ニヒルマン
油を弾く水のように、人々は男から離れる。何故なら男の近くに居れば確実に命を落としてしまうから。代わりに盾を構えた特殊部隊が男を囲んでいく。何故なら男は体に爆弾を括り付けていたから。そうそれは、自爆テロだ。男の背には国会議事堂が聳える。男は手を広げて体に巻きつけた爆弾を見せつけ、近付こうものなら自爆すると態度でもって警告する。しかし警察も負けてはいられない。少し離れた建物には狙撃手を配備し、いつでも射殺するとメガホンで警告する。このまま膠着状態かと、警察もマスコミも焦燥していく。するとその時だった。男はゆっくりと国会議事堂に体を向け、歩き出した。メガホンから響く警告。ガシャッと蠢く特殊部隊。狙撃手の眼光が鋭くなる。照準は後頭部。そしてその指は引き金にかけられた。
──1週間前。
規則正しく並べられた自転車。それらのカゴには様々なものが入っていなかったり、入っていたり。そしてまた1人、走っている自転車のサドルからお尻を浮かせて片方に体を寄せ、片足だけでバランスを取り、ある程度進んでからゆっくりとブレーキを握った。自転車は空いている場所に停められ、そこには持ち主が戻ってくるまでのいつもの静寂が降りかかる。都内某所の大学、それからそんな規則正しい駐輪場も含め、そこにチャイムが響いた。授業が始まるというチャイムだ。何台もの自転車が、年季の入ったトタン屋根と共に吹き飛ぶという大爆発を報せるように。
数分後にはパトカーが停まっていた。サイレンはもう止められたが、ぐるぐると回るパトランプは関係ない人でもとりあえず顔を向かせる。
「まったく、怪我人が居ないのが奇跡だな」
「そうですね」
警視庁捜査一課の刑事、長内がそう口を開けば、30も歳が離れた新人刑事の千賀はとりあえず相槌を打つ。トタン屋根は吹き飛び、自転車は幾つもがぐしゃぐしゃになっていたり、バラバラになっていたり。それは誰がどう見ても、もしそこに人が居たら、確実に死んでいるであろう惨劇。鑑識の人達が写真を撮ったり、証拠品となるようなものを回収している最中、長内と千賀は立ち尽くしている男性に近付いた。
「事務の方?」
「えぇ」
「駐輪場は1つだけですか」
「えぇ、この東門の前にあるものだけです」
「防犯カメラは」
「それぞれの門に、道路に向いているものが1つずつあります」
「じゃあ駐輪場に向いているカメラは無いと?」
「えぇ」
「とりあえず防犯カメラの映像から確認させて下さい」
事務室で防犯カメラの確認をする2人の刑事。駐輪場がすぐ側にある東門、正門として位置付けられる北門、そして職員室が近いからと教員達が多く利用し、駐車場も近くにある南門、それぞれに設置されたカメラの映像には不自然なところは無く、学生や教員達がぞろぞろと歩く姿が記録されている。それから2人の刑事は防犯カメラを見上げた。それは正門である北門のカメラ。
「3つ共敷地内から道路に向けられたもんで、門全体がすっぽりとフレームに入ってて死角は無い」
「しゃがんだりしても絶対映るって事ですね」
「警備員が常駐してる訳でもないから、部外者が入っても気付かれない。しかし爆発するまでの間で、入ってきてすぐ出たような怪しい奴は映ってない」
「あっじゃあ今も構内に居て学生に紛れてるんじゃないですか?それで下校時刻になったら紛れて出ていくつもりじゃ」
「お前、そんなリスクのデカイ事するか?知らない奴が紛れてたら分かるだろ。勉強道具だって持ってないし、ただでさえ挙動が不審なはずだ。もし爆発の後に逃げるんだとしたら、爆発で周囲の目が向いている時で、且つ警察が来る前だ」
「え、じゃあもう逃げてるじゃないですか。だから爆発の後まで映像見てたんですか。でも出ていく人なんて居なかったですよ?」
「門から出たとは限らない」
「マジすか。犯人はパルクールの使い手ですか」
ふとした沈黙。顔を見合わせる2人。
「何だそれは」
「え、あの、跳んだり跳ねたり、壁なんかすいすい登るやつです」
「跳んだり跳ねたりって、どっちも同じだろ」
「すいません」
駐輪場に戻ってきた2人。そこで長内を見つけた鑑識の天谷は手を挙げた。10年の付き合いがある長内と天谷。長内は何か見つけたのかと歩み寄る。
「相当な規模の爆発にしては、比較的分かりやすい爆発物の破片と思われるものが自転車のカゴの中から見つかりました。まだ推測ですが、恐らく爆発物はカゴの中にあったのではないかと。どの自転車のカゴか特定するのは困難ですが、周囲の被害状況から、爆発の中心点はある程度推測出来そうです」
「じゃあ、爆発地点にあった自転車の持ち主が犯人かも知れないと。或いは犯人が適当に目に付いたカゴに入れたか。しかし、肝心のカメラが駐輪場を向いてないからなぁ」
「駐輪場を利用する学生なら申請書を提出するから、駐輪場を利用する学生の特定なら簡単ですよね。手分けして1人ずつ当たりますか?」
「ちょっと待て焦るな。先ずは、駐輪場の見取り図を貰ってだな、放送で駐輪場を利用している学生を呼んで貰う。それで駐輪場の見取り図に自分でどこに自転車を停めたか印を付けて貰えばいい」
「分かりました」
都内某所のショッピングモール。老若男女問わず人々は出ては入り、何かを買ったり、買わなかったり。そしてまた1人、買い物袋を肘にかけ、とびきりに満足している訳ではない普通の表情でお店を後にしていく。そんな日常はどこのお店からでも伺い知れ、そこには賑やかな時間が穏やかに過ぎていく。それから時間帯的には仕事を終えた会社員が晩ご飯用にお総菜でも買いに行こうかという頃。ファッション系のお店が多く並んだ3階、広々とした通路の真ん中に並んだベンチ、その線上に置かれたごみ箱の1つがそして、爆発した。食材を売る1階と比べて静かな3階ではやけに爆音が響く。飛び上がるごみ箱。ベンチの木片は飛び散り、偶然にもお店のディスプレイのガラスを道連れにした。それは、大学の駐輪場爆破事件から数時間後の事だった。
規制線の外に群がる野次馬を眺める長内と千賀。大学ほどの威力は無く、被害者も居ない事から規制線はショッピングモール全体に及ぶ事は無かった。それから長内達が歩み寄ったのは、爆発したごみ箱に面したお店の女性店員。
「ごみ箱に怪しいものを入れた人物は」
「怪しいものかは分かりませんけど、私が見たのは3人くらいです。でも顔なんて分かりませんよ?」
「性別とか年齢とかは」
「20代くらいのカップルと、20代くらいの男の人が1人です」
「何時頃か分かりますか」
「いやぁ、それはちょっと」
「そうですか、どうも」
それから向かいのお店の店員からも話を聞き終えた長内は振り返った。話を聞き終えたタイミングを見計らって声をかけてきた天谷は、例の如く手を挙げていた。
「爆発はそれほど大きくなく、ごみ箱自体が蓋の役目をしていた為か、難無く時限式の爆発物だと断定出来ました。いやぁしかしあれですね。こんなご時世でも、わざわざ証拠が残るようなものを丁寧に作る輩が居たもんですね」
「単純に能力者とのコネが無かったんじゃないですか?」
「お前、もうちょっと深く考えろよ」
「え?」
「あれだけデカイ爆発でも駐輪場じゃ怪我人が出てない。そしてここでも、惣菜とか食品とかがあって時間帯的に混む1階じゃなくて3階だ。怪我人を出さないようにしてる点で先ず同一犯だろう。しかも証拠が残るような事をして俺達を誘ってる。まるで、爆発とは別に何かメッセージがあるみたいだ」
「メッセージですか。確かに超能力じゃなくて爆発物の方が逆に目立つかも知れませんけど」
「1回目は人を殺せる威力だが殺さなかった。それはつまり、いざとなったら殺せるぞという本気度を誇示してる。2回目は連続性を見せつけ、いたずらじゃないという意思を伝えてるんだろう」
「じゃあまだ続くんですか」
「あぁ、2つの爆発に次のターゲットのメッセージが隠れてりゃいいんだが。大学とこのショッピングモールに、何か共通点は」
「共通点・・・。大勢の人を狙うのに適した場所とかですか」
「ただ闇雲に大勢が居る場所なんて言ったってどうしようもない。いや、まさか大勢の人が集まる場所と思わせて本当は特定の誰かを狙ったとしたら」
「大学とショッピングモールに共通する誰かですか?単なる威嚇とか、予行練習でもないって事ですか」
「勿論その線だって捨てる訳じゃないが、妙だろ、どう見ても」
「けど、これといって物証が無いですよ?」
「何言ってんだ。それなら足を使え!それが刑事だ!大学の駐輪場の見取り図には爆発の中心点と、誰がどこに自転車を停めたかが書いてある。爆発の中心点から見て狙われてるかも知れない人はもう推測出来てる。なら次はその人の中からショッピングモールに関係してる人を絞り込む。犯人は恐らく、大学の駐輪場を爆発した後にその足で狙ってる人を尾行してここに来て、爆発物自体は計画的だが突発的に仕掛けたんだろう。防犯カメラに映ってないか確かめるぞ」
「分かりました」
警視庁にて、それから長内と千賀は科捜研にやって来た。何故なら呼ばれたから。理科室のような臭いがするのかと思いきや、そんなにキツくない。薬品だらけで散らかってると思いきや、案外見通しが良い。所謂清潔感を感じるそこを千賀が見渡していると、長内の顔を見れば親しげに挨拶をしてきた科捜研の女性職員、五十嵐は手招きし、パソコンのキーボードを叩く。
