4.千載一遇の好機をこの手に
――遠乗りの日が、訪れた。
その日が来るまでの間、アーヤは吐き気がするほど何度も脱走について考えを巡らせていた。しかし、新しい情報が望むべくもない今、出来ることなど限られている。
分かっているのは、ただ一つ。
この機会を逃したら、恐らくチャンスはもう二度と訪れない。
あれ以来、普段通りを心がけていても、どうしてもハルトに対して強張った態度になってしまいそうになる。あの厳しい目で見られた時、前回のように無邪気に遠乗りをせがむことなどできそうにない。
逃げるのであれば、まだ警戒心の薄い、今日。
「アーヤ様、少しお顔の色が優れないようですが。」
忠実な近衛団長は、気遣わしげにアーヤの様子を見やる。その目が、それ以上のことを探っているようで少し怖い。
「大丈夫です、遠乗りが楽しみでちょっと眠れなかっただけで……」
軽く肩を竦めると、それ以上はハルトは何も言わず、そうですか、とにこやかに返した。
僅か数週間の親交ではあるが、それでもハルトのこの「紳士的な近衛団長サマ」という姿が公的なポーズに過ぎないことは、薄々勘付いていた。周囲に求められる姿を演じているだけで、彼の見せる気遣いや微笑みは何処か空虚だ。
今回のこの台詞も、その一つに過ぎなかったのだろう。あっさりと言葉を切った彼に内心ホッとしながらも、アーヤは努めて明るく話しかける。
「それにしても、城下町ってあんなに賑わってるんですね!通り過ぎるだけで余りよく見えませんでしたけど、色々なモノを売ってて……機会があったら、またじっくり見てみたいです!」
「そうですね、また機会があれば、」ハルトは穏やかに笑む。
ちゃんと前の通りに振る舞えているだろうか、と内心胃の痛くなるような想いを抱きながらもアーヤは一生懸命自分の思う普段通りを振る舞い続ける。
そうしてウマを走らせて数刻。
毎日練習を重ねて大分乗馬には慣れたつもりだったのに、道が悪いせいか思ったよりも早く身体が悲鳴を上げ始めた。それでも、「もう少し進めば村に着きますから、」と鬼教官のにこやかな励ましに引き摺られ、何とか彼の後ろをついていく。
そろそろ我慢の限界だと思い始めたところでようやく、遠くにぐるりと塀で囲われた一帯が見えて来た。
「ああ、見えて来ましたね。」前を往くハルトが、指し示す。
「あれが村……ですか。あの壁みたいなのは?」
「あれは魔物避けの結界ですね。……なるほど、魔物のいないアーヤ様の世界では、村の形態も随分違うモノなんですね。」
興味深そうにハルトがつぶやく。こちらでは魔物から身を守るため、人の住む居住区とそれ以外は明確に分けられている。それを必要としないアーヤ殿の世界はさぞ平和なのでしょう、とハルトは軽く嘆息した。
にわかにびゅぅっと湿った風が背後から吹き、空の色がさっと翳った。頭上を見上げる。陰鬱な重たい雲が、今にも崩れんばかりに身を乗り出している。
「これは……一雨きますね。急ぎましょう。」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
村の入り口は検問所のような作りをしていたが、人の出入りに厳しくはないようだ。特に止められることなく二人はそのまま村の中へと進む。
ちょうどお腹も空いてきた頃合い。向かう先は、雨宿りと休憩を兼ねた食堂だ。
辿り着いた食堂の扉には、金属製の大きなニワトリが飾られていた。入り口が開くたびに、それがキィキィと悲鳴のような音を上げ、忙しなくくるくると回る。
きっとこの食堂の名前は『にわとり亭』だろう。看板の読めないアーヤは、勝手にそう命名する。
お城に一番近い村だからだろうか、食堂はかなり賑わっていた。引き締まった身体の男たちが、飲み物片手に談笑している。
「いかにも冒険者って感じの方たちですねぇ……」
