第11話 5月-3
「緑川……」
一がぼそりと声に出した。
こいつが緑川……か。
髪の毛はミルクティー色に染められ、すらりと背が高く―――恐らく一と同じくらいだろう―――、両手をポケットに入れ、ニヤニヤと笑っていた。一見悪そうに見えるが、よく見ると瞳は優しそうだった。
一ほどではないが、整った顔をしており、モテるだろうと思わせた。
「おう、一。そいつ誰だよ?」
すたすたとオレに近づいて来た緑川がオレの顎を持ち上げ、興味深そうに観察する。
こいつが一に嫌がらせをしているのか。
「へぇ、これはこれは可愛いな。一、オレにこの子頂戴。俺、この子大事にするからさ」
「ふざけるな。お前にはぜったいにやらねぇよ。その汚い手を今すぐ退けろ」
あまり聞いた事のない一の低い声は、抑えてはあるが怒気を含んでいた。
「お〜怖っ。そんなにこの子が大事なんだ? 一ちゃん」
緑川は、オレの顎を放すと、今度は一の肩を抱いた。
「こんな可愛い子、何で俺に黙ってたんだよ」
根拠はない。根拠は全くないが、この二人、本当は仲が良いんじゃないだろうか。正門近くで会った学生が言っていたような関係にはどうも見えなかった。勿論、緑川は一を煽るようなことを口にしているが、それは多分オレという存在を黙っていた事に、いじけているような、剥れているような、そんな印象を受ける。
「一?」
オレは一に声をかけた。どういうことなのか教えてくれって意味を込めて。
「ああ、つばさには紹介したくなかったんだけどな……。こいつ俺の幼馴染で……」
「緑川卓です。よろしくねっ」
「赤川つばさです。よろしく」
勢い込んで差し出された緑川の手を戸惑いがちに握った。だが、緑川はすぐにオレの手を放そうとはしなかった。
「緑川、つばさは女だ」
緑川の手をオレから放しながらそう言った。
「あれ、一知らなかった? 俺、男でも女でも全然OKだもんっ」
「つばさは駄目だ! つばさ、帰るぞ」
オレは一に腕を掴まれ、強引に引っ張られて教室を出た。
「つばさちゃん、またねっ」
遠くから緑川の声が微かに聞こえた。一の背中が明らかに怒っていた。腕を引きづられたままアパートまで無言で歩いた。
校外へ出るまでに、一といるあいつは一体誰だとヒソヒソと飛び交わす声を漏れ聞いた。
一って、本当に人気者なんだな……。
「で? ゆっくりと説明して貰おうかな、つばさ君」
アパートに着くと、開口一番一に詰め寄られた。にっこりと微笑む一の目が全く笑っていなかった。
「……オレのせいで一が決闘なんて絶対駄目だと思って。だから、明日までに犯人見つけて、話し付けようと思ったんだ。だけど、うちの学校にはいないみたいだった。もしかしたら、一をよく思っていない人物の仕業って事もあるかと思って、潜入してみた」
「その制服はどうしたんだ?」
「夏希に無理言って用意して貰った。なあ、案外似合うだろ? 誰も女だとは気付かなかったよな」
つい調子に乗り、一にぎろりと睨まれた。
うわぁ、やばい。本当にご立腹だよ。
「えっと何だったっけな、ああそうだ、正門入って歩いてたら緑川と一の話してんの聞こえたんだ。緑川が一に嫌がらせしているってさ。だから、その人たちに新入生のふりしてクラス聞いて、乗り込んだってわけだ。でも、緑川じゃなかったな」
一の剣幕に少々恐れをなし、オレはこれまでの一切合切を白状した。
「俺と緑川はいつもあんなんだ。傍から見れば緑川が俺に嫌がらせをしているように見えるらしい。面倒だから弁解もしないがな」
今日の一はかなりブラックだ。いつもはにへらにへらとオレに甘えてくるのに、今日は難しい顔(怒ってるからなんだけど)をしている。声も一オクターブくらい低いし、言葉遣いも普段より乱暴な感じを受ける。
「もう、二度とこんな真似しないように。解った?」
「……はい」
いつもと立場が逆で物凄く悔しい。
「んじゃ、おしおき。んっ」
そう言って一はオレの前に顔を近づけた。目は閉じられ、唇は幾分尖らせている。
これって……もしかして? いや、まさかっ。
「おい、一。これはどういう意味かな? ははっ」
「勿論、見ての通りつばさからキスして貰おうと思ってるんだけど?」
「えっとこれは、やらないと許して貰えないってことなんだよな?」
「そゆこと、さあどうぞ」
何でオレが一にキスしなきゃならねえんだよ!!! そりゃ、男子校に潜入したのはちょっとはオレが悪かったかなって思うけど、別に何もなかったわけだし、オレが女だって事もバレなかったんだし、おしおきいらなくね?