「大学の防犯カメラと、ショッピングモールの防犯カメラを照らし合わせて、大学とショッピングモールに同一人物が居ないかの検証結果、もう出てますよ。防犯カメラの映像、再生します。結論から言うと、3名確認されました。因みに全員女性で、見るからに仲良し3人組が遊びに来た感じですね。それからこの中でこの2人が自転車で登校しています」
「長内さん、でもこの2人、爆発の中心点からは離れてた気がしますけど」
「いや、駐輪場の爆破と、その後に尾行してまでショッピングモールを爆破をしたんだ。駐輪場を利用しているってだけで狙われてる可能性はあるだろ」
「そうですね。でも、自転車を爆破されたのによく遊びに行きますよね。やっぱりテロに関して危機感が薄れてるんですかね」
「たった1度駐輪場を爆破されて、しかもあの時点じゃ無差別テロかも知れないっていう空気だったからな、さすがに警察が知らないところで脅迫でもされてなきゃ、まさか自分が狙われてるなんて思わないだろ」
「でもショッピングモールの爆破で、もしかしたら疑い始めたかも知れません。すぐに顔から身元割り出して保護しましょう」
「実は、それもうやってます。見ます?」
「あぁ頼む」
「いいんですか?上からの指示も無しに」
「気になる事があったり、その方が効率が良いと判断したら自分で動く。それがチームプレーだ」
「はい」
「新人さん?」
「この春からのな。しかもこいつだけじゃない、もう1人女の新人も寄越されちゃって。山下から言われちゃ断れないから仕方ないんだが」
「もしかして山下刑事部長ですか?さすがですね長内さん、刑事部長を呼び捨てなんて」
「元相棒なんでな。俺の方が先輩だがあいつはキャリアだから、さっさと出世したんだよ。山下は昔っから俺の指導力を買ってくれてて、何かと新人共に1度は俺の下に付けって言い回ってる」
「へえ、それは私も初耳でした」
「僕も言われました、刑事部長に」
「そうか」
「あ、居た長内さん!」
聞こえてくる小さな、しかしやけに響く足音。だからという訳ではないが、新人女性刑事、駒村の声に長内達は振り返る。
「大変です。爆破予告ですよ」
「何だって!?どこだ」
「国会議員の矢倉大治郎の事務所を爆破するって。私達が追ってる事件との関連性は不明ですが、捜査会議が開かれますよ」
「あぁ、五十嵐、写真送ってくれ」
大学の駐輪場爆破もショッピングモール爆破も一大事には変わらないが、国会議員が狙われたとなれば緊急だと、捜査会議が行われた。大学とショッピングモールとの関連性は不明だが、招集された刑事達の中には念の為にと大学とショッピングモールの捜査に携わっていた長内達と、長内達と共に動いていた爆破事件を担当する特殊犯捜査第3係の刑事達も居た。
「矢倉大治郎の事務所に爆発物を仕掛けた。タイムリミットは明日の昼12時だ。以上が犯人からのメッセージです。大学とショッピングモールとの関連性はメッセージからでは分かりませんが、長内班は関連性がある事も考慮してして引き続き捜査をお願いします。牧田班は矢倉議員を恨んでる人が居ないかなどの身辺を洗って下さい。長内班、これまでの捜査状況を報告して下さい」
それから会議室を出ていく刑事達。長内は腕を組み、唸り声混じりに小さく溜め息を1つ。その眼差しが何となく壁掛け時計に向いているのを、駒村はふと目に留める。
「長内さん、どうかしました?」
「腹減ったなあって思って」
「そうですか」
「長さん、何か閃きました?」
そんな愛称で呼ぶのは中堅の刑事、吉田。駒村の相棒。吉田には分かっていた、ぼーっとしている時の長内が“どういう状況か”が。
「どう思う?大学とショッピングモール、矢倉議員と関連してると思うか?」
「自分は、何とも。だって前の2回では予告しないで、3回目で急に予告するのはどうも。それに矢倉議員の事務所を爆破をするなら、前の2回を持ち出した方が本気をアピール出来ますから」
「前崎」
長内の呼び掛けに振り返ったのは捜査会議を仕切っていた係長の前崎。夕食として弁当を食べていて、口いっぱいに頬張りながら前崎は長内を見る。
「一時帰宅する。何かあったら電話してくれ」
「あ、はい」
ポカンと口を開ける千賀。そしてその眼差しはさっさと歩き出した長内の背中に向けられる。
「え、帰るんですか?」
「女子大生2人の身辺調査頼んだぞ」
「え、はい」
「吉田さん、大丈夫なんですか?」
問いかける駒村。しかし吉田は去っていく長内に目もくれない。
「いつもの事だから。爆破予告は12時だし、それまで犯人は動かないと踏んでの事じゃないかな」
「それって完全に大学とショッピングモールと矢倉議員を関連付けてるじゃないですか」
「そうだね。女子大生2人の事、さっさとやっちゃおう。五十嵐さんから女子大生2人の情報送られてるから、千賀君は自分達と一緒に」
「はい」
「村上さん達、大谷友理奈の方をお願いします」
「あぁオッケー。おい千賀、大丈夫か?」
「え?」
「はは、まるで深夜にタヌキを見掛けたっていうような顔だな」
「村上さん、それ全然分かんないっす」
「うんオッケー、行くぞ」
「どこがオッケーなんすか」
顎ひげを薄く整えた陽気なキャラの村上と、その相棒の久江。長内班に配属された時、実はこの2人の絡みづらさに1番驚いた。だから駒村は黙って去っていく村上達を眺めていく。
「自分達は水瀬香。2年。自宅に向かいながら安否確認しよう。夕食時だし、よっぽどの事がなければ居るはず」
「はい。あの、長内さんの、いつもの事ってどういう事なんですか?」
「長さんはどっちかっていうと頭脳系でね。ベテランらしく経験と頭のキレの良さでそりゃあもう優秀な刑事なんだよ。長さん自身も頭が良いんだけど、毎度毎度捜査方針の鋭さとか推理の深さとか、家に帰ったと思ったら洗練させてくるんだ」
「洗練、ですか」
「周りからは独自の捜査網があるとか、優秀な顧問が居るんじゃないかとか色々冗談混じりに言われてるんだけど、でもそれで犯人の検挙に繋がってるから、今更誰も言わないんだ。まあ言ったとしても山下刑事部長が許しちゃうから」
早朝の都内某所、衆議院委員矢倉大治郎の事務所の前では厳かに警察車両が停まる。いくら早い時間を選んでも規制線なんて敷けばマスコミとやじ馬は集まってくる。爆発物処理班が待機する中、スタッフ達が冷静に避難していき、警察官達が事務所内を隈無く調べていく。しかしそれから、村上はふと手を止めた。
「もう十分だろ、イタズラなんじゃないか?」
そんな落胆が伝染していき、そして捜索は打ち切られた。ぞろぞろと事務所から出てくる警察官達。長内は首を横に振った。その眼差しの先は爆発物処理班の班長。空気が抜けるように緊張感が萎んでいく。爆発物処理班が警察車両に戻っていき、間もなくして無線で報告を受けた前崎が捜査会議室で溜め息を吐き下ろす。
「撤収は待った方がいい」
警察車両に乗ってきた長内。そんな言葉に爆発物処理班の班長は顔を向ける。
「爆破予告は12時だ。撤収はしない方がいい。例えば、予告の時間の直前になって郵便物として爆弾が届けられる可能性だってある。もし仕掛けたという過去形の言葉が罠だとしたら、処理班を出張らせて一旦何も無いと安心させて油断を狙ってるかも知れない」
「かも知れないでいちいち動いてられない。矢倉議員を事務所に近付けさせず、不審物なら事務所に入れない。それで問題無いはずだ」
「矢倉議員はそれでよくても、威力の高い爆発物だったらどうすんだよ。お前らの仕事は矢倉議員の警護じゃないだろ?爆発物処理だろ!」
「・・・上の指示を仰ぐ」
長内が警察車両から出てきて、事務所のスタッフが事務所に戻っていく。緊張感は無くなってこそないが、路地の1つが規制線で塞がれたままという空気が惰性となってまとわりつく。
「千賀、女子大生はどうだった」
「はい、昨日はご在宅でした。怪しい人物などからの接触はありません。友人関係も、えー、これと言って目立った点はなく、狙われる心当たりなども無いそうです」
「友人関係は、ネットの中も調べたんだよな?」
「勿論です」
「村上」
「こっちも同じく普通に家にいましたよ。尾行されてた雰囲気も全然感じなかったそうです。狙われる心当たりも無いって言ってました。オレ思ったんすけど、もしかしたら狙いは矢倉議員なんじゃないかなと」
「根拠は」
「女子大生2人って、別に特に令嬢って訳でもないし、狙うメリットってのが無いなと。何せ物理的な爆発物ですからね。政治家狙うくらいじゃないと割に合わないですよ」
「実は俺も狙ってるのは女子大生じゃないと思ってる」
「3件共同一犯ですか?」
口を挟む千賀。しかし長内はただ小さく「あぁ」と頷く。
「じゃあやっぱり政治家っすか」
「いや、単に政治家を狙うだけなら大学も、ましてや尾行してまで突発的にショッピングモールを爆破する必要がない。政治家の事務所と聞けば強い印象だけにそれが全てだと思いがちだが、3つの事件の内、犯人の1番の標的はショッピングモールだろう。そもそも爆発物を使う犯行において、普通、犯人は現場に居ない。というか現場に居る必要がない。時限装置や遠隔装置を付けてこその爆発物だからな。しかしショッピングモールだけは行動的だ。つまりそこに犯人の強い動機があるはずだ」
