表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/54

第17話 6月-4

 心の中で一の名を何度も何度も呼び続けた。一の名前を呼ぶことしかオレの頭の中には浮かんでこなかった。こんな状況になった時、とっさに一だけをオレは呼んだのだ。緑川の鼻息を微かに感じるほどに間近に感じ、もう駄目だと思った。

 しかし、いつまでたっても緑川の唇が触れることはなかった。

 恐る恐る目をこじ開けると、緑川の肩を掴んで睨みつけている一が視界に入って来た。

「一? 何で……?」

 ……お前がここに?

 アパートにいる筈の一が何でこんな所に……。

「ごめんね。つばさちゃん。一がコソコソついて来てるからちょっと意地悪しちゃった。ああすれば一が出てくると思ったから」

 オレは膝の上に置かれた自らの手を眺めていた。それは小さく震えていた。オレはそれを力一杯握ると、緑川を殴った。

「ざけんなっ、ボケっ!!!」

 ガツッという鈍い音と若干拳への衝撃を受けて、緑川が倒れた。

 オレはそれを無視してかつかつと早足でその場を後にした。

 一がオレの後について来ていた。たったあんなことで、本当にキスされたわけでもないのに、オレはただ怖くて、早足で歩きながら涙を必死で堪えていた。涙なんか出したくない。たかが、おふざけでキスをする真似をしただけのことなのに。

 一にキスされて怖いなんて、一度も感じたことなかった。一番初めにキスされた時だって腹が立ちこそすれ、怖いなんて感じたことがなかった。

 オレは、アパートに着くと自室に籠った。

「つばさ?」

 一がこんこんとノックをし、気遣わしげな優しい声でオレの名を呼んだ。

 オレはゆっくりとドアを開けた。一の顔を見た途端に堪えていた涙が、まるでダムが決壊したかのように激しく溢れ出て来た。あ〜んあ〜んと、小さな子供が泣くみたいに大きな声を上げて泣いた。オレは一の胸にしがみ付き、泣きじゃくった。一はオレの背中を優しく摩り、オレが泣きやむまで、何も言わずにただひたすらに待っていてくれた。

 一体どれくらい泣いていたんだろうか。数年分の涙を一時に出しきってしまったほどの大量の涙が零れ出た。気付けば一のTシャツが涙でぐっしょりと濡れていた。

「ごめん、Tシャツ濡れた」

 鼻が詰まって、変な声になっていた。一を見るとなんだか知らないが、嬉しそうに頬が綻んでいた。

「何で笑ってんだよっ。馬鹿だって思ってんだろ?」

「違うよ。つばさが俺の前で泣いてくれて嬉しかった。つばさ、人前で泣かないだろ? 多分、涙を人に見せたら駄目だって思ってるんじゃないかなって思ってたんだ。だから、嬉しいよ。俺の前で、素直に泣いてくれて嬉しい」

 確かに一が言うように他人の前で滅多に泣かない。いや、泣かなかった。そう、親父に教え込まれていたから。子供だったオレは素直にそれに従っていた。だから人前で涙を流すことはなかった。悔しくてもじっと堪えて、人知れずこっそりと泣いていた。もう何年も誰かの前で泣いた事なんてなかった。前に人前で泣いたのは、うんとうんと小さい頃のことだ。

 一を見たら涙が勝手に出て来てしまった。止める術がなかった。

「泣いていいんだよ、つばさ。俺の前では泣いてもいいんだ」

 その言葉に再び涙が溢れて来た。さっきあれだけ泣いたのに、止め処ない涙にオレは驚かされた。涙に終わりはないんだろうかと。

 一の言葉は安心する。一といると安心する。一の前では、自分を飾らなくてもいいんだと、そう思えた。

「ありがとな」

 恥かしくてオレは一の胸に顔を埋め、表情を隠してそう言った。きっと、照れで変な顔になっているだろうから。

 ぽんぽんとオレの頭を優しく叩く一の大きな手を感じ、兄貴がいたのならきっとこんな感じなのかな、と考えていた。


 後日、緑川が謝りに来た。

「つばさちゃん、本当にごめんね。一がずっと俺達の後をつけてたから意地悪してやりたかったんだ。前もってそう言っておけば良かったんだよね。本当にごめん」

 緑川が頭を下げてそう言った。

「オレの方こそごめん。殴って悪かったよ」

 オレ達は握手をして和解した。

 あの大泣きした日、泣き終えて冷静になった時、緑川にすまないことをしたと、すぐに後悔していた。緑川とて、ほんの少し冗談が過ぎただけなんだ。咄嗟に殴ってしまったのは、オレが恥かしかったからだ。悪戯に本気で怯え、たかがキスごときでこんなに動揺してしまっている自分を恥ずかしく思った。一種八つ当たりのようなものだった。

 悪戯にオレを巻き込んだことはあまり褒められた事じゃないが、あいつは案外一想いのいい奴なんだ。殴るべきではなかったのだ。

「俺はお前を許さねえぞっ。つばさに手を出そうとするなんざ百年早いわっ」

 オレの気持ちはもう治まっていたが、一の怒りはまだまだふつふつと燃えているようだった。

「つばさちゃんは、許してくれたんだぞ。お前には関係ないだろ?」

 緑川は一が相手だとちっとも素直になれないのか、本当はすまないと思っているのに違いないのに、口では裏腹なことを言っている。

「俺はつばさの親友なんだ。つばさを傷つける奴はどんな奴でも許さない。例え、それがお前でもなっ。お前のような奴につばさは勿体無さすぎる。今すぐ諦めろっ」

 あっ、そう言えば、緑川がオレと付き合ってくれって話なしにしてくれって言われた事一は知らないんだった。自分のことが精一杯ですっかりと言い忘れていた。

「俺とつばさちゃんは、お友達になったんだよ。恋人になるのは、もうとっくに諦めたんだ。俺だってお友達なんだから、別に俺がつばさちゃんの傍にいても何の問題もないよな、一?」

 オレはいつの間に緑川と友達になったんだろうか? でも、まあ、悪い奴じゃないから、それでもいいのかな。一々友達じゃないなんて否定したら緑川も気の毒だしな。

「おお、そうか。緑川、つばさにふられたのかぁ。まあ、元気出せよ」

 そう言って、一は緑川の肩を抱き、物凄く嬉しそうにしていた。その科白に緑川はかちんときたのか、肩を抱いている一の腕を鬱陶しそうに振り払う。

 そこから二人は揉み合いになって喧嘩が始まった。一の学校での顔は、今は露ほども感じられない。クールで秀才、同級生、下級生に絶大なる憧れを抱かれている生徒会長は、一歩学校を出、家に入れば、犬コロと化し、幼馴染の前では、途端にガキとなる。こんな姿を果して学校の人間は、想像できるだろうか。本気で一に憧れている人たちを本気で哀れに思った。

 それにしてもこの二人……、仲が良いんだか悪いんだか。でも、揉み合って喧嘩している姿は、案外楽しそうだった。

 だから、オレはこの喧嘩を止めようとはしなかった。

 オレは、いつまでも続く二人の喧嘩を見ているのも飽きたので、被害に巻き込まれないように少し離れた所で静かに本を広げた。


次話から7月に入ります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