いつまででも待っていそうな一を恨めしそうに睨みつける。
もしかして、一はオレがキスするまでずっとこのまま待っているつもりなんじゃないだろうな? 何でオレがこんなこっ恥かしいことしなきゃなんないんだよっ。自分からキスなんて、したことないんだぞ。
それでも待っている一は、きっとオレがするまで許してくれないわけで……、いつまでも怒っている一を相手にするのもしんどいわけで……、結局しなけりゃ終わらないわけで……。って、結局やらなきゃ駄目っぽい。
いつのまにか一の両手がオレの手をがっしりと掴んでいた。一が目を瞑っている間にこっそり逃げてしまおうかなんて思っていたオレを見すかすように。
オレは不本意ながら、意を決し、一の唇に己のそれを押しあてる。触れたか触れていないか非常に微妙なキスだったが、それでもオレはやりきったと自己満足に浸っていた。
だが、安心したのも束の間、一の方から唇を重ねて来たではないか……。
そうなるのがある程度予測出来ていたのだが、自己満足に浸っていた為、逃げ遅れたのだ。
ああっ、捕まってしまった……。
ただ、一つ予測出来なかったのは、そのキスがいつものキスと明らかに違っていたことだ。一がオレにするキスはいつも軽く触れる程度のもの。このキスは、以前タケルと間違えてされた様な激しいキスだった。
何でだろう……? 激しいキスをされると力が入らなくなる。あの時もそうだった。抗いたいのに抗えない。体全体が熱を帯びて、思考さえショートさせる。息が出来ずに苦しいのに、解放して欲しくて仕方ないのに、心のどこかでは終わらないで欲しいと願っている自分がいた。
変だ……、変になりそう。
やがて一から解放されると、オレは立っていられず崩折れた。
「おっと」
一の腕がオレの腰に回り、そんなオレを抱き留める。
「これが本当のキスだよ、つばさ」
あの時のキスよりも乱暴さがなくて優しかった。大切に……、殊更大切に扱われた様な気がした。オレが壊れないように、気にしながら、それでいて激しく。
「ざけんなっ……ボケっ」
そうは言うもののオレの声には迫力も何もあったもんじゃなかった。
見上げた一の表情が優しく、オレを見つめる瞳がいつもとどこかしら違う気がしてドキッとした。
「もう、いいから放せよ。これで許してくれるんだろ?」
一の顔をこれ以上見ていられなくて、きっと頬を染めているであろう、女みたいな反応をしているであろうオレを見られたくなくて、オレは顔を逸らしてそう言った。
「可愛いな、つばさは」
くくくっと可笑しそうに笑ってオレを解放した。
一に今のキスで動揺しているとは思われたくなくて、オレは平然とした態度をとるように努めた。だが、オレが動揺していることなど、一には全てお見通しのようだった。
「一、お前本当は解ってるんじゃないのか?」
「えっ何? つばさが俺を好きだってこと? そんなのとっくの昔に知って……」
オレは一のくだらない言葉を頭をベシッと叩いて遮った。
「ちげーよ、馬鹿っ。誰がお前のこと好きだなんて言ったんだよ。そうじゃなくて、犯人だよ犯人。あの果たし状を出した犯人、本当は誰だか解ってるんじゃないのか?」
うちの学校には犯人はいないと解った時から、なんとなくそんな気がしていた。
一は何か知っている。何か気付いている。
「さあ、どうだろうね。明日は俺一人で大丈夫だから、つばさは心配しないでね」
心配するなって言われたって、心配になるんだから仕方ないじゃないか。誰が好き好んで心配なんかするよ。
明日、オレだけ家で大人しくなんてしていられないよ。
「尾行とか考えないでね、つばさ」
ギクッ。
「まさか、そんなことするわけねえし」
そうは言ったが、本当のところそうしようかなって考えていたところだったんだよな。
「なら、いいけどねぇ」
疑わしい目で見ている一に、どうにかこうにか笑顔を作る。
その夜、オレは自室のベッドで横になりながら、明日のことを考えていた。
一体誰なんだろう。一にどうして欲しいと考えているんだろう、その人物は。そんなことを延々と考えながらオレはいつの間にか眠りについていた。