「政治家が標的じゃないとしたら、何ですか?」
問いかける駒村。その一瞬でふと駒村は理解する。長内の眼差しは逆に新人に問い返すようなものだと。
「政治家が標的でないが、政治家を狙う必要あるとすれば何だ」
「え、もしかして、家族とか」
「例えば、矢倉議員の子供があの大学に通ってるとして、その子供を狙ってるとするなら、3つの事件の辻褄が合うと思わないか?」
「それってつまり、子供を狙って大学の駐輪場を爆破して、その後で追いかけてショッピングモールを爆破して、子供を脅す為に父親の事務所を狙った。って事ですか」
「あぁ」
「長さん、自転車通学してる学生の中に矢倉という男子学生がいます」
「あぁ、後はその子供がショッピングモールに居たかだな。すぐに五十嵐に捜させよう。・・・おう五十嵐、矢倉議員の息子が爆破された大学に在学してるはずなんだが、その息子が昨日のショッピングモールに居たか確認してくれ。え?まあな。じゃ頼んだぞ」
それからまた、長内は腕時計に目線を落とす。長内班の刑事達が周囲に不審者が居ないか見回りながらそして時刻は11時50分。一般人のやじ馬は飽きて帰り、代わりにカメラやマイクを持った人達が増えていた。その時、規制線の外で長内は目を留めた。矢倉議員の事務所の近くの路肩に停められた宅配便のトラックに。トラックから下りてきて、背後に回って荷物を1つ抱えた作業員を見ていると、作業員は明らかにマスコミの雰囲気にたじろいだ。だから長内は静かに歩き出した。
「その荷物、矢倉議員宛てか?」
慌てさせないような落ち着いた声色と、目立たないように胸元で開かれた警察手帳。一瞬の沈黙の後、目を丸くした作業員は「はい」と頷く。
「長内だ。宅配物から爆発物と思われるものを確保した」
長内班の刑事達のイヤホン、警察車両、そして捜査会議室に響く長内の声。すると会議室で前崎が指示を出し、事務所前に留まった警察車両から物々しく爆発物処理班が出てくる。ざわめき出すマスコミ。
「それが爆発物なんですか?」
「だから下がれ!」
宅配物が長内の手から対爆スーツを着た処理班の手に渡ると、すかさず防爆盾を持った機動隊員がマスコミの前に背中を向けて立ちはだかる。それでも何とかカメラに収めんとマスコミがざわめく一方、パトロールを続けていた駒村は目を留めた。それはマウンテンバイクに跨がりながらも片足を地面に着いて休憩しているような姿勢の男だった。
「あの、ちょっといいですか?」
「ちょっと待って。今いいとこ」
「いいとこって、凶悪な事件だから。不謹慎でしょ。私、刑事なの。ほら見て警察手帳」
「へー」
「ちゃんと見なさいっ」
「分かった分かった。近いって。熱血かよ」
「何してるの?」
「俺に職質してる暇あったら不審者捜してろよ。パトロール中なんだろ?」
「そうよ。だからこうやって不審者に声かけてるの」
「俺は不審者じゃない」
「それは私が決める事。どう見ても不審者じゃないの、双眼鏡なんか持って。もし犯人が現場に居るとしたら、そうやって遠くから眺めるはず。自転車だってすぐに逃げる為でしょ」
「狙ってるのは矢倉議員じゃない。だからこの現場には高みの見物に来る必要がない」
「え?」
「そろそろ終わったかな。冷凍する為に筒に入れるだけだしな」
すかさず男性の腕を掴む駒村。
「うおっと、何だよ」
「長内さん、不審者捕まえました。すぐ来て下さい。駅方面の歩道橋の下です」
「あのさ、熱血はいいんだけど、それじゃ上司に怒られると思うよ」
「何よ」
「不審者は自転車に乗っている。つまり逃げ足が速い。だったら先ずは不審者に声をかける前に仲間を呼んで退路を封鎖するのが定石ってやつじゃないか?」
「し、素人が口出さないでよ。実際にこうやって確保出来てるんだから」
「確保って、うお、意外と力強いな」
「大人しくしなさい」
「してるけど」
「自転車降りなさい」
「はいはい。あ」
男性の眼差しの先に目を向ける駒村。そこに長内が小走りしてくる。
「おい何してるんだ」
「長内さん」
「ちょっと見物に。どうやら宅配便の人は本物みたいだ。もし現場に来るとしたら宅配便のスタッフに変装して直接爆発物を持ってくる為くらいだからな。もしかしたら、爆弾は偽物かも知れない」
「何でだ」
「長内さん?」
「駒村ちょっと黙ってろ。一応もう筒には入れたぞ」
「宅配便に運んで貰う時のリスクは、予期せぬ渋滞。もし渋滞に捕まって時間が来てトラックの中で爆発したら意味が無い。GPSを付けて宅配が完了した時を狙って遠隔操作で爆発させてもいいけど、爆破予告してるから事務所に宅配が完了する事はない。そもそも狙いが矢倉議員じゃないなら脅すだけでも十分だ。万が一本物だった時の為に見に来たけど、どうやらそれはなさそうだ」
「あなた、一体」
「おーい駒村」
それから村上、久江、千賀、吉田が集まってきて、それでも表情1つ変えない不審者の男性に駒村は生唾を飲んだ。
「不審者って、そいつか?」
「いや、こいつは俺の息子の雄大」
「どうも」
会釈する雄大。村上達が戸惑いながらも応えたところで、ようやく雄大は駒村と目を合わせた。
「どうも」
「ごめんなさい」
「別に謝る事じゃない。俺の息子の顔なんか知らないんだから。しかしそれより、相手が自転車なら先ず応援呼べよ」
「すみません」
「ほら怒られた」
「そ、そんな事より、息子さんは警察官なんですか?」
「え?いや?」
「いやって、どうして捜査状況を把握してるんですか?あ、もしかして昨日早々に家に帰った時ですか?一般人に状況を漏らすなんて問題ですよ?」
「固い事言うなって」
「かっ・・・何言ってるんですか」
「駒村、だから言ったでしょ?結果的にそれで検挙率が上がってるし、第一刑事部長は許してるって」
宥める吉田に顔を向けるも、駒村は腑に落ちていないように、正に元気のある新人のような眼差しを長内にぶつける。しかし長内はそんな眼差しに怯む事はなく、遠くを見て頭を掻くだけ。何故ならそんな眼差しは、飽きるほど見てきたから。
「駒村だってな、大人になりゃ気が付けばSくらい作ってるよ」
「そういう村上さんも居るんすか?」
「お前、そういうのは身内にすら言わないもんだ」
「エス・・・協力者ですか。いやでも協力者ってそういう意味なんですか?何か違う気がしますけど」
無事に爆発物を回収し、これより爆発物処理班は撤収する。そんな通信が入り、会議室の前崎、そして現場の長内班は一様に安堵した。それから独り煮え切らない表情の駒村など誰も気にせず、機動隊及び爆発物処理班は去り、マスコミさえ解散していった。そんな状況を、よく見えるファストフード店の2階席から1人の男が悠々と眺めている事など知らずに。そして教二はコーラを手に取り、ジュコッと音を鳴らして飲み干した。それから教二はスマホに目を落とした。チャットアプリを介してのメッセージが送られてきたのだ。
「K、こっちは準備出来てる」
「了解。始めてくれ。すぐに紙を出す」
1人の男がポストに封筒を投函するところなど誰も気にする訳もなく、そして教二は雑踏に紛れていく。今擦れ違っていった人達は自分の事なんて知らないし、“今現在自分がやっている事”に対して話しかけてくる事はない、とは絶対に言い切れないというスリル。もしかしたら直後に警察が話しかけてくるかも知れないという緊張感が脳裏にこびりつく。何故なら話しかけられる心当たりがあるからだ。しかしだからこそ教二は冷静さを噛み締められる。だって警察の実力じゃ俺を捕まえられないから。そんな優越感と疎外感はあの時以来だ。そう教二はふと思い出す。それは単なる記憶。炭酸が抜けるように苦さが抜けた、苦い思い出。今思えば大した事じゃない。高校1年の時に親が離婚した。だから名字が変わった。でもあえて変わる前の名字で呼んできたり、ミドルネームだのからかってきたり、クラスでは比較的優等生として目立っていただけに冗談でイジってくる。今となっては、誰かに話す時にはもう笑い話だ。
その夜、ニュース番組ではとある事件が報道されていた。それは制服警官がスタンガンで襲われ、拳銃を盗まれたというもの。そして昨日の2度の爆破事件、また正午の爆破未遂事件においての犯行声明文が警視庁宛てに届けられたというもの。しかも犯行声明文には矢倉大治郎衆議院委員の息子の犯罪歴を告発する内容もあり、矢倉議員の事務所にマスコミが集まっていたり、車に乗るまでに質問攻めしたりと、テレビを見ているだけでも騒がしい。
「父さん、犯行声明ってどんなの」
長内家の夕食卓。“いつものように”雄大はさらっと問いかける。すると長内はモグモグしながらジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、雄大に手渡した。雄大は画面に表示されている画像を見る。それは犯行声明文の画像。
「大学の駐輪場、ショッピングモール、矢倉の事務所を狙ったのは我々だ。これは無差別じゃない。標的は矢倉。我々は医療制度改革においての国民の3割負担撤廃法案の発案者を世の中から排除する。因みに息子は強姦魔だ。矢倉は分かってて揉み消してる」
スマホを父に返し、雄大はロースカツを一口。
「息子、すごい“ついで感”だね」
