第15話 6月-2
向い側に座る一は仏頂面で、黙々とご飯をかき込んでいる。
「なあ、一度だけ図書館に行くだけだろ? 図書館なんだからそんなに話す事もないだろうし、本読んでりゃいいだけなんだしさ」
一がギロリと目だけを上げてオレを睨みつける。
「緑川にずっと付き纏われるよりマシだろ?」
オレが何を言ってもご機嫌を直してくれず、一はそっぽを向いて脹れている。子供じみたその仕草にオレは苦笑を洩らす。
夕飯を終えた後も一向に機嫌の直らない一。オレが話し掛けても、恐らくは全く見てもいないテレビに夢中になっているふりをする。オレは、一とテレビの間に立ちはだかり、一の方を向いて座った。それでも一は頑固にオレと目を合わせようとしない。
カチンときたオレはズイっと一の目の前に座り、両手で頬を掴み強引にオレの方に向けさせた。
「やっとこっち向いた」
オレがぼそりと呟くと、一は何が何でもオレの目を見ないつもりらしく目を閉じた。
ムッとしたオレは一の唇に自分のそれを押しつけた。一がびっくりして目を開けた。
「一、どうしたら機嫌直る?」
こんな状態が続くのはオレには耐えられなかった。一がオレと目も合わせようとしてくれないなんて、嫌だ。何も答えてくれない一にオレはしゅんとなった。不覚にも涙が零れそうになる。子供みたいに大きな声で泣けたらどんなにか楽だろう。
今日はきっと一に何を言っても無駄だろうと諦めかけた時、ふわりと温かい毛布のようなものに包まれた。
でも、オレにはそれが毛布でないことを知っている。それが、一の腕の温もりであると知っている。
「一?」
「黙って」
一に制されて慌てて口を噤む。
「つばさは、緑川が好き?」
オレは首を横に振った。
好きでも嫌いでもない。どうでもいいと言ってしまったら、緑川には悪いと思うが、これがオレの今の本当の気持だった。
一がふっと抱き締めていた手を緩めたので、オレは一を見上げた。
あっ、笑った……。
一が大きく笑った顔は小さな子供みたいになる。その笑顔をオレは気に入っている。今、目の前にある笑顔がまさにそれだった。その笑顔をつられてオレの口元も綻びる。
「もう怒ってないのか?」
「怒ってるよ。だけど、つばさの悲しい顔をみたいわけじゃないから。それに、つばさからキスしてくれたの初めてで嬉しかった……」
一はふっと笑うと、オレの頬にキスをした。そこは緑川がキスをした場所だった。
「消毒完了!!! つばさ、緑川に何かされそうになったらすぐに俺を呼ぶんだぞ。俺が絶対に助けに行くっ」
「自分のことは自分で守るから大丈夫だよ。オレが結構強いの知ってるだろう?」
そう言って一の腕から逃れようとした。一に腕を引っ張られて体制がぐらっとした。
もう一と暮らし始めて2か月以上たつんだ、一が何を考えているのかくらい解っている。オレは空いている方の手で、一の顔を正面からべチンと勢い良く叩いた。
そう簡単にキスされてたまるかっての。
「キスはさっきしただろ?」
「え〜、いいじゃん。減るもんじゃないんだしっ」
「減る。絶対に減るっつうんだ、このボケっ!!!」
オレは一の肩に拳を突きつけた。勿論、一はそんなのひょいと軽く交わしてしまう。いつまでも一にはオレの攻撃の効果がなくて歯痒い。
「当たんないよぉ」
ムカっとしてもう一発。それも簡単に手の平で捕まえられてしまう。そのまま、引っ張られて一の胸に納まってしまった。
「つばさは俺に勝てないんだよ、諦めな」
まるで子供をあやすみたいな優しい声で言われて、逆に腹が立つ。
「うるさいっ」
強さではどうしても勝てないオレは、悔しくて一の両脇を擽りにかかった。一は、うひゃひゃひゃひゃひゃと床に寝転がりながら暴れた。一の弱点なのだ。
ふんっ、ざまあみろっ。
ほんの少しだけすっとした。
そして、問題のデート当日。
その週の日曜日にデートする運びとなった。
10時に緑川が迎えに来た。
たまの日曜日、もう少しゆっくりと寝ていたかったと思ってしまうのは、オレだけだろうか。午後からでもいいんじゃね? という言葉が喉元まで出かかった。
一は、オレのことを心配して朝から起きていて、あれこれオレの横で言っていた。緑川が来たら今度はそちらに何かしら言っているようだ。大体の想像はつく。変なことをしたら許さないぞ、みたいなことに違いないだろう。
緑川と一緒にアパートを出た。一は渋々と言った感じでオレ達を送り出してくれた。
最近の一はうちの親父に似てきた気がする。中学に入ってオレを女だと認めた後の親父もこんな感じだった。家に友達の男子(勿論他に女子もいた)を呼ぶと、必要以上に威嚇していた。友達だと何度言っても解らないようだった。まあ、娘を持つ親のほんのささやかなやきもちみたいなもんだろうと思うけど。じゃあ、一はなんであんななんだろう?