その様子を二階席から眺めながら、ぼんやりとアーヤは呟いた。
冥王とか魔物とかいう単語が出てくる異世界に似つかわしい光景だ。こんな強そうな人たちがいっぱい居る中で自分が救世主なんて、やっぱりないわなぁと冷めた目で思ってしまう。
「ああ、旅戦士のことですね。魔物退治や護衛などを生業にしている腕っぷしに自信がある者達……といえば聞こえは良いですが、要はならず者ですね、……まぁ、といってもこの程度の連中では、たかが知れてますが。」
階下を一瞥すると、冷淡な声でハルトは述べる。
「そうなんですか?」こんなに強そうなのに、とアーヤは意外な気持ちでもう一度彼らに目をやる。
とすると、ハルトは彼らよりももっと強いのだろうか。近衛団長という地位に就いているのだから、それも当然なのかもしれないが。
「ええ、彼らでは到底……」と、ハルトはそう頷きかけたところで、ふつりと言葉を切った。先程までの傲慢さを露わにしていた表情が、突如厳しいものにと切り替わる。
唐突な沈黙を不審に思い、アーヤはハルトのその鋭い視線の先を追う。
――その先に居たのは、一人の青年だった。ハルトが彼に注視しなければ目にとめることも無かったであろう、目立たない佇まい。
目を凝らし、アーヤは彼をじっと観察する。年齢はアーヤよりは年上と思われるが、まだ少年と青年の境目ぐらい。元の世界で言えば大学生ぐらいだろうか。
フードを被っているためよくは見えないが、顔立ちは随分整っているように見える。横顔からちらりと覗くすっと通った鼻筋を目にした途端、アーヤはワケもなく心臓が跳ね上がるのを感じた。
引き締まった身体つきをしているが、周りの屈強な男たちに比べれば寧ろ華奢な方だ。背もそこまで高いとは言い難い。180もないだろう。
「あのヒトが……何か……?」
何故か彼から目を離すことができず、そちらを注視したままアーヤは尋ねる。
こちらに気付いていないのだろうか。彼は顔をあげようとはしない。
こっちを向いてほしい、目を合わせてほしい、とアーヤは理由も分からないままに焦燥感にも似た切望に焦がれる。
店員に何かを言いつけたハルトは、感情の読めない笑みを浮かべて答えた。
「なぁに、もうすぐ私の見立てが正しいかどうか分かりますよ。」
普段の貼り付けたような笑顔とは違う昏い笑み。それは彼の素直な黒い感情を表しているようで、アーヤは訳もなくぞくりと背筋が寒くなるのを感じた。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
しばらくして。
ざわ、と階下で静かなどよめきが上がった。むわっとした熱気と滾るような興奮の気配が、正体もなく下から漂ってくる。
大きな円を描くように徐々に人が散らばっていく。
――その円の中心に、その「彼」が居た。
「おいおい、兄ちゃん……なーにガンつけてきてんだよ?」
もはや古典的と言っても良いほどありがちな台詞。
ガタイの良い大男がつかつかと青年の席に歩み寄ると、ダンッと机を叩いた。空の食器が勢いよく転がり落ち、大きな音を響かせる。
緊迫した空気に、周囲の視線が一点に集まった。店内のざわめきが潮が引くように静まりかえっていく。これから起きるであろう騒ぎを期待した野次馬達が、一斉に固唾を呑む。
「え?」その張り詰めた空気に全く気付いていないかのように、その青年はきょとん、と首を傾げた。そして、フードを脱ぎながら男を見上げる。
「あー……、俺、お兄さんみたいな体格に憧れてるんで、ちょっと見とれちゃったかも。気ィ悪くしたなら、すみません。」
フードが外れ、大男と相対する青年の顔が露わになる。まだ幼さの残る無邪気な表情が浮かべるのは、人好きのする爽やかな笑み。
