第23話 8月-4
「信じる。一を信じるよ」
小さいけれどしっかりとした声でオレはそう伝えた。見えなかったけれど、一がふわりと笑ったのが解った。
「俺、暫く家を空ける。つばさは何も心配しなくていい。水曜日になったら、桃井に条件を呑むことを伝えるんだ。それで、桃井が日にちを指定して来たら俺にメールで知らせて、いい?」
「うん、解った。でも、一は何処に行くんだよ? 無茶したり絶対にすんなよ? 殴り込みとか……」
オレは不安を感じ、振り返って一を見上げた。
「つばさ、時間がないんだ。俺が今何をしようとしているのかは後で教える。殴り込みなんてしないから安心していいよ」
一がオレを安心させようと笑顔を見せた。
「オレにっ、オレに何か出来ることはないのか?」
オレは一が今すぐにでもどこかに行ってしまいそうな気がして、それが物凄く寂しくて、一に縋り付くようにしがみ付いてそう言った。一を引き留めたかった……。
「つばさが今何かをするのは危険なんだ。それこそ桃井に何をされるか解らないんだ。だから、つばさには待っていて欲しい。待っているだけっていうのが、つばさにとって辛いことだってよく解ってるつもりだよ。自分だけ役に立てないなんていやだ、自分自身のことなのにって思うんだろう? それもすべて理解した上で、待っていて欲しいんだ。出来る? それが、つばさが今すべきことなんだ」
「……解った」
一はオレの頭を撫でると、オレの頭のてっぺんにキスを落とした。オレが顔を上げると、一は微笑み、ゆっくりと顔が近づいてくる。
ほんの少し触れただけの優しすぎるキス。
不快な感情は微塵も感じられない。桃井のそれとは明らかに違う。
一のキスにはイヤらしさがない。気持ち悪さもない。ただ、オレを安心させる。そんな一をオレは信じることが出来た。
一が大きめな鞄を背負ってアパートを出た。何処に行くとも何をするとも告げずに。
一と同居をし始めて、初めてこの部屋が広いと感じた。この部屋でたった一人なのがこんなに心許ないなんて予想だにしていなかった。しかも、オレは待つことしか出来ない。
勿論、一を信じている。その気持は疑いようもない事実なのだ。だが、何も出来ない自分を思うと情けなくて仕方がない。
いつだったか緑川に、一を救ってやって欲しいと言われたことがあったが、結局いつもオレが救われてばかりいるんだ。オレは頼ってばかりで一を助けることも出来ない。迷惑をかけるばかりだ。甘えるばかり。
オレはこんなことばかりを悶々と考えて水曜日まで過ごしていた。
一からは毎日、大丈夫だから心配しないで欲しいというメールが届いていた。
そして、水曜日の昼過ぎ、桃井から電話がかかって来た。オレがかけようかどうしようかと携帯を睨みつけていたところだったので、突然に着信が来て、飛び上がるほどに驚いた。
『もしもし。桃井です』
「解ってるよ」
『くくっ、その無愛想な声もそそられるなぁ。そういう子をベッドの上で虐めるのが好きなんだ。俺が何の為に電話したか勿論、解っているよね?』
気味の悪い蛇に巻きつかれているように錯覚させる粘っこい桃井の声にオレは寒気がしてブルッと震えた。
「解ってるよ」
『じゃあ、くくっ、返事を聞かせて貰おうかな?』
桃井の低い無気味な笑い声が絶えず聞こえてくる。
「お前の条件を呑むよ」
『くくっ、そう、それは嬉しいね。たっぷりと楽しませてあげるよ。君の悶える声を聞くのが今から楽しみだよ』
もうこれ以上、こんな男の声を聞いているのは耐えられそうになかった。電話越しなのに自分が犯されているようで、薄気味悪いのだ。逃げても逃げてもあの気味の悪い笑い声がオレの後をついて来ているように感じられた。
「オレは、どうすればいいんだ?」
『つばさちゃん。俺はね、もう我慢出来ないんだよ。すぐにでも君のアパートに行って、君を思う存分泣かせたいんだけどね。君には、今夜催される糞詰まらないパーティーに俺と一緒に出て貰おうと思う。お楽しみはその後にたっぷりとね。今夜は寝かさないから、覚悟しておくんだね』
「きょ、今日っ?」
そんなにすぐに会うことになるとは思っていなかった。
一は……大丈夫だろうか。こんな急に日程が決まって、オレを助けに来てくれるんだろうか。
一の助けがなければオレは、桃井に……。
