第16話 6月-3
「なりたいんだ。カメラマンに」
意外。何も考えていないような顔をしているのにしっかりとした夢を持っていたんだ。
「この本の写真を撮った人の元で高校卒業したら働かせて貰うことになってるんだ」
しかも、もう既に就職先まで決めていたなんて。
「といっても実は、遠い親戚だったりするんだけどね。いわゆるコネってやつだな。でも、チャンスを手に入れたからには、どんな事をしても夢を叶えてやるさ」
そう語る緑川の横顔は自信と希望に満ちていた。
「ははっ、語っちゃった、恥ずかしっ」
こんなにチャラチャラしていそうな男なのにしっかりと夢に向かって進んでいるんだ。オレはまだ専門学校に進もうと漠然と考えているだけ。しかも、専門学校って言っても何のジャンルに進むかさえも決まっていないのだ。そんな状況も手伝ってか、緑川のことを案外骨のある奴なんだと見直した。
「いや、いいんじゃねえの。夢があってさ」
オレがそう言うと、緑川は心底嬉しそうに微笑んだ。
こいつの本質はこんな感じなのかもしれないな。いつもは、一に絡んで意地悪そうに笑っているようだが、こいつの本質は子供のように無邪気に笑う今みたいなのがそうなんじゃないだろうか。こいつはきっといい奴なんだろうな。誤解されやすそうだけど……。
オレは緑川を見て、くすりと笑った。
「いつもそんな風に笑えばいいんだ。馬鹿な奴だな」
くつくつと控えめに笑いながらオレはそう言った。緑川は目を大きく開いてオレを見たが、すぐに破顔し笑顔へと変化した。
「やばい……。マジで惚れそう……」
ぼそりと緑川が呟いた。ん? とオレが聞き返すと、何でもない、と笑った。オレは、緑川がなんと言ったのかよく聞こえていなかった。もう一度聞こうとしたのだが、どうやらオレ達は煩かったようで、近くの席に座る大学生くらいの男に睨みつけられ口を噤んだ。
オレは気を取り直して自分の持って来た本に視線を落とした。そんなオレを見て、緑川も手元にある写真集に目を落とし、ページを捲った。
暫く言葉を交わす事もなくそれぞれの本に集中した。それから、二人とも空腹を感じて図書館を出た。
図書館を出ると、太陽の眩しい光に軽い眩暈を感じた。朝は曇っていたが、いつの間にか雲は晴れ、太陽の日差しが差し込んでいた。梅雨入り宣言がなされた日からずっと雨続きで、久しぶりの太陽だった。
「つばさちゃん。久しぶりに晴れてるから、何か買って公園で食べない?」
「ああ、いいよ」
オレもそれには賛成だった。久しぶりの青空も覗いていて嬉しい。
近くのパン屋でサンドイッチを買って、図書館の目の前にある公園のベンチでそれを食べ始めた。緑川はオレを退屈させないように食べている間も色んな話を聞かせてくれる。それはオレが知りようもない男子校の裏話だったり――― 一はあまり学校の話をしてはくれないのだ―――、幼い頃の一の恥かしい話だったりした。
「小さい時は一、女の子嫌いじゃなかったんだな?」
それは一が小さい時は女の子のスカートを捲っていたって話を聞いた時のオレの一言だった。
「うん、そうだよ」
今まであんなに饒舌だった緑川が突然歯切れが悪くなった。
「緑川は一が女嫌いになった原因を知ってるんだな?」
緑川は何も答えず、苦笑いを浮かべていた。それは、知っているといっているのと同じことだ。
「大丈夫だよ。何も聞かない。そういうのは、一が話したくなったら話すだろ」
「あいつんち実の母親死んでんだ。今は親父さん再婚して義理の母親がいる」
突然緑川が話したことにオレは驚いていた。オレは一のことを全く知らない。それを今まざまざと突き付けられた気がした。一は自分の家族のことを何一つ話さない。オレが知っているのは、一の親父がオレの親父と友人だって事だけだ。それだって、親父に聞いた事だし、一は何も語らない。
緑川は何故、突然このようなことを話し始めたのか? 一の家族内でなんかしらの事件があって、女嫌いになったのか?
「何でオレにそれを……?」
「一にとってつばさちゃんは、特別みたいなんだ。救ってやって欲しい、あいつを。俺じゃ、どうにもならないんだ」
オレの問いには触れずに、緑川はオレを嬉しそうに、そして少し寂しそうに笑いながらそう言った。本当なら自分が一を救ってやりたかった。その寂しさの中にそんな想いが入っていたように思う。
「オレに何が出来るんだ?」
一のことを何も知らないオレに……。一を救えるなら救ってやりたい。
そう思うほどにオレは一を好きになっていた。それは恋愛感情なんてもんじゃなくて、友情若しくは家族としての想いのようなものに近いようだった。そうオレの中では認識していた。
「きっと今は傍にいるだけでいいんじゃないかな。そのうち、一の方から救いを求めてくるかもしれない。その時はきっと他の誰よりつばさちゃんの力が必要なんだって思う」
「そっか、解った」
そう言った後、オレはぶふっと吹き出してしまった。緑川が何事だと、訝しげにオレを見ている。
「ごめん。でも、緑川って本当に一が好きなんだなって思って。ははっ」
「いや、そんなんじゃない」
一を好きだと認めるのが悔しいのか緑川は憮然としていた。
「一のことすぐく大事なんだろ?」
オレはくくっと笑いながらなおも続けた。
「そりゃ、幼馴染だからね。全力で否定したいところだけど、結局その通りなんだと思うよ。俺にとっては一は兄弟みたいなもんだったし。その一に大事なものが出来て正直嫉妬した」
「……?」
「自覚ないんだ? つばさちゃんのことだよ」
緑川が苦笑交じりにそう言った。
オレが一の大事なもの? 本当にそうだろうか? 確かにオレのことを特別だとは言っていたけど。大事ってのとはちょっと違うんじゃないのか?
「だから、オレのこと好きって嘘吐いたのか?」
緑川は天の邪鬼だから、一の大事なもの(?)であるオレにちょっかいを出して一の嫌がる顔を見たかったのかな。と、思った。
「いや、嘘ではなかったんだけどね」
緑川の声があまりに小さかったのでなんと言ったのか聞き取れなかった。え? と聞き返したが、緑川は薄く微笑むばかりだった。
「一が羨ましいよ」
え? 再びオレは問い返した。今度のは聞こえていたが、何で羨ましいと言っているのか解らなかったからだ。
緑川は微笑んだ。その問いに答えるつもりは毛頭ないようだった。
「だから、少しくらい意地悪してもいいよね」
緑川の脈絡が全く解らぬまま、オレは緑川の次の行動に驚き言葉を失った。
緑川の顔がオレの目の前に迫り、瞳が怪しく光っていた。
―――怖いっ。
「い……ち……」
ただそれだけ、自分のか細い声だけが小さく口をつき、すぐに消えた。オレは咄嗟にここにいる筈のない、声の届く筈のない人の名を呼んだ。助けてとすら言えない、嫌だとすら言えない。そんな情けない自分を恨めしく思った。
いよいよ緑川の唇が触れようと間近に迫り、オレは目をきつく閉じ、唇を噛み締めた。
一……。
心の中で一の名を何度も何度も呼び続けた。一の名前を呼ぶことしかオレの頭の中には浮かんでこなかった。こんな状況になった時、とっさに一だけをオレは呼んだのだ。緑川の鼻息を微かに感じるほどに間近に感じ、もう駄目だと思った。