「五十嵐に調べて貰ったら、矢倉の息子は狙われた大学に在籍していた。そんでショッピングモールに行って確認したら、爆破地点の目の前が息子がバイトしてる店だった。けど、犯行声明じゃ標的は息子じゃない」
「うん。犯人は切れ者だ。最初は予告もなしに確実に爆破した事件を作って、次に予告して爆破を未遂にさせた事件を作った。そうなると犯行声明とかが無い状況じゃ狙っているのは未遂の方じゃなく、爆破した方の標的だと誰もが思う。そして警察が推理を固めたところでそれをひっくり返した。警察に恨みはないんだろうけど、何かこう、自己顕示ってやつを感じる。その封筒って、指紋は?」
「警察官以外のものは無かった。矢倉議員の事務所の爆破予告と同じだ」
「まあそれくらい徹底してるか」
「まさか法案潰しのマルディーだったなんてな。予想外だ」
「マルディー?」
「過激派のデモだ。近頃多いだろ、政治家相手にたった1人で暴れる奴。何かもっとこう、テロリスト被れだと思ってた」
「能力者の1人過激デモか。確かに過激デモだろうけど、能力者じゃない、そして犯人はグループ。マスコミには、息子が強姦魔だって言ったの?」
「いや、犯罪歴と矢倉議員が揉み消してるってだけ」
「3割負担撤廃法案か。つまり犯人の動機だよね?貧困層なのかな。過去に何かあったか。貧乏人に優しく正義感が強い医療関係者。薬品に精通してるなら爆薬の提供とか出来るのかな」
「あ、そうだ。矢倉議員の事務所に届けられた爆発物、包みを開けたらGPS付きの遠隔操作式で、冷凍してから解体したところ、爆発するように見せかけて爆発しないように作られたもんだった」
「本当は矢倉議員が標的なのに、偽物だった。いや本人が居ないって分かってたからそれでも本物である必要はなかった。どんな爆弾?薬品系?」
「パイプ爆弾だ。基本的に、爆発物処理の筒に入る大きさの爆発物なら解体よりも冷凍が優先だ。パイプ爆弾は外見だけじゃ偽物かどうか分かりづらいからな、小包を開けてみてパイプ爆弾って事を確認したら冷凍して、解体してみたらパイプの中には信管が入ってなかったっていうのが今回のオチだ」
「薬品系じゃないなら病院関係の人間じゃないのか。矢倉議員自体に恨みがある訳じゃないからイマイチ犯人像が分からない。政治家を狙うって言ったら大抵講演会とかだけど、次に何をするか、手掛かりを残してないから、こっちとしては山を張って待ち伏せるしかないか」
3日後には矢倉議員の講演会がある。今から厳重に警備するのはさすがに無理だ。犯行声明が出た事によってSPに出動が要請されたが、SPだって出来る事と言えば警戒を強める事くらい。それから午前2時、スマホが鳴った。それは千賀のものだ。スマホの画面を見て飛び起きる千賀。吉田からの電話だった。
「・・・はい」
「眠いのは分かる、でも起きて。矢倉議員の自宅が銃撃された」
「え、銃、撃・・・」
寝癖を気にしている余裕はない。とりあえず洗面台でバシャバシャと水を浴び、水を飲んでマウスウォッシュする。まだ夜も明けていない真っ暗な中、警視庁にやって来た千賀は捜査会議室で長内を捜す。
「あれ、長内さんは」
「あと5年くらい寝かせてやれば?」
「え?」
「あ間違えた。あと5年で定年だしさ、もうちょっと寝かせてやれば?こういう時こそ若いもんがせっせと動けよ」
「村上さん、今日もここに泊まってたんすか」
「まったく、人を地縛霊みたいに言うなって、照れるだろ」
「言ってないっす」
「緊急の捜査会議始めます。来てる人だけのものなので、情報共有は各自でお願いします。牧田班、これまでの状況を報告して下さい」
「はい。先ず、通報があったのは午前1時42分、奥さんから。銃声が聞こえたのは凡そ10分くらい前で、2階で就寝中、銃声のような音とガラスが割れる音を聞いて何事だと降りていって、割れたガラスと1階のリビングの壁にあった弾痕を発見したという事です。鑑識が銃弾を回収した結果、先日、上野の交番付きの警官が奪われた拳銃と線状痕が一致しました」
「えぇ」
村上の怠そうに声を漏らしたのが千賀の耳に妙に入ってくる中、会議室もそれなりのざわめきが立つ。
「近隣の住民への聴き込みは何分深夜なので有力な情報は得られず、現在、拳銃を奪われた交番から犯人の足取りを追っています」
「矢倉議員を恨んでる人の線で進展は」
「いえ、ありません」
「そうですか。長内班、爆発物から犯人を特定出来るようなものは」
「いえ。パイプ爆弾に使われたパイプは至って普通の鉄パイプで、黒色火薬も足が付かないようにネットで買えるので、特段薬品関係に詳しい人間ではないと思われます。それから長内さんから、犯人は脅す為とは言え実際に大学やショッピングモールを爆破したので、矢倉議員の息子がこれからも狙われるんじゃないかと」
「なら長内班は引き続き爆発物から犯人の特定、そして矢倉議員の息子の保護をお願いします。牧田班は引き続き拳銃を奪った犯人の捜査を」
朝方、長内と千賀は矢倉議員の自宅にやって来た。するとインターホンを押す直前、長内は声をかけられた。そこにいたのは牧田と相棒の小渕。
「何してんだ?」
「矢倉議員の息子の事を聞きにな。そういや銃撃犯の足は分かったのか?」
「バイクだ。聴き込みでは銃声の後にバイクの音がしたって情報が上がった」
「そうか」
「お得意の待ち伏せ、精々頑張るんだな。じゃ」
それからインターホンを押す長内。その横顔はいい距離感が保たれたライバルを思うようなリラックス感が伺える。見たところ同年代っぽい。そんな事を千賀が考えてる時、玄関扉が開かれた。そのまま矢倉議員の妻は門まで歩み寄って来るが、華奢な印象の妻のその表情には疲労がよく見て取れた。
「どうせ警察の人ですよね?何なんですか?」
「息子さんの話を聞きたいんですが」
「話って」
「報道されてる事は本当かどうか、それと狙われてるようなので、保護も兼ねて」
「その、警察は、どういう犯罪歴か分かっているんでしょうか」
「前科は無いという事は分かっています。しかし犯行声明には特定の犯罪名が書かれています」
「その、どんな」
食い下がっているような聞き方。しかしその眼差しは泳いでいる。そんな態度を、長内は真っ直ぐ見つめる。
「ここで言うのも何なんで、お邪魔してもいいですか」
「・・・どうぞ」
終始、妻の安海の立ち振舞いは気品が伺えた。客人をダイニングテーブルに誘えば紅茶を作り、紅茶を出して椅子に座れば背もたれに背中は着けない。印象的にはお嬢様のような雰囲気を醸す、どことなく典型的な政治家の美人妻という上品さ。それから千賀は紅茶を啜った。
「矢倉議員のホームページを見ました。ブログに書いてありましたが、矢倉議員は1度離婚してるようですね。息子さんは前妻の子ですか?」
「そうですが、それが何か」
「奥さん、本当は何か心当たりがあるんじゃないですか?息子さんが犯罪者だなんて言われる理由」
「でも、前科は無いんですよね?それで、犯行声明には息子の事は何と書かれているんですか」
「まあ、強姦の常習犯だと」
紅茶を飲もうとした千賀でさえ手を止めた。安海は終始憤らない。人格者なのか、柔らかい人柄なのか。そして血が繋がっていないとは言え、息子をそんな風に言われたにも拘わらず、安海はただ静かに目線を落としたのだ。
「まるで心当たりがあるような反応だと思うんですが」
「・・・きっと、悪いのは、私です。私が、甘やかしたから」
「どういう事ですか?」
「矢倉と結婚したのは3年前です。その時、博行は大学1年で、それから半年くらい経った時・・・博行に部屋に呼ばれて、その、まだ経験した事がないから、経験させて欲しいと、迫られて」
「経験・・・それは、奥さんが強姦の被害に遭ったと」
「いえ、最終的に許したのは私です。グラビアをやっていた時、そういう事が無かった訳ではないので・・・でもそれが結局、博行を甘やかす事になってしまったんだと思います。つまり、お金を握らせて人に言う事を聞かせる事を、覚えてしまった。だから前科は無くて当然です。お金を握らせて黙らせてる訳ですから」
「・・・そうですか。何故通報しなかったんですか」
「本人から自慢気に話をされただけで、最初は本当かどうか、信じられませんでした。それに、矢倉への影響を考えると、通報なんて出来ませんでした」
それでも終始気丈と気品を身に染み込ませて態度を崩さず、玄関への見送りまでした安海。さすがにここまで行くと、政治家の妻という大変そうな事が安海なら出来そうだと感心してしまう。それから車に戻ると、助手席の長内はスマホでメールを打ち始めた。運転しながら、それを千賀は一瞥する。
「メール、速いんですね」
「だろ?メールは一斉送信が出来て便利だからな。ていうか、まるでメールとか疎い前提で見てたのか俺の事」
「すいません」
「いや、まあ普通の見方だ」
「どうするんですか?息子の事。保護という名目で話は出来ても、任意で連行なんてしたら矢倉議員が黙ってないですよね?」
「お前・・・刑事の基本くらい分かるよな?」
「えっと、あ、先ずは証拠です。やっぱり、交友関係の外堀から攻めるんですか?SNSとか」