『あれぇ、つばさちゃん。怖気づいちゃったのかな?』
桃井の人を小馬鹿にしたような物言いにオレは心底腹が立った。
「んなわけあるかっ! 望むところだ。今夜、お前に抱かれてやるよっ」
啖呵をきってしまった。こんな売り言葉に買い言葉みたいにオレは今日応じることを了承してしまった。今更後悔しても遅い。
『嬉しいねぇ。威勢のいい子が俺は大好きなんだ。それじゃ、夕方5時にアパートまで迎えに行くよ。ああ、パーティー用のドレスはこちらで用意するから心配しなくていい。じゃあ、また後で』
オレが返事をする前に通話は既に切れていた。しばし、途切れてしまった携帯の画面を眺めていた。
だが、すぐに一に事の次第をメールで知らせた。
心が動揺していた。きちんと一が理解出来るメールが送れたかどうかも怪しい。オレはその場にうつ伏せに倒れ込んだ。
オレは覚悟を決めるべきなんだ。
一を信じてる。だが、最悪のシナリオを覚悟するべきなんだ。大丈夫だ。どんなことになってもオレは大丈夫だ……。
そんな風にオレは自らに何度も何度も言い聞かせた。
夕方になり、桃井の車がアパートの前に止まった。オレはアパートの下に向かう。階段を降り、桃井の車を確認すると、オレは生唾をごきゅっと飲んだ。
本当のところまだ覚悟なんて出来ていない。だが、度胸だけはあるつもりでいる。恐れてはいない。と言ったら嘘になるだろうけど、それを桃井に悟られるのだけは避けたい。気丈に振る舞えるといいんだが。
「つばさちゃん。今日も可愛いね。さあ、乗って」
こんな男の言いなりになるなんて反吐が出るほどイヤだったが、その気持を押し隠して微かに微笑んで見せ、車内に乗り込んだ。
「今日はパーティーに出るんだからね、君を美しく変身させるよ。君が男には見えないようにね。ああ、今から楽しみだよ。皆が君を振り返るんだ。嫉妬と羨望の眼差し。くくくっ」
「オレはそんな人が振り返るような容姿はしていない」
「全く君ってやつは、自分のことをこれっぽちも理解していないようだね。君は美しいんだよ。この目も鼻も唇も皆を惹き付ける。オレもその一人なんだよ。あんな条件を突きつけて申し訳ないと思っているんだよ。だが、どんな姑息な手を使ってでも君を手に入れたかった。そう思わせた君にも罪はあると思うんだ」
オレの髪に触れ、オレの耳元でそう囁いた。喋るごとに耳に息がかかり、その都度オレは体を強張らせる。その反応を楽しむようにわざとオレに息を吹きかけ、意地悪く笑っている。オレは真っ直ぐ前を見て、その一種拷問のような仕打ちを息を潜めて懸命に堪えていた。まるで犬が餌を目の前にしてお預けをくらわされて耐え忍んでいるように、オレは桃井を殴り倒したいのを耐え続けていた。
やがて車が止まり、降りるように促される。桃井に促されるままに入ったのは美容院だった。
「いらっしゃいませ、桃井様。今日は可愛らしい方をお連れですね?」
わざとらしいほどの営業スマイルに桃井は満足そうな顔をしていた。
「今日はこの子をとびきり美人にしてあげてくれ」
桃井が営業スマイルの店長らしき人にそう言うと、その女店長はヘアスタイリストを一人こちらに呼び付けた。若いすらりと奇麗な女性のスタイリストがオレの前に立ち、軽く頭を下げた。
「では、こちらへどうぞ」
そのスタイリストに従いオレは店の奥へと入って行く。
きっとここは芸能人御用達とか言われるようなスタイリストを揃える有名美容院なんだろうと思う。お洒落な店内にお洒落なスタイリスト、おまけに客まで皆お洒落に見えた。
オレだけが場違いなような気がして何とも居づらかった。
スタイリストにされるがままにオレは髪をいじられ、化粧まで施された。
化粧をしたのは、自慢じゃないがこれが初めてだった。仕上がった自分を鏡で見て、他人が写っているようで不思議な気がした。
一応、オレも化粧を施せばそれなりに女に見えるんだなってのが感想。それ以外の感想って言えば、早く化粧を落としたい。化粧臭いし、皮膚が呼吸で来ていないようで苦しいような感じ。
オレ、別に奇麗じゃなくてもいいのに。周りの人間が化けたオレを褒めれば褒めるほどに、オレはそれを洗い流したくて仕方がなくなる。
一際上機嫌の桃井を見ているとさらに胸やけのような気分になった。