第22話 8月-3
「じゃあ、あの男捜して殴り込む」
「駄目だっ! 絶対に駄目だっ!!!」
オレはガバッと起き上がると一の胸倉を掴んでそう叫んだ。
「つばさ、泣いてたの?」
違う、今はそんなことを言ってるんじゃない。一の身を危険に晒させることは絶対したくない、して欲しくない……。
そう思ってるのに、一はオレの気持ちなんて無視だ。
「やっと顔を見せてくれた。何があった?」
オレは一の瞳から視線を逸らし、首を激しく振った。一の胸倉を掴んでいた手が力無く落ちた。
気付けばオレは一に強く抱き締められていた。
「つばさは俺が守る。絶対に守る。だから……」
一の本気がオレに触れている全ての箇所から感じられる。一は本当にオレを守ってくれるかもしれない、だが、その為に一にどんなことが降りかかるか解らないのだ。恐らく、夏希がするのよりももっと恐ろしい制裁が下されることになる。桃井のあの目はそう物語っていた。
「言えない。一を巻き込めない」
オレは一の本気をオレの本気で拒否した。それが、一の為だと思ったから。
「つばさが俺に話してくれるまで、俺はこの腕を放さない。覚悟しな」
「トイレとか行きたくなったら?」
「勿論、ついて行くさ。夏休みだからね、ずっとくっ付いていられるね、つばさ」
挑戦的な微笑みをオレに向けた。一は一度やると言ったら最後までやり遂げる男だ。この真夏の暑さの中でも、オレが降参するまで意地でも続けるつもりだろう。
それでも、オレだってそんな簡単に負けるつもりもない。望むところだ。
「受けて立つ」
オレは自信満々に言い放った。
それからどのくらいの時間がたっただろうか。
ただ、じっとしているだけで、時計を見ることさえしていなかった。
不本意ながら、昼に嫌なことがあったオレにとって一の腕の中は、気持ちを慰めるのに最適な場所だった。居心地が良くて安心した。ほんの僅かな時間でも昼間の出来事を忘れることが出来た。ただ、止め処なく汗が滴り落ちるほどに暑かった。
オレが帰って来たのが確か2時くらいで、このバトル(?)が始まったのが2時半くらいと考えると、一番熱い時間帯にずっとこうしてくっ付いているのだから仕方ないと言っちゃ仕方ない。
「一、喉渇いた。飲み物飲もう。それから、居間に行こう。ここは暑すぎる」
オレの部屋にも一の部屋にもエアコンがない。居間にしかないのだ。しかも帰ってすぐに窓も開けずにベッドに突っ伏してしまったのだ。勿論、扇風機もつけずに。だから、この部屋は今、サウナ状態と化しているのだ。
「いいねぇ、同感だ」
オレも一も汗でぐっしょりだった。それでも一は手を放そうとしなかった。
台所に行き、冷蔵庫を開けて、500mlのミネラルウォーターを取り出し、一の口元に差し出し、ボトルを斜めにした。一の喉がごくごくと激しく上下する。
っていうか、何でオレご丁寧に一に水飲ましてやってんだよっ。一は手を放さないって言ってるんだから、水が飲みたきゃ放しなってくらい言えば良かったんだ。
これでも初めの頃は、このがっしりと背中に回された一の腕を、なんとか放そうとじたばたしてもみたのだが、びくともしないどころか、自分の体力を消耗するだけだった。オレはすぐに無謀なことは諦めることとなる。
一が水を飲んだ後、オレも自分の喉を潤した。それから、居間に移動し、エアコンのスイッチを入れた。
ああっ、涼しい……。
「なあ、そろそろ放せば?」
やっと涼んで、落ち着いたところでオレは一にそう言った。
「何故? つばさが話す気になったんなら解放してもいいけど?」
「話さない……」
そっぽを向いてそう言い捨てると、間近で一が、強情だなぁ、とくつくつ笑った。
気付けば夕方になっていた。それまで、オレ達はお互いの体温を合わせたままぽつりぽつりとお喋りをしていた。
「……一。トイレ、行きたい。放せっ」
「放してもいいけど、つばさの話し聞かせて貰うよ」
「……駄目だ」
「じゃあ、放さない」