「そういう事はむしろ現場の俺らよりサイバー課がやればいい。わざわざ現場に行かないと出来ない事を俺らはやる。せっかく息子を保護出来るんだ。現実の交友関係を少しくらいしつこく聞いたって問題は無い。いいか千賀、保護という名目だが、ホシと接する気で行け。こっちには奥さんの証言という切り札がある」
「分かりました」
表立って報道では矢倉議員の息子の身元は明かされていない。しかしネットの世界というのは時にマスコミよりも情報が速い。どこからか在学している大学の名前、そして本人の顔の画像まで出回る始末。だから駐輪場が爆破された跡が痛々しく残る大学にはマスコミがちらほらと確認出来る。駐輪場が近い東門ではなく、駐車場が近い南門に黒い車が入っていくのを何となく眺めるマスコミ。そして1人の女。長内達は先ず事務所にやって来た。場所を聞いてそれから職員室。すると2人はまるで客人のように応接間に案内され、程無くして2人の前には事務職員の河村がやって来た。
「警視庁の方から話は伺ってます。しかし本人に確認したところ、報道されてる事は事実無根だと言ってまして、警察の方の保護も拒否すると」
「いやしかし、実際に大学の敷地内を爆破されてるんですよ?矢倉博行さんの事は関係なくとも、警察は犯人を捕まえるまでこの大学を守る使命があるんですがね。それに実際、矢倉博行さんが狙われてる事は明白なんですよ、この場合、警察による保護は任意ではありません」
「報道では、狙われてるのは矢倉議員だと」
「駐輪場の爆破は、確実に矢倉博行さんを狙ったものです」
開放的で風通しも良く、他人の話に聞き耳を立てるような人などそうそう居るもんじゃないラウンジの1席に座る矢倉博行。それから博行はガムを噛みながら迷惑そうに、そして苛立ちながら2人の刑事を見る。2人の刑事も気付かない、とある女に見られている事など知らずに。
「心当たりなんて知るか。それに狙いは親父なんだろ?駐輪場とか、バイト先とか爆破されても、実際にオレを殺す訳がねえ。何もメリットがねえよ。だから別に保護なんて要らねえって言ってんだ」
「なら次はお前の事を聞く。お前が犯罪者だなんて言われる心当たりは」
「・・・あ?知るか」
「ネットの中じゃお前の身元とかバレてるからな、お前も友達にうっかり喋ったんじゃないか?自慢気に」
「喋るかよ。何もしてねえのに」
「まあ犯人が逮捕されるまでだ。我慢しろよ?勿論矢倉議員にはこの事は伝えてる」
「・・・トイレまでついて来る気か?」
「SPじゃないからなぁ。そうそう引っ付いてる事はしない。ただ簡単なスケジュールは教えてくれよ。俺らがやるのはあくまで、すぐに駆けつけられるようにする事だ」
「簡単なスケジュール?」
「大学の中に居るなら大学を張ってればいい。だがその後の予定とか、お前の目障りにならない程度には引っ付いてなきゃならないだろ?」
「めんどくせえ」
「もしお前の消息が分からなくなったらマスコミも警察もバカみたいに大袈裟に動くぞ?どっちが面倒臭い。お前だって騒がれるの嫌だろ?ほら俺の名刺だ。持ってろ」
「スケジュール、メールでいいか?」
「あぁ」
やっと開放されたといったように気怠そうに席を立つ博行。それを見る長内と、少し遠くの1人の女。そして博行が去っていくと女は人知れず席を立ち、長内達は別のテーブルで過ごしている学生に声をかけた。博行の交友関係の聴き込みをしている一方、女はスマホで文字を打つ。開いているのはチャットアプリだ。
「K、警察が息子をマークしてる。でも目的に支障はない」
「了解。こっちも予定通り紙を出す」
スマホをしまい、教二はバイクを降りた。それから目の前のポストまでちょっと歩き、封筒を投函する、ただそれだけ。
博行はトイレに入った。当然、背後の事なんか気にする事などなく。ガムを噛みながら、何となく2人の刑事の顔を思い浮かべ、小便器の前でチャックを下ろす。
「うぐ──」
博行のうなじに押し当てられたのは、スタンガンだった。流れ込む電流に痺れて体は硬直し、強烈なショックによってそして博行は気を失った。女は倒れ込む体を支えてゆっくり寝かせると素早く財布とスマホ、パスケース、キーホルダーを盗み、何事も無かったように男子トイレを出ていく。
「K、目的は達成した」
「了解」
「どこでやったんだ」
「男子トイレ。小便してる時に」
「うおー大胆だな。倒れた時、触ったか?(笑)」
「下ネタ嫌い」
「そういうヤツかぁVは、釣れないねぇ」
「Jは仕事だけしてればいい」
「もう終わってる。暇なんだ」
「K、どうするの?財布とか」
「スルーかよ」
「スマホの中にマスコミが食いつくようなものがあるかも知れない。あとは鍵で家に入って、矢倉と息子の部屋を調べる。家に行くのは矢倉の講演会の時だ」
「分かった」
長内達は柄の悪い2人組の学生達と共に居た。柄は悪いが刑事をあしらえるほどの度胸は無いらしく、その男達は長内の問いに嫌々ながらも応えていく。血相を変えた事務職員が長内達にやって来たのは、そんな時だった。事務職員に連れられて長内達が医務室にやって来ると、博行はうなじを冷やしていた氷袋を長内に投げつけた。
「何が保護だ!ふざけんじゃねえよ」
単なる被害者であれば、すぐにでも謝り、身を心配したりするだろう。しかし目の前に居るのは限りなく黒に近い被疑者。狙われる理由が博行の犯罪であれば、はっきり言って自業自得。だから長内はただ溜め息を吐いた。それでも隙を作らせてしまった自分達の責任に。
「襲った奴の顔は」
「知らねえ!クソ!」
「襲われただけか?」
「全部取られた。財布もスマホも、パスケースと、家の鍵も。全部持って行きやがったクソっ」
「先ずは被害届だな。署まで来い。それが終わったら家に送る。分かっただろ?やっぱりお前は狙われてる。家に居た方が」
「それはオレが決める。隠れるのは性に合わないんだよ」
車の後部座席のドアを開ける千賀。そこに博行が乗り込み、ドアが閉められる。すると長内は千賀を見た。まるで逮捕した犯人をさあこれから署に送ろうというような鋭い眼差し。しかしそうではないからこそ千賀はその引き締まった表情を前にふと固まってしまう。警視庁に戻ってくると、博行は明るく広い応接室に連れられた。勿論取調室になど連れていけない。被害届が作成し終える頃、長内は博行の隣に座った。
「お前、いやまあ財布もスマホも取られて落ち着けっていう方が無理があるが、どうも顔が焦ってる。スマホに見られたくないものでもあるのか?」
「いや、別に」
「狙ってるのは矢倉議員だ、だが矢倉議員を追い詰める材料としてお前を狙って、スマホを盗んだ。つまりお前のスマホには矢倉議員を追い詰める材料があると犯人共は睨んでるって事だ。お前を犯罪者呼ばわりするのが当てずっぽうならここまでしないだろ。ここいらで、情報提供してくれないか」
「情報?無えよそんなもん。ていうか親父を張ってれば犯人なんて捕まるだろ。オレの情報1つじゃどうにもならねえよ」
「それは分からないだろ?現にお前が襲われ、家が銃撃までされてる。もしかしたら次は矢倉議員の奥さんが狙われるかも知れない。情報になりそうなものならあるだけ欲しい」
「まさか・・・あいつから、聞いたのか?」
「何をだ?あいつって?奥さんの事か?」
その瞬間、明らかに博行の目線の泳ぎ具合が変わった。もうそれだけで答えかのような挙動。千賀は黙って、獲物を捉えたような重厚な眼差しを博行に突き刺す長内を見つめる。しかしそれから沈黙が流れた。墓穴を掘った事を理解したのか、突然口を閉ざしてしまった状況に長内は肩の力を抜くように小さな溜め息をつく。
「家に送ってやってもいいが、奥さんに迎えに来て貰うか」
「え?」
「どっちがいい。1人で帰るか、思わず抱いちまうほど美人な継母に迎えに来て貰うか」
「クソっ。やっぱりそうだ」
「え?」
「お前ら警察は、端からオレがやった事を知っててまとわりついて来てたのか」
「そりゃあ、自白と取っていいのか?そう思うのはお前自身が犯罪者呼ばわりされる心当たりがあるからだろ」
「・・・ふっ」
「何がおかしい」
「犯罪者だと?オレに対して被害届なんて出てないぞ?あ?そうだよな?ふざけんなよ。こっちは善良な一般人だぞ!これ以上突っ込んでくるようなら親父に頼んでお前ら潰してやる」
「分かってないな」
「あ?」
手の平で勢いよくテーブルを叩く音が響く。そこは応接室だが、まるで取調室かのように長内はその威圧感でもって博行を見下ろした。
「誰もお前を守らないぞ。奥さんだって自分から話した。矢倉議員だって、もしお前の事が世間に知られてそれでも揉み消すようなら矢倉議員の立場が危うくなる。政治家ってのはな、こういう時はさっさと重荷は切り捨てるもんだ。自分は知らない、関係ない、覚えてない、そんな風にな。善良だと?奥さんも矢倉議員もそんな風に思ってないんだよ」
「うるせえよ。証拠は無え」
「スマホにはあるんだろ?だから焦ってる。もし犯人がマスコミに流したらお前は終わりだぞ」
「だから何だよ」
「その前に捕まって欲しいとは思わないのか?」
「チッ・・・だから、オレがやった事を知ったところで、そんな事で犯人になんか繋がらねえだろ!」
「お前が金で黙らせた強姦の被害者からのリークだとしたらどうだ。シンプルにその可能性は高い。つまりお前が大人しく被害者の事を教えてくれれば、そこから犯人を追えるかも知れない」