変な奴……。
オレは一を思い出して、苦笑した。
「つばさちゃん? どうかした?」
「いや、あいつ最近オレの親父に似て来ちゃったなと思ってさ」
それにしても不思議なのは、親父にうるさく言われると無性に腹が立つけど、一に言われても仕方ないなで済ませられてしまう。これってなんでだろうな。
「つばさちゃんは一が好きなんだね?」
「え? ああ、まあそうだな。口煩くて、すぐくっつきたがるけどな。何て言うか憎めないよな」
「えっ? 一がつばさちゃんにくっつきたがるの?」
緑川が驚いて普段よりも若干上擦った声でそう言うと、オレの顔を凝視した。
「ああ、くっつきたがるっていうか、暇さえあればくっついてくるるから正直ウザいな」
緑川のあまりの驚きの表情に一瞬怯んだ。
緑川は、驚きから解放されると、今度は腕を組んで難しい顔をして何かを考え始めた。
オレが声をかけると、やっと我に返ったのかオレに笑顔を向けた。
「つばさちゃん。この間言った事なしにしてくれるかな?」
オレが、えっ? と問い返すと緑川は笑顔のままこう続けた。
「俺がつばさちゃんに付き合ってって言った事、あれなかった事にしてくれる?」
オレは、緑川が何で突然そんな事を言い出すのかは解らなかったが、そうしてくれるならこっちに取っては願ったりかなったりなのだ。
「ああ、解った」
「でも、せっかくだからデートしましょうか。つばさちゃん」
どうせ最初から図書館には行く予定でいたのだから、こちらとしては何の問題もなかった。緑川の問題が無くなった分、何も気に病む必要もなくなったので、気分的にも爽やかな感じだ。
すぐに、図書館が見えて来た。図書館に足を踏み入れると、返却カウンターに先週借りた本を2冊置いた。すっかり顔馴染みとなった司書さんと軽く言葉を交わし、カウンターを離れた。緑川と一旦別れて、それぞれ見たい所に行き、その後、テーブルの所で集合しようということになった。
オレは小説の棚に向かうと、いつもの通りあ行から見て回った。気になる本を棚から取り出してパラパラ捲っては、それを棚に戻すを繰り返し、借りる本を絞り込んで行く。3冊ほど選ぶと、テーブルへと向かった。テーブルにはそこそこ人が座っていた。ぐるりと見回し緑川を探すと、窓際の席に本を広げていた。その隣に緑川のバッグが置いてあり、どうやらオレの席も確保しておいてくれたみたいだ。
「ありがとな」
オレは緑川に小声で呟いた。オレが来た事に気付いた緑川は、いいえ、と微笑みバッグを退けた。
緑川は写真集を広げていた。それは、春夏秋冬を移した美しい風景のようだった。その写真毎に何処かしらに猫が潜んでいた。時には前面に、時にはほんの小さな姿で。その写真集にオレも興味を持った。
「写真、好きなのか?」
オレは小声で緑川に話しかけた。緑川はオレを見て、照れ臭そうな笑顔を見せた。
ああ、こいつこんな顔で笑ったりするんだな。ちょっと意外だった。
「なりたいんだ。カメラマンに」