一はオレの背中に回している腕の力をひと際強めた。
「お前、本当にトイレまでついてくるつもりかよ?」
「勿論、そのつもりだけど?」
この憎たらしい顔を殴り飛ばしてやりたくなった。
オレの尿意は限界まで来ていた。恐らく一はこうなることを待っていたに違いない。一にトイレを覗かれるのはどうしても耐えられない。女子たる恥じらいというものを、持ち合わせているのだ。
見られるのは、絶対にヤダ。
取り敢えず、トイレの前までは来ていた。
一を睨みつけると、一はニヤニヤと笑って、オレを腹立たしい気持ちにさせていた。意図的に。
「放せ……。放せよっ」
オレはとうとう我慢出来なくなった。
「話してくれるんだよね?」
「煩いっ、ボケっ! 解ったからとにかく今すぐ放せ」
漸く一から解放されるとオレはトイレに駆け込んだ。
解放された気分でトイレのドアを開けると、そこにはにやりとニヒルな笑顔をした一が立っていた。
「さあ、洗いざらい吐いて貰おうか、つばさ」
もうこうなったら話すほかない。
居間のテーブルを挟んで向かい合って座ると、オレは口火を切った。
7月の夏希のパーティーのこと。それが実質的な夏希のお見合いだったこと。その男と政略結婚させられそうだということ。彼氏のふりをして欲しいと頼まれたこと。今日、その夏希の見合い相手とランチを共にしたこと。オレが女だと見破られていたこと。そして……。
「桃井は、夏希との婚約を解消すること、それから夏希の親父さんの会社との業務提携及び資金援助をするかわりにオレの……」
「つばさの……?」
オレは下を向き、一の視線から逃れると、次の言葉を早口に捲くし立てた。
「あいつは言ったんだ。オレの処女を貰うと……」
オレの声はどんどん小さく、頼りないものになり、やがてかき消えた。その余韻を拭い去るように一がテーブルをばんっと勢い良く叩きつけた。
「今……、何て言った?」
「だからっ、オレの処女……」
「絶対駄目だっ! あの野郎っ、信じらんねぇ。あの糞野郎っ!!!」
凄い勢いでがなり立てた後、苦虫を噛み潰すように渋い顔をした。一の拳が強く握られ、わなわなと小刻みに震えているのをオレは見ていた。
「一、落ち着けよ。なっ?」
オレは一の肩に手を置き、再度腰を下ろすように促した。
こんな時に不謹慎かもしれない。だけど、一がオレのことでこんなに真剣に怒ってくれた事が何よりも嬉しかった。
無意識に頬が緩んだ。一がそんなオレを見て、訝しげな表情を浮かべた。
「ごめん。こんな時に笑っていられないんだけど、嬉しかった。一がオレの為にそんな風に怒ってくれてさ」
「当たり前だっ」
オレは一が少し恥ずかしげにしているのが可笑しくて、また少し笑った。
「桃井の条件を呑むって決めたんだ。だけど、覚悟ってもんがさ、中々つかなくて」
ははっと自嘲気味に笑った。
ぱっと一が立ち上がりオレの背後に回ると後ろから一の腕が伸びてきて、ぎゅぅっと抱き締められた。
オレの肩に一は顎を乗せた。
「当たり前だ。つばさは女の子なんだ。つばさが本当に好きになった人との為にそういうのは取っておくべきなんだ。間違っても初めての相手は桃井みたいな野郎じゃない」
「けど、そうしたら夏希が……」
「解ってる。オレがつばさを絶対に助ける。つばさは、桃井の条件を呑んだふりをしていて欲しい。つばさ、オレを信じてくれないか?」
一の力の籠った声がオレの耳元で響く。
不思議とたったそれだけのことで、全てが大丈夫なのだと、一を信じていれば大丈夫なのだと思えた。不安が完全に消えたわけじゃない。それでも、何時間か前のオレの重荷は明らかに軽くなっていた。オレのずっしりと重い荷物を一が半分、いやもっとかもしれない、背負ってくれたのだ。
「信じる。一を信じるよ」
小さいけれどしっかりとした声でオレはそう伝えた。見えなかったけれど、一がふわりと笑ったのが解った。
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