「・・・・・4人共、同じ大学の奴らだ。勘違いするなよ?あくまで犯人を捕まえる為の情報提供だ。オレを逮捕出来ると思うな」
「何開き直ってんだよ」
しかしすでに博行の表情には余裕が伺え、微笑みさえ浮かべている。確かに開き直っているようにしか見えないが、でもその態度は新人の刑事にとっては未知なる気持ち悪さとなって不安を抱かせる。
「名目上の保護としてちゃんと署まで連れて来たんだ。これから奥さん呼ぶから、お前は帰れ。何かあったら連絡しろよ?」
博行は不貞腐れるように鼻で笑って悪態を見せる。しかしそんな安っぽい態度など長内はまるで見ていないようにさっさと歩き出し、応接室を出ていこうと扉を開ける。
「おい、家まで送れよ。いいよあいつ呼ばなくて」
「お前を襲った奴とかお前の被害者とかで忙しいんだよ。我慢しろ」
それから安海は上品に会釈した。迎えに来て貰うような歳ではないが状況が状況だけに仕方がない。そして去っていく安海と博行を見送り、千賀はさっさと歩き出した長内にどこに行くのかとついていく。
「吉田さん達は何か進展はあったんですかね?」
「電話してみるか。・・・吉田、矢倉議員の息子が強姦した被害者の事を喋った。って言ってもまだ証拠は無いから逮捕は出来ない。その前に息子が大学内でスタンガンで襲われてスマホやら財布やらを盗まれた。爆破の犯人グループの奴らの仕業だと思うが、俺らはこれから被害者達に話を聞きに行く。そっちは何か掴んだか?」
「科捜研で調べて貰ったところ、爆発しない爆発物からは指紋は出ませんでした。相当注意を払ってるようです。今は矢倉議員の事務所に届いた爆発物の差出人の住所に来てますが、どうやらデタラメですね。村上さん達は最近の黒色火薬の購入履歴から犯人の足取りを追ってるようです」
「そうか、分かった」
長内達が来たのは科捜研だった。相変わらず職員達は静かにデスクワークしている。そんな空気を新鮮そうに感じるのは千賀だけ。長内はとっくに五十嵐に歩み寄っていった。
「矢倉博行のSNSで気になる事はあるか?」
「まぁニュースになってから誹謗中傷が押し寄せてる事くらいですね」
「SNSに大宮、寺尾、三橋、黒木の名前があるか調べてくれ」
「えっと、はいはい、一括検索してみます。何の情報ですか?」
「矢倉博行が、強姦して金で黙らせた被害者達だ。本人の自白は取れたが被害者の確認もせずに逮捕出来ない」
「へー、じゃあ犯行声明はホントだったんだ。でも犯人グループはどこからそんな情報を、あ、まさか被害者からのリーク」
「それだけじゃないかも知れない」
「え?」
「名目上保護の為に矢倉博行を警視庁まで連れて来る前、大学のトイレでスタンガンで襲われてスマホやら持ち物を盗まれた。つまり犯人グループの1人が大学に居た可能性が高い。もしかしたらリークだけじゃなく、犯人グループの協力者って事もある。いや、もしかしたら犯人グループの1人かも知れない」
「そんなまさか、被害者の4人の誰かが、爆破犯って事ですか?」
「主犯じゃないにしてもリークは確実だろう。金を握らせて黙らせた強姦事件を、やった本人がペラペラと言い触らす訳はない。言い触らす事が出来るとするならそれは被害者だ」
「でもいくら警察がいきなり訪ねていって事件の事を話して欲しいって言って話しますか?それならとっくに被害届出してるんじゃないですか?」
「だが被害者だという事だけでも喋って貰わなきゃ矢倉の息子を逮捕出来ない。どんな事件でも、被害状況が不明なのに逮捕状なんて取れないだろ」
「矢倉博行のSNSに4人に関する投稿はないみたいですね」
「まあ、それはしょうがないか。じゃあ4人の身元メールしてくれ」
「はーい」
大学の近く、住宅地の人目に付かないような道で、1台のバイクが減速して静かに停止した。しかし教二はバイクを降りず、ただ近付いてくる1人の女に振り返った。
「K?」
「あぁ」
教二が手を差し出すと、女はビニール袋を手渡した。その中にはスタンガンと、博行から奪ったものが全て入っている。その最中、女はフルフェイスのヘルメットを外さない教二の顔を見る。しかし会話も無く、教二は去っていった。必要なやり取りしかしないのはむしろ悪い事をしていると自覚させる。そんな気がしながらそれから女は大学に戻り、一般人を装っていつものように講義に出席していく。友達はいない。むしろ今は誰とも話さないような雰囲気を醸さざるを得ない。だからラウンジで1人で昼食を取っていたが、それが警察に取っては話しかけやすかったのかも知れない。
「黒木ビビアンさん?」
振り返った時、そしてスーツのその2人を見た時、ビビアンは即座にそう思った。
「何なの?」
「ちょっと警察なんですけど、お話いいですか?」
警戒心を逆撫でしないように柔らかい物腰で声をかけてきて、警察手帳を見せてきた千賀とビビアンとの間に、一瞬の沈黙が流れる。
「いいけど」
「確認させて貰いたい事があるだけなんでね、時間は取らせないよ」
そう言って長内がビビアンの隣に座り、千賀は長内の隣に座った。性犯罪の被害者から話を聞くのに、挟み込んでしまっては不安を与えてしまうかも知れない、そんな心遣いだ。長内はジャケットの内ポケットから博行の写真を出し、ビビアンに見せる。
「知ってるよな?矢倉博行」
声の音量を控え、そしてすぐに写真をしまう。そんな仕草も被害者への心遣いだが、長内がふと感じたのはビビアンは特に怯えたりはしてないという事。
「本人が自白したんだ。だから確認しに来た。口に出す事も嫌だろうが、ここはどうか協力して欲しい。あいつに襲われて、金で口止めされたんだろ?」
「襲われてはない」
「え?」
「ただの援助交際。違法でも逮捕はされないんでしょ?」
長内はそこで理解した。先程の博行の開き直った態度を。
「本当に合意があればな。ただ強要したなら犯罪だ」
「50万」
「え?」
「そんな金で誘われて、嫌がる人なんかいないでしょ」
「強要、されてないと?」
「されてない」
「・・・そうか。その事、誰かに話したか?矢倉博行なら大金が手に入るとか」
「そういう事しないのも契約の内」
「その大金は、強要はなかったと言えって事か?」
「あいつは、世間知らずなんじゃない?」
「え?」
「相場が分からないだけ」
「・・・犯人グループにあいつは強姦魔だとリークしたのは被害者である可能性が高い。大金で口止めされたからこそ、密告を選択したんだ。それは被害者感情がある証拠だ」
「私は何も知らない。50万で納得してる」
「・・・そうか、分かった」
長内は諦めたような表情を千賀に見せると立ち上がった。
「邪魔したな」
相場を遥かに超える金額で強要があった事さえ黙らせる。博行ならあり得る。しかし被害者感情すら無かったと言われてしまえば罪には問えない。4人から話を聞き終え、大学の駐車場に戻った時、長内は思わず車の屋根を叩いた。それを千賀は黙って見つめる。
「千賀、4人の中で気になった人は居るか」
「えっと、そう言えば、黒木さんだけ、全然怯えてなかったなぁと」
「被害者ではあるが、犯人グループの協力者だとすれば両方の意味で白を切る。でも黒木以外は怯えてるように見えた。それは言えないからだ。しかし黒木は怯えてない。何故なら言えないんじゃなく、“言わない”からだ。黒木は俺達を見ても全く動じなかった。ありゃ、まるで知能犯の態度だ」
「じゃあ、犯人グループに協力して、博行をスタンガンで襲ったのは、黒木さんですか」
「今は仮説でしかない。だが4人の内の誰かが犯人グループに関係してる事は確実だろう。とりあえず黒木の身辺洗ってみるか」
「はい」
警視庁に戻ってきた長内達。それは空が焼けてきた頃、捜査会議室に向かう途中、長内は鳴り出したスマホを取り出した。電話の相手は久江だ。
「おう」
「長内さん、犯人グループのアジトの手掛かり、掴めそうっす」
「手掛かり?」
「多分この近くにアジトがあるんじゃないかな、って感じっす。証拠はバイクのタイヤ痕で、大学の駐輪場が爆破された2週間前にネットで買われた黒色火薬の配達指定場所の家の前にあったものっす。因みにその家は空き家で、アジトというには生活感が無いっす。とりあえず鑑識に取っといて貰います」
「分かった」
長内達はサイバー犯罪対策課にやって来た。そして長内が仲の良い登坂に声をかけると、振り返った登坂はすぐさま駆け寄ってきた。
「長さん、大変です。今通報があって、矢倉博行のスマホが週刊誌の出版社に送り付けられたそうです。しかも警察には新しい犯行声明と思われる文面が届いたそうです」
「スマホの回収には誰か行ってるのか?」
「そこは知りません。けどすぐに捜査会議室に連絡が行ったので担当の誰かが行ったんじゃないですか?」
「そうか。防犯カメラの映像はどうだ」
「時間帯的には矢倉博行が襲われた後の動きだと思います。1つだけ気になるところがこれです。正門の防犯カメラなんですが、1回出ていったと思ったら、すぐに戻ってきたんです」
「じゃあ、奪ったものを、仲間にさっさと手渡して普通に過ごしてたって事ですか」
「これだけじゃ黒木が博行を襲った証拠にはならないな。仕方ない」
「博行のスマホに黒木の指紋とかあればいいですけどね」
「そうだな」
