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はっ、と意識が戻る。
住み慣れた一人暮らしの自室。コチ、コチ、と時計の秒針の音が響いている。
ペンを持った俺は、机に向かって座っていた。
「…………はっ?」
俺は体のあちこちを触った。痛みはない。見る限りの傷もなく、出血もない。
そして改めて部屋中を見回せば、ここは間違いなく俺の部屋。
訳がわからなかった。
(俺、事故ったよな? 夢……?)
スマホを見る。
日付は記憶のものと同じ。時間もたしか、このくらいだった。
待ち受け画面だけが設定していたものと違う。
「? これ……」
さらに、机の上に広げられた紙に気づいた。
数枚分書き終えられた便箋。その横に、くしゃくしゃに丸められた便箋がいくつか。
書き終えられたものを手に取り、情けない笑いが漏れた。
「……はは。なんで」
あの日、彼女に渡すことなくアウターのポケットにしまい込んだ手紙。
くしゃりと握りつぶし、あの後どうしただろうか。覚えていない。
だけど、今手に持っている便箋は封筒に入れられる前のもの。折り目すらついていない。
書き終えられたばかりの、たぶん、あの日のもの。
再び時間を確認して、俺はアウターを適当にひっかけて急いで部屋を出た。
(夢かもしれない。俺の、都合のいい妄想かもしれない)
彼女に宛てて認めた手紙。
その中身はラブレターというには程遠いものだった。
思い出せる限りの日々の出来事を書き、言葉にできなかった自分の気持ちを綴った。最後には「好きでした」のひと言を添えて。
今でも胸を締め付ける。過去形にしてしまった言葉。自ら終わりにしている、その言葉に。
(たとえ、夢だとしても……)
はぁ、と、荒くなった息を吐く。
走り込んだコンビニ裏。その姿を見つけて、込み上げる想いに勢いが止まらなくなる。
数年ぶりの彼女は、俺の記憶の中のままそこにいた。
「俺、立夏さんが……」
「——立夏さん!」
あの日、彼女に告白をしていた男の言葉を遮る。
対面している間に割って入り、恋焦がれ続けた姿を抱きしめた。
「わっ、なつめ君!?」
「立夏さん、好きです」
「えっ? えっ!?」
戸惑う彼女は暴れることなく俺の腕の中に収まっている。
そんな彼女を解放しろと、俺に邪魔をされた男が憤る。
「なんだよお前、離れろよ!」
「嫌だ! 離れない。離れたくない」
俺の腕を引き剥がそうと男が手をかけるが、それを振り払い、俺はさらに腕に力を込めた。
彼女の体が緊張で強張った。
「おいっ……」
「好きです、立夏さん。好きです。俺は……——あなたを忘れることなんて、できなかった」
好きです。ずっと、好きです。
何度も想いを告げて、彼女を全身で包み込む。頰を染め上げた彼女の熱に、俺も熱を上げて。
彼女の柔らかさを、体温を覚えておけるように。
(夢だからこそ)
堰を切ったように溢れ出てくる想いを言葉にし続けた。
そっと背中に回された腕の感触に、熱に、頭がくらくらとしながら。
今を後悔しないように。
夢は、必ず覚めるものだから。
❇︎
そうして、早くも一週間が過ぎている。
夢が覚めることがなければ、俺自身が消えることもない。事故の事実もない。
改めてスマホのカレンダーを見れば、日付は同じだが2年前を示していた。
2年前。一週間前のあの日、そして過去のあの日。同じ日を、なぜか繰り返した。
(……訳がわからない)
けれど、あの日のことは確実に今の俺に残っている。
一世一代の大告白。それは、彼女に存分に伝わることとなった。
『講義終わったよ』
スマホにメッセージが届いたのは数十分前。
早る気持ちを抑えながら、彼女が帰ってくる駅で待っていた。
実は家が近いのを知ったのは、ここ数日のこと。
「なつめ君、お待たせ!」
「お疲れっす」
時間を合わせては駅で待ち合わせて一緒に帰るという、デートにもならないデートを楽しんでいる。
実家住まいの彼女を送り、自分も帰る、というのがあの日からのルーティーンだ。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「顔が赤いんで」
「そ、それは……なつめ君に会うと緊張しちゃうから……」
「え……今さらじゃないすか」
「今までとは違うでしょー!」
さらに顔を赤くする彼女の手を取り、ひとまず、と歩き出す。
そうすると彼女は「ほらそれ!」と声を上げた。
「すごくさりげなく、いつも手を繋ぐの!」
「嫌なら離しますけど」
彼女を掴んでいる手を緩める。
すると、握り返してこなかった彼女の手がすぐに俺を掴んだ。
「嫌なわけじゃなくてっ」
「知ってました」
彼女の手を握り直す。
に、と口元だけで笑ってみせると、湯気が出そうなほどに熱くなっていた。
うつむいた彼女が、絞り出す。
「…………ギャップが……」
「ギャップ?」
「告白してくれた時もそうだけど、なつめ君はこういうのには淡白そうだと思ってたから……」
「あー……」
つまり、経験なしを悟られていたわけだ。
それがこんなにも積極的にいくものだから、戸惑わせているらしい。
年上であり、今では年下となった彼女。
反応の初さが可愛らしく、ついつい強気になってしまう。
触れていたい理由は、もちろん他にもあるけれど。
「あの日のことは、できれば忘れてほしいです」
「え……なんで? ごめんね、嫌なこと言っちゃった?」
「違います。俺にだって羞恥心があるんすよ」
「羞恥心……」
彼女がつぶやいた。
「かなり切羽詰まってたんで。俺自身びっくりです」
「どうして切羽づまってたの?」
「立夏さんを取られたくないと思って」
「私を?」
彼女はきょとんとした。
だが、すぐに「ふふっ」と声が漏れる。
「なんで笑うんすか……」
「だって、嬉しくて」
「はぁ。とにかく、忘れてくださいね」
「えー。あんな告白、二度とないかもしれないのに」
「……」
むずむずとする彼女の口元。恐らく、にやけるのを我慢しているのだろう。
頰を赤らめてそんなに嬉しそうにされると、困ってしまう。
——歯止めがきかなくなりそうで。
そっと、彼女の頰に手を添えた。
「……好きです。立夏さんと一緒にいる時間がすごく大事です。本当は、手を繋ぐだけじゃ物足りないんですよ」
「わ、わ、なつめ君ちょっと待って……!」
「はい」
彼女の頰から手を離し、少しずつ近づけていた顔も離した。
安堵した彼女は、大きく息を吐く。
「気持ちは伝え続けます。俺が立夏さんを好きな限り、終わりが来るときまで、ずっと」
「……うん」
「あと、待てはできますけど、我慢はできません」
「うん?」
顔を上げた彼女の唇に、軽く落とす。
ただ触れるだけ。それだけなのに、頭がくらくらとするような甘美な柔らかさ。
次を求めてしまう前に離れた。
「帰りましょう」
「なっ、な、な」
「ちょっとは待ちましたよ」
片手で顔を覆う彼女を後ろ手で引き、ゆっくりと歩く。
空が暗くなってきた。この日に終わりを告げるように、遠い空に太陽が沈んでいく。
続く夢は、どこまで俺に幸福を与えるのだろうか。
ちら、と振り返れば、潤んだ瞳の彼女が俺を上目遣いで見ていて。
「やっぱり、ギャップが……」
「まぁ、俺も男なんで」
どうせなら、とことん楽しんでやれと、彼女に笑ってみせた。