第14話 6月-1
6月は梅雨の季節。
じめじめと湿気が多く気が滅入ると皆は言うけど、オレは嫌いじゃない。しとしとと降り落ちる雨を見ているのが好きだ。
「なあ、何でそんなに怒ってるんだよ?」
オレはさっきから黙りこくっている一の背中に少し困惑しながらそう尋ねた。別に、と一は憮然とした様子で呟いた。
ほら、やっぱり怒ってんじゃないかよ。
一がこんな状態になってしまった訳を語るには、今から2時間ほど前に遡る必要がある。
テレビの天気予報で平年よりほんの少しだけ遅く梅雨入り宣言がなされた今日。
学校から帰ると一の姿はまだなかった。一は学校が終わると真っ先に家に帰って来るので、オレを出迎えるのが日常だった。
一がいない間にちゃっちゃと宿題を片付けてしまおうと、居間で数学の教科書とノートを広げた。
静かだな……。
その静かさが逆に非日常的に感じ、宿題が思うように進まない。
オレが宿題をしていると、一の邪魔が入るのが常で、オレはそれを追っ払いながら進めなければならないので、10分くらいで終わるであろうものが1時間を要してしまうのは珍しくもない。
一にいつもの行動を取って貰わないと、こっちは妙に心配になってしまう。朝、今日は放課後用があるとは何も言っていなかった。
生徒会の仕事が急に入ってしまったとか? そういやあいつっていつも真っ先に帰ってくるけど、ちゃんと生徒会の仕事やってんのかな? それとも、事故にあってしまったとか?
考えだしたらきりがなくなって来た。悶々として頭を抱えていた時、突然ドアがバンっと乱暴に開き、一が勢い良く入って来たかと思ったら、すぐさまドアをこれまた乱暴に閉めた。
一の異様な光景に驚き、宿題どころではなくなってしまった。
「一? どうしたんだよ」
オレがそう問い掛けると、一がし〜っと人差し指を唇の前で立てた。
「い〜ち〜! この部屋だって事はもう解ってんだよぉ。大人しく俺を中に入れたらどうだ?」
どんどんとドアが叩かれ、ドアの向こうから男の声が聞こえて来た。
この声って……緑川?
「近所迷惑だぞ、緑川。さっさと家に帰れ」
切り離すような一の冷たい声。
「入れてくれなきゃもっと大声出すけど、いいのかな?」
「お前、それは俺に対しての脅迫か?」
一と緑川がドア越しで言い争うのを見て、オレは苦笑した。
「一。オレに気を使わなくていいぞ。入れてやったら?」
オレがそう言うと、一はぷぅっと頬を膨らませた。
高校生の男子がそんな顔をするとは……、だが、その顔が可愛かったのでついつい笑ってしまう。
一はドアにくっつき、緑川に小声で何か言った。ここからではさっぱり聞こえなかったが、緑川も何か言ったらしく、それに納得したのか、一は渋々ドアを開けた。
緑川は入って来ると、オレに飛び付いて来た。
「うぎゃっ」
緑川に勢い良く抱きつかれて、オレは素っ頓狂な声を上げた。そんな事にはお構いなしで、緑川は、オレの頬にキスをした。驚いて呆然とするオレを、一が間に入って助け出してくれた。
「緑川、てめえ。つばさに指一本触れてみろ。ただじゃおかねえぞ!!!」
一がこんなに声を荒げているのを見るのは初めてかもしれない。以前、オレが男子校に潜入して怒られた時も、相当怒っているようだったが、声はいたって冷静だった。それに、普段はオレよりも丁寧に話す一が、乱暴な言葉を使っているのを見るのも初めてだった。
オレは、一に緑川から引き剥がされ、一に抱き留められていた。
「こんなのほんの冗談じゃないの、一君」
緑川は軽くそう言うと、誰も進めてないのに、オレ達の反対側に回り腰を下ろした。
「一、もう大丈夫だって。緑川ももう変なことしないだろ?」
「つばさちゃんのお願いとあらば、もうしないよ」
ほらっ、と一の顔を覗き込んだ。
最近の一は、めっきり心配性だ。まるで娘を持つ父親のように、オレに近づく男たちを突っ撥ねた。
以前は男に声をかけられる事なんて滅多になかったのだが、最近、そんな輩が増えてきていた。髪が少し伸びて、女に見えるようになって来たんだろうか? 面倒だから髪をバッサリと切ってしまおうかと考えているところだった。
オレは一から解放されると、人数分のジュースを出した。
「で? 緑川はどうしてここに?」
オレは一の隣に座ると緑川にそう問いかけた。緑川は、テーブルの上に身を乗り出し、飲み物を飲もうとテーブルの上に出していたオレの手を両手で包んだ。また何かされるんじゃないかとオレは身構えた。隣の一から物凄い殺気を感じて、身震いした。