金色に近い明るい茶色の前髪をくしゃっとかき上げると、彼は微苦笑を交えた表情で頭を下げた。あっけらかんとした、素直な謝罪。
「お……おぅ、」あまりに屈託のないその反応に、喧嘩を売った当の大男も思わず毒気を抜かれた顔になった。思わぬ肩透かしを喰らい、殺気立った雰囲気が霧散していく。
その謝罪に少しでも卑屈さがあれば付け入る隙になったことだろう。……しかし、彼の反応は真っ直ぐでありながら、あまりにも淡白だった。
虚をつかれ、一瞬次に繋げる行動を見失った男は、そこで何故かちらりと背後に目をやった。アーヤの横で佇んでいたハルトが無造作に頷く。
「そうかい、じゃあ記念に一発もらって帰んな……!」
もはや支離滅裂な言葉。大男はそう言うやいなや、大きく振りかぶって青年に殴りかかる。
「うゎっと!」心底驚いた表情で青年は咄嗟に首を竦める。そのすぐ上を、ぶぅん、と風を切って大男の腕が掠めていった。
「ほぅ……、」はらはらと成り行きを見守っていたアーヤの横で、ハルトが感嘆の息を吐いた。そして大男に向かって乱舞に顎をしゃくる。
それを見て、ようやく気が付いた。
――この騒ぎは、ハルトが指示しているのだ。
会心の一撃を外した大男は、驚愕の顔を浮かべながらも慌てて体勢を調えた。思わずまじまじと眼前の若者を見下ろす。どう見ても、相手は頼りなさそうなひょろひょろの若造だ。最初の一撃を避けたのはただの偶然としか思えない。
依頼主の方を見る。どうやら依頼主サマはまだこの茶番の続行を望んでいるようだ。
――であれば。
男は再び青年目掛けて力強い突きを繰り出した。
今度は確かな手応えと共にガタン、と派手な音が鳴り響き、青年が椅子から転がり落ちた。青年の端正な顔が痛みで歪む。
その無様な姿に嗜虐的な喜びを得ながら、調子に乗った男は倒れた椅子を蹴り飛ばし、更なる追撃をかけようと青年に飛びかかる。
「いやいやいや、勘弁してくださいって!」困惑の声を上げて必死に逃げ惑う青年。
良いぞやっちまえ、という野次や、可哀想じゃないか誰か止めてやれ、といった声が入り乱れて聞こえる。
「これは面白い。」眼下の光景を愕然としていたアーヤは、その声にはっと引き戻された。
横を見れば、愉悦に満ちた表情でハルトがその騒ぎを見下ろしている。彼の口元に浮かぶのは、今まで目にした事のない酷薄な笑み。
「酷い……どうしてそんな、弱い者いじめを……!」
――もう我慢できなかった。
気がつけば、アーヤはハルトに食って掛かっていた。騙されたと知った時から抱えていた彼への不信感が、この件で一気に爆発しそうになる。
「弱い者いじめ?……ああ、貴方にはそう見るのですね。」
しかし、怒りに震えるアーヤを前に、ハルトはあくまで冷ややかに言い放つ。
「あれは、とんだ獣ですよ。しかも、牙を隠す術を身につけているだけに、余計に性質が悪い。」
「え?」言葉の意味が理解できず、アーヤはぽかんと聞き返す。しかしそれ以上の説明はせず、ハルトはくるりと背を向けた。
「しばしここでお待ちを。私はあの青年と話をしてきます。少し時間が掛かるかもしれません。」
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、アーヤはもう一度青年の方を振り返った。流石に仲裁が入ったようだ。乱闘は既に収められ、青年は大男から引き離されている。
……注視して、気が付いた。不思議なことに、あれほど一方的な暴力に晒されていたにも関わらず、彼は大きな怪我をしているようには見えなかった。
そう。まるで、大男の攻撃など何も効果が無かったかのように。
不思議に思うより先に安堵の息をついたところで、ようやく遅ればせながら気が付いた。今は見知らぬ青年を気遣っているような場合ではない。ハルトが席を外した今こそ、絶好のチャンスではないか。
――さあ、逃げ出さねば。