夜の捜査会議、前崎は最初にと犯行声明を読み上げる。その一瞬、千賀はふと空席を見つめ、もう帰ってしまった長内を頭に過らせる。
「矢倉の講演会には気をつけた方がいい。犯行声明に書かれているのはこれだけですが、同封されている矢倉博行の免許証から見て、この犯行声明は一連の事件の犯行グループの仕業だと思っていいでしょう。牧田班、これまでの捜査状況を報告して下さい」
「スタンガンで襲われて拳銃を奪われた警官の供述では、通報ではなく、不審物があると交番前で話しかけてきた男性に応対している時に背後から襲われたという事ですが、上野公園で目撃者を探したところ、その時は近くで騒ぎがあって、交番の辺りには人目は無かったそうでした」
「騒ぎ?」
「爆発っぽい騒音らしいですが、詳しい事は聞けませんでした。目撃者でさえ何が起こったか分からないようでしたので」
捜査会議の報告書のようにメールが送られてきて、長内は食事中にも拘わらずスマホに目線を落とす。それはまるで思春期のような行儀の悪さだが、今更誰も咎めない。その傍らで、雄大はテレビを観る。今世間で話題になっているニュース、それは矢倉議員の周囲で起こっている爆破や爆破予告、それから息子への告発。その息子への告発に関して、息子のスマホの中にあった、援助交際を強要する内容のメールが報道され、近く息子に対して捜査のメスが入るだとか、そして矢倉議員本人に記者が詰め寄っていく様子が映し出されていく。
「やられたね。どこの記者だろ」
「いや。矢倉の息子が大学で襲われ、盗まれたスマホがマスコミに送り付けられたんだ」
「大学でって、じゃあ犯人は同じ大学の?」
「あぁ。矢倉の息子に強姦された1人だと思うんだが、証拠が無い。もしかしたらその1人が犯人グループの1人かも知れない」
「なるほど。だから犯人グループは息子の犯罪を知る事が出来たのか。矢倉議員、結構バッシングされてるよ、最初に息子の事聞かれた時に失言しちゃってさ」
「そうか。もしかしたら、世間的に信頼を失わせる事で、法案が通らないようにしてるのかもな」
「たまたま息子が犯罪者だからそれを利用したのか。にしても、犯人グループと息子の被害者のそもそもの接点って何だろう。同じ大学の人か、口止めされても言えるような近い人物。その被害者の1人の身辺調査どこまで行ってるの?」
「家族構成と、経歴は一通りな。父親はフィリピン人、母親は日本人、特に気になるような点は無い、普通の家族、普通の経歴だ。彼氏はいるみたいだが、友人はいないような評判だ」
「ふーん。拳銃が奪われた方からは進展ないの?」
「拳銃が奪われた際の目撃者はいない。だが、黒色火薬の配達場所からバイクのタイヤ痕、ゲソ痕が取れた」
「犯人グループの特定にも近付けてるし、アジトの場所も手掛かりが掴めそうだし、順調だね」
「まあな」
「俺的には、その矢倉議員の講演会、囮かも」
「そうかもな。そもそも気を付けろというだけの犯行声明なんて聞いた事ない。明らかに別に意図はあるだろう。だがそれが何かは分からない」
「張り込みはするんでしょ?」
「一応な」
そして矢倉議員の講演会当日。雄大は自転車を走らせていた。途中コンビニに寄って水を買い、水分補給しながら、着いたのは矢倉議員の自宅。とは言えインターホンを押す事などなく、ただ不審者のように遠くから眺めているだけ。
「何してるの?」
雄大が振り返ると、そこにいたのは駒村と吉田だった。しかし驚く事なく、雄大は2人に会釈する。
「どうも。分かってるんでしょ?昨日俺、父さんに矢倉議員の自宅に行くって言ったから。父さんに帰るように注意しろって言われた?」
「いや逆だよ。問題に巻き込まれないように保護してって」
「そっか。元々矢倉議員の自宅に張り込む予定だったの?」
「捜査内容は言え──」
「予定はなかったよ。他の捜査もあるし、何たって今日は矢倉議員の講演会だし」
「ちょっと吉田さん」
「いいんだよ、むしろ雄大君の保護を名目にして張り込み出来るんだから」
「それは、そう、ですけど」
「そんな事より、雄大君はどうして張り込んだ方がいいって思ったの?」
「犯人グループはこれまで、人の目を誘うような行動をしてる。人を殺さない爆発とか、犯行予告なんて正にそうだ。犯人グループの動機は3割負担撤廃法案を発案した矢倉議員。もし仮に、命を狙うんじゃなく立場から引きずり下ろすのが目的だとしたら、犯人グループが欲しいものは矢倉議員を陥れられる情報。そういう証拠みたいなものがあるとしたら、事務所か自宅か。もし忍び込むとしたら、例えば警察がどこかを張り込んでる間とか」
「そうだね。犯人グループは、まだ人は殺してない。というか、そもそも爆発物を使っても、人を殺すのが目的じゃない」
「そんなの分かりませんよ?相手は犯罪者なんですから」
「犯罪者にも種類がある。目的がある奴、無い奴。この事件に関しては何かこう、信念を感じる」
「信念・・・」
雄大は腕時計を見下ろした。もう講演会は始まっている。息子は大学、妻は講演会の付き添いで、今家には誰も居ない。忍び込むとしたら絶好のタイミング。こういう時の沈黙はむしろ気まずくはない。高級住宅街だから騒音もなく、張り込みに集中出来る。3人で立っていたらそれはそれで怪しいので、吉田と駒村は刑事らしく車に乗り込んでいく中、3人が見えない道から1人の男が近付いて来た。ゆっくりとバイクを減速させ、ガレージの前で停止した教二。しかし降りようと思ったら見えたのはマウンテンバイクを傍に置く不審者、そして明らかに張り込みをしている黒い車。一瞬の静寂の後、教二はすぐにバイクを走らせた。ターンして去っていくバイクに、雄大はフロントガラス越しに2人と目を合わせ、発進していく車について自転車を走らせる。
静寂を取り戻した高級住宅街。ビビアンは周囲を気にするような不審な挙動はせず、迷わずに1軒の高級住宅に入り、鍵を使って扉を開けた。先ず向かったのは2階。リビングとかダイニングとかではなく、個人の部屋。適当に探し当てた、恐らく矢倉議員の部屋に入ると、そしてビビアンは静かに、だけど素早く引き出しなどを漁っていく。それから手に取ったのは領収書の束。それをとりあえずバッグに放り込み、次に手に取ったのはファイリングされた何かの書類。読んでも分かる訳はないのでとりあえずバッグに放り込み、また適当に引き出しに手をかける。しかし鍵がかかっている為か、デスクに備え付けられたその引き出しはガタガタとビビアンを阻むが、その抵抗はむしろ反射的に力を込めさせ、直後に引き出しは無理矢理開けられた。時間はかけられないのでさっさとバッグを背負い、そして人知れずビビアンは矢倉議員の自宅を出ていき、静かに門を閉じる。何が証拠になるかは分からないが、それでも何か矢倉議員を陥れられるものがあればいい。そんな満足感を背負って歩き出そうとした矢先、ビビアンは1人の男と目を合わせた。マウンテンバイクに跨がったまま、片足で立っている雄大だ。
「犯人グループは人の目を誘うのが好きみたいだからね。あのバイクも囮かも知れないと踏んで戻ってきてみたら、案の定この通りだ」
「誰?警察?」
「カッコ良く言うと、警察に協力してる私立探偵みたいなものだよ」
「・・・それ、ただの一般人。何なの?」
「何なのって、一般人だって、犯罪者を捕まえる権利はある。常人逮捕、又は私人逮捕って言って、相手が現行犯なら警察に引き渡すまで誰でも取り押さえておく事が出来る」
「触ったら痴漢で訴える」
「じゃあもし痴漢したとして、痴漢された心当たりを何て答える?」
「え?」
「不法侵入、そして窃盗をしたら男に捕まえられたって言うのか?」
雄大を睨みつけるビビアンだが、雄大はむしろ勝ち誇ったような眼差しを返す。
「黒木ビビアン」
ビビアンが振り返った先にいたのは駒村だった。その手には開かれた警察手帳が握られていて、ビビアンは途端に戸惑う。
「こっちだってバイクを追いかける車を囮にしたんだよ。まさか女の刑事を痴漢呼ばわりしないよな?」
「不法侵入と窃盗の現行犯で逮捕します」
一方、長内と千賀は矢倉議員の講演会場になっているとあるホテルのエントランスにて、不審者が居ないかと見回っていた。現在講演会が行われている1000人規模の大ホールにはSPは勿論、刑事達が中にも外にもうろうろしている。そんな時に長内のイヤホンに無線が入った。
「長内さん!大変です、今ホテルの従業員がトイレで不審物を見つけたそうです。大ホールのある3階だそうです」
慌てずに急いで向かっていく長内は途中千賀と合流し、階段を上がっていく。トイレに着けばそこには牧田班の刑事達が居て、その手には老舗の和菓子屋の紙袋が握られていた。近付いた長内を横目にしながら、牧田班の刑事は紙袋をホテルの従業員に渡す。
「ただの土産の忘れ物だ」
「何だよ」
再び鳴る長内のスマホ。千賀と共にエントランスに戻りながら、長内は画面に表示される駒村の文字を見る。
「長内さん、やりました。黒木ビビアン確保しました。講演会の裏で矢倉議員の自宅に忍び込んで、色々な書類を盗んでたんです。それを家の前で待ち伏せて確保です」
「おうよくやった」
「今警視庁に戻ってます」
「あぁ」
それから取調室にて、駒村はビビアンと向かい合う。事実確認を終えても終始ビビアンは目の前の刑事とは目を合わせようとはせず、その悪態に駒村はむしろ表情を引き締める。