「俺、つばさちゃんに一目惚れしたんだ。俺と付き合ってくれない?」
緑川が本気で想いを伝えてきているのが解った。それが解ってしまった以上、こちらも本気で返さないわけにはいかない。
「ごめんっ」
「ふふっ、想像通り即答だね。どうしてと聞いてもいいかな?」
オレはお断りの返事をしたのだが、緑川がそれにショックを受けているようには見えなかった。
「お前のことよく知らないし、今はそういうの興味無い」
「じゃあ、俺のこともっと知ってよ。それに今は興味無くても、そのうち気持ちも変わって来るかもしれないだろ? 返事をするのは、もっと先でも遅くはないと思うんだけど?」
「あっ、うっ、まあ」
緑川に押し切られているのが解る。だが、男に口説かれた経験なんて皆無に等しいオレにはどう切り返したらいいのか皆目見当もつかないのだ。
「じゃあ、決定ね。取り敢えず、友達だ。一応自己紹介しま〜す。ご存知、緑川卓、17歳。誕生日は、8月27日。身長は185cm、成績はクラスで真ん中か調子が悪い時はそれより下。趣味はバスケ、バスケ部だったからね。好きな食べ物はパスタ。好きな色は水色。好きなアーティストはコブクロ。こんなもんかな。何か質問なる?」
「いや、ない。ていうか、好い加減に手を放せっ」
緑川の手は、話している間中ずっと握られたままだった。
「放さないと駄目なのかな?」
「勿論、今すぐ放せ。それに、オレは宿題中だったんだ。用が済んだんならもう帰ったらどうだ?」
オレの教科書もノートも緑川の腕の下敷きになっていた。
「ああ、ごめんな、つばさちゃん」
オレは、緑川を放っておいて宿題に取り掛かった。緑川は帰るどころか、オレの宿題をずっと見ていた。一が一言も言葉を発しないのが、さきほどから気にはなっていた。何とか宿題を終わらせ、時計をみると、夕飯を作らなきゃならない時間になっていた。
「緑川、お前もう帰れ。うちには二人分の食材しかねえんだ。お前は家帰って飯を食え」
「帰るけど。じゃあ、つばさちゃん、デートしてくれる?」
「何でオレがお前とデートしなきゃならないんだよ? お断りだっ」
冗談じゃない、誰が好き好んでデートをしなきゃならないんだ。好きでもない奴と。
「俺のことをもっと知って貰う為に二人になりたいんだよね」
「一度デートしたら、オレの事を諦めてくれるか?」
正直、オレは緑川みたいなタイプは好きではない。早く諦めてくれっと本気で思っていた。
「そのデートで、つばさちゃんが俺を好きにならなければ大人しく諦めるよ。それだったらいい?」
ダートは正直嫌だ。だが、いつまでも付き纏われるのは本望ではない。
一の表情をちらりと窺った。むすっと仏頂面を隠そうともしていなかった。
ここで緑川のデートの誘いを飲んだら、きっと一はかんかんに怒るんだろうな。それは解っている。でも、一の幼馴染なんだし、妙なことは流石にしないだろう。
「解った、いいよ」
オレの隣の空気がピキッと固まり、亀裂が入ったような気がした。
「つばさちゃんは、いつも日曜日何してる?」
「図書館には毎週行ってるけど」
「じゃあ、図書館デートにしよう」
図書館デートなんてものが世の中にはあるのか?
デートなんて言うと、映画とかアミューズメントパークとかだったりするのかと思った。
少女漫画なんかでそんなシーンをよく見かけるが、初々しい二人が顔を真っ赤にして言葉少なに手を繋いで歩いている。
一体それの何が楽しいんだと、オレは常々思っていた。アミューズメントパークなんて本当に親しい人と言ってこそ楽しいに決まってる。馬鹿みたいに大きな口開けて、はしゃいで、その方が断然楽しいのに。
でもまあ、図書館ならまだいいか。
オレは図書館が大好きなんだ。本を読むのも好きだけど、あの中に入った時の何とも言えぬ空気が良い。図書館なら近いし、そんなに気追わなくても済む。なにより、あんまり話さなくても良さそうだし。
「いいよ」
オレがそう言うと、緑川は顔がくしゃっとなるほど嬉しそうに笑った。その笑顔をオレは意外だと思って見ていた。
オレの緑川の第一印象は、遊び人だった。男でも女でも誰かれ構わずみたいな印象。いや、確かそれらしいことをあの時本人が言っていたんだ。友達ならまだしも、恋人にするタイプじゃないとその時、確実にオレの頭の中にインプットされた。
それは、オレの偏見だったのかもしれない。
緑川は、オレのOKを貰って、嬉しそうに帰って行った。
そして、今に至るのである。