浮かびオレの気力を取り戻してくれた。
オレは薫さんに言われたとおりに桃井に悟られないようにボタンを思いっきり押した。その途端、ピーピーピーというけたたましい電子音が部屋中にこだました。勿論その音は、部屋の外にも漏れ聞こえただろう。
その音に驚いた桃井だったが、すぐに何の音だか気付き、ちっと舌打ちをすると、その根源である防犯ブザーを探り出すと床に叩き付けた。それと同時にけたたましい音がぱたりと止んだ。薫さんに持たされた防犯ブザーが無残に砕けていた。
「こんなもの鳴らしやがって。悪足掻きは止めようか。大事な友達の為だろう? それに、ここには誰も来ない。どんな音が鳴っても助けには来ない。ホテル側もそこんとこは心得てるんだ」
オレは壁際に逃れるようにへばり付いた。にじりにじりとそれを楽しむように桃井が近づいてくる。オレに逃げ場はもうない。
桃井の手がオレの足を捉えたその時、ドンドンドンとドアが激しく叩かれた。
「お客様っ。お客様っ! 先ほど、妙な音がしましたが、如何されましたか?」
この声は、ホテルマンのふりをして部屋の中を探るこの声は……一のものだった。
助けを求めようと口を開いたが、その口を桃井の手で塞がれてしまう。
「何でもない。心配はいらないから下がってくれ」
桃井がドアの外にいるであろう一にそう言った。
「承知しました。では、何かございましたらお呼び下さい」
一が引き下がってしまった。一がドアから遠ざかって行ってしまった。
そんな……。
桃井が下卑た笑いをオレに向けた。
「これで邪魔者はいなくなったね」
オレは再び桃井に組み敷かれる。
今度こそもう逃げられないんだ。オレは桃井にヤられる……。
そう諦めの気持ちを胸に抱いた時、ガチャッとドアのキーが回された音が聞こえた。桃井もその音に気付いたのか驚いて体を起こした。
バタバタと足音がして、二人の男がベッドルームに入って来た。
一人はオレのよく知っている一で、もう一人はパーティーで見た桃井の親父である桃井社長。
「つばさっ」
一がオレの元に駆け寄り、優しく抱き締めてくれた。やっと張りつめていた気持ちを抜くことが出来た。
その後からもう一人部屋に入って来た。それは、夏希だった。夏希は涙目でオレを見ていた。一が腕を放し、今度は夏希に守られるように抱き締められた。
「桃井大輝さん。あなたがやっている行為、またやっていた行為は立派な犯罪です。あなたに会社の権限は何一つ許されていない。あなたの一存で、黒田さんの会社と業務提携することも資金援助をすることも出来なかった筈です。それは、ここにいる桃井社長に聞けばわかる事です。あなたがつばさに出した条件は実行出来るものじゃなかった。あなたはそうやっていつも女性を騙し、濃密な関係を気付いた後に、そんな話は知らないと女性たちを切り捨てて来た。証拠も証言も全て俺の手の中にあります。その被害女性たちから話は聞いていますし、被害女性とあなたの会話を録音したテープもオレの手中にあります。あなたが、これ以上つばさに何かするようであればそれら全てを警察に提出します」
一はまるで探偵のようだった。若しくは逮捕状を突き付ける刑事の様でもあった。
「俺は何も悪いことなんかしちゃいねえよ。騙される女が悪いんだ。俺の顔と金しか見ていないような奴らが悪いんだ」
息子の言葉に桃井社長は堪りかねて殴り飛ばした。桃井は頬を押さえて目を向いて桃井社長を見ていた。
「馬鹿野郎っ!!! ……大輝。お前はもう駄目だ。俺はお前が私の後を継いでくれると期待していたんだ。だが、お前は卑怯な手で女を誑し込んでばかりだ。もうお前の尻拭いをするのもうんざりだ。一度刑務所に入るのもいいのかもしれないな」
桃井社長は息子に吐き捨てるようにそう言ったが、その表情は痛々しくて仕方なかった。本当は、こんな事は言いたくないに決まっている。本当は、一緒に会社を盛り上げて行きたいと思っていたに違いないんだ。桃井が刑務所に入ってしまえば、桃井社長の地位も危ういものになるのかもしれない。それでも、息子が更生する為なら……、そんな想いが見て取れた。
桃井には親父に殴られるって事も怒鳴られるって事もこのとき初めてのことだったんだ。オレの目にはそう見えた。