9.独白はただ露と消ゆ
しばらく焚き火のはぜるパチパチという音だけが空間を満たす。
ラグナはそんな燃え上がる火を眺めながら、ひとり静かに物思いに沈んでいた。
踊るような炎が、俯いたラグナの端正な顔立ちに揺らめく影を投げかける。
術式でつけた火は術者の想定以上に燃え広がることはないので、実際のところ火の番をする必要などない。また、何者かが近寄って来れば寝ていても察知して起きるだけの自信はあった。
……つまり、本来なら遅くまで起きている必要はないのだが。
「まさか、こんなことになるとはねぇ……」
ため息と共に吐き出された呟き。
実のところ今日の出来事は、ラグナにとっても思いがけないものであった。これからのことに思いを馳せたラグナは、アーヤには見せない厳しい顔で虚空を見つめる。
これからどうすべきなのか。
自身の抱えている問題を含め頭を悩ませると、自然に表情が険しくなっていく。
そんなラグナの耳に、すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえた。
足元に目をやると、安心しきった表情で眠るアーヤの寝顔が目に入る。
知らぬうちに口元が緩んだ。指先でその柔らかそうな頬をつつく。熟睡しているアーヤはそんな悪戯にまったく反応せず、ただだらしなく変顔を晒した。
緩みきったその表情を、ラグナは不思議なものを見るような視線で見やる。
(……ロセ。コロセ)
ふにふにとした柔らかい感触を確かめるようにしばらく頬をつついていたラグナは、今度は鼻を軽くつまむ。
流石に息ができなくなるのは嫌だったらしく、「うー……」と唸り声をあげながらアーヤはころんと寝返りを打つ。
(コロセ。ソノ女ノ血ヲ捧ゲロ。)
アーヤのそんな反応を無感動に観察していたラグナは、無防備なその背中に手を伸ばし――……
――コロセ。
そっと、毛布を掛け直した。
「殺すワケ、ないでしょーが。」
ぽつりと吐き出された声が、宙に浮く。
彼女の生存は、自分にとっても残された唯一の希望だ。絶対に死なせる訳にはいかなかった。
一瞬の殺気を感じ取ったのか、茂みに寝そべっていた地龍が身じろいだ。しかしラグナはそれに構わず、アーヤを観察し続ける。
毛布の端から覗いた彼女の手は、まだ新しいタコがいくつかできている。
(……本当に、普通の女性なんだな。)
かわいそーに、という呟きが口からこぼれた。
まだ硬くなりきっておらず、所々潰れて血がにじむタコ。彼女の手を見れば、アーヤが異世界に来てからひたすら努力を積んできたことが窺える。
実際、一緒に地龍に乗っていたときの彼女の様子を見ていれば、彼女の頑張りは偲ばれる。
乗り慣れているとは言い難い緊張した姿勢だったが、それでも手綱を握る姿には自信があり、地龍との意思疎通もしっかり図っていた。騎手としての信頼関係も築けているといって差し支えないだろう。
自身の立ち位置を知ってもなお絶望せず、状況を打破する機会を窺い続けた前向きさ。そして、それを実行に移すことができた行動力。
いずれも、好感が持てるものだ。
逃げなければならない相手の怪我を手当をし始めたときには思わず彼女の正気を疑ったが、それも彼女の善良さゆえの行動であることはすぐに理解できた。
胸を打たれるほどまっすぐで前向きで優しい……普通の少女だ。
(……彼女を助けた本当の理由なんて、言える訳ないよな。)
ラグナが彼女を拾ったのには、単純な人助けだけではない理由が内包されている。誰にも告げることのできない、ある秘密。
だからこそ、彼女の率直な信頼は心にくるものがあった。
危ないところを助けたのは事実だが、彼女の状況を考えればラグナのことは新たな敵と身構える方が自然だ。それなのに、彼女にラグナを疑うような姿勢は微塵もない。
もう少し警戒心を持てと思わず説教したくなるほど、彼女のその信頼は危うかった。
一応彼女を助けた立場とはいえ、どうしてそこまで自分を信用するのか。
そう、真っ向から尋ねたくなってしまうが、藪蛇になりそうなので口を噤むことにする。
ふぅ、とため息をつき、ラグナは思考を切り替える。
そして次に思い出したのは、お礼をしたいと言い張るアーヤの姿だった。
どうせ口先だけだとタカを括っていたのだが、彼女は本気だった。必死に考えた末、彼女は自分の服を売ると言い出したのだから。
慌てて止めたが、斜め上の発想は逆に彼女の真剣さを伝えるに十分な効果を発揮していた。
(……面白いコだ。)
ふ、と軽く息が漏れる。
手放しでヒトを信用したかと思えば、相手に頼り切りになるまいと自制する。
そのアンバランスな彼女の姿勢は、ラグナの奇妙な感情を揺さぶった。それは、もっと頼ってほしいというもどかしい想い。
焦燥感にも似ていたが、不快ではない妙な感覚。
打ち明けられない後ろめたさを抱えているくせに何を考えているんだ俺は、とラグナの唇に自嘲の笑みが浮かぶ。
今まで他人と深く関わらないことを信条としてきた彼は、慣れないその感情に戸惑いを隠せない。
(彼女のことばっかり考えてんな、俺。)
苦笑いが浮かぶ。
まぁ相手はあの「冥王の花嫁」だ。自分が一定以上の興味を覚えてしまうのは仕方ない。
自身の葛藤をそう納得させる。
あまり彼女に踏み込みすぎるのは良くない、とだいぶ遅ればせながらも理性が警鐘を鳴らし始めた。
冥王の花嫁に関わり過ぎたら碌なことにならない。特に自分の立場では。
その警告に大人しく従い、ラグナはそこで思考を中断する。
(とりあえず向こうが親しげに振る舞ってきても、俺がドライな関係を貫いてれば大丈夫でしょ、と。)
そう結論を出して、ラグナはへらりと笑う。
誰もが一瞬毒気を抜かれる笑み。少し気怠げで力の抜けたその笑みは、ひとところに留まらず放浪を続けているラグナの処世術の一つであった。
相手への友好的な姿勢を見せつつ、一定の距離を置いて他者の立ち入りを拒む笑い方。
その表情は彼の仕草に染み付いていて、もはや意識するまでもなく本心を隠すのが日常となっている。
――だから、ラグナ自身ですら。
その時自分が隠した本心には、気が付いていなかった。
アーヤについて考えるのをやめるために笑った、その意味も。
夜は静かに更けていく。
両の瞳に喩えられる月は、ただ地上を見つめている。
その闇に、さまざまな顔を隠したまま。