5話 襲い来る者
粉々に割れたガラスが飛び散る中、影は音もなく床に転がり込むとすっと立ち上がった。
動物が飛び込んできたのか?
だが、月明かりにその姿が照らされたことで、影の正体が痩せこけた長身の男であることが分かった。
「部屋を間違えてるんじゃないか? ここは俺が借りている部屋だ。それと、窓から入ってくるのは礼儀に欠けると思うけど」
「それは失礼したな……、どうも育ちが悪いもんで」
男が肩を揺らすと、その先に繋がる腕がしなる。
腕というのは骨の上に筋肉が張り付いているはずだが、男の腕はあり得ない角度に揺らめき、鞭のように柔軟だ。
空を切り裂きながら、鞭が振り回される。飛びのき回避すると、男は勢いそのまま一回転。腕がさらなる破壊力をもって追撃を加えてきた。
避けきれない! 痛みはないが衝撃を殺すことはできず、無様に顔面から壁にぶち当たり、隣の部屋に顔だけ貫通してしまった。
「なになに? アラン……なの?」
騒がしい物音でサリエスを起こしてしまったみたいだ。部屋の片隅にぴったりと背中を付けたサリエスは布団を盾のようにして身を包んでいる。
「もしかして、私に夜這をかけようとしたの? いくら私が並々ならぬ美貌の持ち主だからって、いきなりそんなことするのはよくないな。あ、お風呂にはちゃんと入って念入りに体を洗ったんだから匂わない……よね? すんすん……、大丈夫……なはず」
「敵襲だ」
「あ……、そう。うんうん、分かってた。そんなことだろうと思ってたよー」
平静を装おうとしてるみたいだけど、目があちらこちらを泳いで焦点が定まってない。
「そっちから押してくれないか? 首が引っかかって抜けないんだ」
「いいとも。俺が手伝ってやろう」
男の声が聞こえ、背中を蹴り押された。動けるようになったことには感謝だが、宿屋への弁償はどうしよう。人が出入りできるほどの大穴が開いてしまった。
「おや、おかしいな……」
男はサリエスに気づくと、小首を傾げた。
「標的は単独行動をしていると聞いていたが、連れがいるとは。……娼婦を連れ込んだが、いざという時にいまいち踏ん切りがつかなかったといったところか? まだ若いのだから無理もないことだ」
「誰が娼婦だ、このモヤシ野郎!」
サリエスが身を震わせながら男を睨みつけている。怒りという感情は長い堕落した生活でも忘れていないのか。
髪が風に運ばれて微かに揺れた。机の上の水差しが倒れ、注ぎ口から水を滴らせている。
――風魔法を使うつもりだ。サリエスと男の間にいた俺は巻き込まれないようにそっと離れた。その時、建物全体が巨大な手に掴まれたように揺れた。地震でも起こったのか? いや、これは上からの振動だ。
「危ない!」
天井を突き破って降ってきた棘の生えた鉄球に、俺は全身でぶつかっていった。俺が鉄球の軌道を反らさなければ、サリエスの頭は潰れていただろう。敵は一人だけではないようだ。
鎖の金属音が鳴り、鉄球が引き上げられると、濃い闇に覆われた夜の空に図体のでかい男が上半身を出して、こちらを覗き込んでいた。
痩身の男が声を荒げる。
「おい、しっかりやれよ! せっかく俺が気を引いておいてやったのに」
「うう、ごめんよ兄者。そいつの反応が思ったより良くて」
「お前がすっとろいのが悪いんだろうが! 次しくじったら捨てちまうぞ!」
「それだけはやめてくれえ……。俺は頭が悪いからさ、兄者がいなくちゃまた貧民街戻りだ」
「ああ、かわいい俺の弟よ……」
怒鳴りつけるような口調だった痩身の男は目を細めると、その声音は一転子供を諭すような優しいものに切り替わった。
「貧民街の生活は苦しいよな。その日食べるものすらろくに手に入らず、着る服なんてめったに手に入らない。『普通の暮らし』を送ることのできる恵まれたやつらにはごみを見るような目で見られ、石を投げつけられる」
貧民層の扱いは決して生半可なものではなく、街の汚点のような扱いを受けている。だが、彼らの身なりはそれなりに整っているし、栄養の偏りから来る不健康さはない。
「お前たち兄弟は殺し屋か……?」
「ああ、そうとも。俺と弟は二人で暗殺の依頼を遂行することで糊口をしのいでいるのさ」
「誰の差し金で俺を狙っている?!」
誰かに恨まれるような覚えはない。俺のことを鬱陶しがっている奴がいるとしたら――。いや、まさかな……。
一瞬脳裏をよぎった信じたくない可能性を否定するために、強く頭を振る。
「自分たちの正体まで明かしたのはお前たちを殺すからさ。俺たちが明日を生きるための養分になってくれ」
痩身の男の姿が蜃気楼のように揺らいだ。――と思うと、目の前に槍のように構えられた二本の指が高速で迫ってきた。その場所はまずい!
「金剛鋼化」
魔法により、血管から骨、皮膚に至るまで、要塞にも負けない鉄壁さを得る。
危なかった。生身のままでも防御力には圧倒的な自信があるが、それでも眼球は柔らかい部位に入る。 痩身の男の指は正確に俺の右眼に押し当てられていた。もし魔法による強化を施していなければ、貫通しないまでも痛手を負っていただろう。
「ふむ、やはりすべての箇所が均一の防御力を持つわけではないようだな。人体の急所ならば一点突破は可能だ」
モンスターが相手なら、これほど明確な策で攻められることはない。中には罠を仕掛けるモンスターもいるが、それも己の尻尾を囮にするようなレベルに過ぎず、経験を積んだ冒険者ならばまず引っかかることはないだろう。だが、人間同士の戦いは違う。こいつらは俺を倒すための対策を考えてきている。