「誰の指示なの?」
「知らない。お互い名前とか誰かも分からないようにしてる」
「犯人グループは何人?」
「知らない」
「矢倉博行を襲ったのはあなた?」
「知らない」
「これ、矢倉博行が襲われた時間帯の大学の防犯カメラの映像。出ていってすぐ帰って来たあなた、何してたの?」
「コンビニ行こうと思ったけど、お金が無いからやめただけ」
「矢倉議員の自宅にはどうやって入ったの?」
「それは・・・」
「鍵だよね?じゃあ何で鍵を持ってたの?」
「渡された。仲間に。どうやって手に入れたかは知らない」
「矢倉議員にどんな恨みがあるの?」
「え?別に。私は、協力、してるだけ」
「鍵を渡されたって、会ってるんじゃないの?」
「顔は分からないようにしてた」
不法侵入と窃盗は認め、博行を襲った事は否認。そして犯人グループの事は話さない。そんな聴取になったところで、駒村は壁に寄りかかっていた吉田を見る。すると吉田はビビアンに近付いた。
「盗んだ書類は仲間に渡す予定だったの?」
「そう」
「君と犯人グループは、どうやって知り合ったの?」
しかし沈黙が流れた。まるで根比べかのように吉田と駒村はビビアンを見つめ、ビビアンは言う事と言わない事を選ぶように口を閉ざす。
「これからの計画は?」
再び吉田の問いは宙に浮く。何となくここから核心をつくような質問をする雰囲気だが、ビビアンは途端に口を閉ざし、それから吉田は諦めたように静かな溜め息と共に目を逸らしていく。
ビビアンから押収した物が広げられた捜査会議室には村上と久江が居た。捜査二課の人に応援に来て貰い、手当たり次第盗まれた物は一体どんなものかを確認していく。
「運良く汚職の証拠的なものなんてあるものかねぇ。そもそもそういう疑いすら無いんだろ?」
「そうっすねぇ」
「久江お前、今から矢倉議員の秘書になって探り入れるか」
「今からっすか!?どんだけ時間かかるんすかそれ」
領収書の束を手に取り、適当にパラパラと捲っていく久江の隣で村上は1つのファイルを手に取り、適当に捲っていく。
警視庁に戻って来た長内と千賀は、マジックミラー越しに取調室を見ていた。その取調室に居るのは勿論黒木ビビアン。吉田と駒村も長内達の下にやって来て経緯を話していく。
「話さないってのは相当な仲間意識なんだろう。黒木のスマホから手掛かりは出たのか」
「犯人グループ内の会話は自作チャットアプリで行われているようで、しかもセキュリティがプロレベルだそうです。犯人グループの1人にはプログラマーが居るんですかね」
「恐らくな」
「おう、全員集合」
「長内さんの方は何か動きはあったんすか?」
「いや、やはり黒木ビビアンから目を逸らす為の囮だったんだろ。そっちは何か出たのか?」
「何も出なかったっす」
長内と千賀が取調室に入るとビビアンは一瞬だけ2人を見る。
「お前が盗んだ書類から汚職の証拠は出なかったぞ」
「ふーん」
「お前らの目的は法案潰しであって、政治家本人じゃないからな。それでも何か出ればラッキーってところだったんだろ?それで次は何をする気だ」
流れていく沈黙。長内は静かに椅子に座り、怯えてもない、イラついてもない、ただ口を閉ざすビビアンを見る。
「矢倉博行は送検される事になった。4人の被害者の内の1人が被害を認めたからな」
「・・・ふーん」
「嬉しくないのか?」
「別に、どっちでもいい。お金貰ったし」
「お前は、矢倉博行の犯罪を知らしめる為に犯人グループに協力してるんだろ?つまりお前の目的はこれで達成した訳だ。犯人グループの奴らもそれぞれ目的があるんだろ?」
犯人グループの話をすると途端にビビアンは口を閉ざすが、それから沈黙を破ったのは長内でもビビアンでもなく、入って来た吉田だった。
「長さん、矢倉議員の事務所から通報があって、矢倉議員のパソコンが盗まれたそうです」
「事務所を張ってた牧田班の奴らはどうしてたんだ」
「それが、バイクで近付いてきた不審者を追いかけたそうで、それで戻ってきたスタッフがパソコンが無いのに気がついたと」
「くそぉ、どんだけ囮使ってんだ。黒木、またマスコミに送り付けるのか?いやそれしか使い道無いよな、お前らの目的は矢倉議員の信用を失墜させる事だからな。そしてまた出版社に通報させて、結果的には警察にも調べさせようとしてるんだろ?」
「でも、悪い奴なら、捕まって当然なんじゃないの?」
「そういう言葉はな、犯罪者が言ったところで説得力に欠けるんだよ」
息子が犯罪者だという犯行声明が出された時、当然の如く矢倉議員はそれを否定した。しかしそれから博行の犯罪が明らかになり、そして矢倉議員のパソコンがマスコミに送り付けられた事で政治献金の私的流用が明らかにされた事も合わせ、矢倉議員は再びマスコミの格好の餌食だ。世間からの信用は失墜したと言っていい。情報源が犯罪者なだけに、矢倉議員は辞職する事はないとか、ネットではかの犯人グループは英雄だのニュース番組は今日も矢倉議員の話題一色だ。
「矢倉議員の自宅の前で取ったバイクのタイヤ痕は、黒色火薬が配達場所になっていた空き家の前で取ったものとは一致しなかった」
「少なくとも、囮役が2人居て、事務所に忍び込んだ奴が居て、爆弾を作る役が居るのか。あの黒木って人のスマホ、調べてるんでしょ?何か手掛かりは見つかったの?」
「いや、まだチャットアプリのパスワードが分からない。チャットアプリの内容が分かれば犯人グループの詳細が分かるかも知れないんだが」
「そうかぁ、折角俺が捕まえたのにな」
「捕まえたって、雄大が?」
「ああ厳密に言えば、俺のお陰って事」
雄大の母、玲子は優しく見守るように頷くだけ。雄大が父に協力しているのは高校生の時から。もう日常茶飯事なのだから、すごいねとか、無理しないでとかはもう言わない。大学3年生にもなれば、もうそれくらい分かってるから。
「何か悔しいなぁ。もしかしたら、今度は矢倉議員の命が狙われるかもな」
「汚職を暴いても辞職しないからか?」
「何か、ずっと違和感なんだけどさ、本当に矢倉議員の汚職を暴くのが目的なら、爆弾なんて必要ないんじゃないかな。3割負担撤廃法案もまた、ただの口実なのかな」
「口実?まさかそれで本当にテロでも起こすっていうのか?」
「何とか犯人グループの素性が分かればなぁ」
翌日、午前10時、静かにバイクが停まった。そこは誰も気に留めない、どこにでもあるような空き家。隠すようにバイクを停めると教二はガレージに入った。車は無い。あるのは1台のバイクと、爆弾の材料と、完成した爆弾。体に巻き付けるように作られたその爆弾の前に立った時、ガレージに1人の男が入って来た。
「お前がKか。ヘルメット外したらどうだ?どうせもう会う事はないんだ」
「顔が見たいだけなら後でじっくり見ればいい。嫌でもテレビに映る。準備はいいか」
「勿論」
それから2台のバイクが走り出した頃、長内と千賀は取調室に居た。相手にしているのはビビアン。
「彼氏がいるって聞いたんだが、まさか彼氏も犯人グループの一員なのか?」
「それは違う。彼は知らない」
「そろそろチャットアプリのパスワード教えろ。お互いの顔と名前は分からないんだよな?そこまで徹底してるなら会話を見られたって問題無いんじゃないのか?」
「だったら、ロックなんか掛けない」
「まぁ、だよな」
昨日とは違って、今日のビビアンは口数が多い。それが何を意味するのかは分からないが、その落ち着いた態度は長内の口数も自然と増えていく。しかし事実上黙秘のまま30分経った頃、国会議事堂裏手の道路にある茂みの1つが、爆発した。幸い近くに通行人は居らず、国会議事堂を警備している警官がただ立ち尽くしただけ。まるで映画のような大爆発。爆炎は周囲数メートルに及び、映画でなければ恐怖でしかない。
「長さん!」
取調室に入って来る吉田。
「国会議事堂の真裏で、大爆発です」
「な、んだと・・・」
長内はビビアンの顔を伺う。その表情は不気味なほど落ち着いていた。しかしだからこそ、それは確信を連れてくる。
「まさかお前らじゃないよな?おい!」
ビビアンから伺えたのは、何故か他人事かのような涼しげな態度。
「パスワード、ルート2」
「え?」
「だからパスワード、ひとよひとよにひとみごろ。ひらがなで。チャットアプリに警察へのメッセージ、多分もう来てる」
「・・・何だと?まさか、お前が、捕まったのも計算の内だったのか?国会議事堂裏の爆発が・・・合図なのか?ここまでも計算して・・・・・」
燃えている茂みに、警官が集まっていく。爆発の規模だけにあまりの爆音で、すぐにやじ馬もちらちらと見えてきた。
「下がって!」
やじ馬の中には手作りのプラカードを抱えている年配者も居る。プラカードに書かれているのは、「3割負担撤廃法案反対!」。そんな年配者達は各門の前に居るが、それから直後に再び大爆発が起きたのもあまり人気の無い、国会議事堂裏の道路の茂み。しかし今度は警官が尻餅を着き、2回も続けばテロだと無線が飛び交い、パトカーがパトランプを回していく。
「長さん!チャットアプリ、開きました」
「これは警察への通達だ。国会議事堂裏の爆発は始まりの合図だ。通達を見ている頃にはもう手遅れだ。最後の爆発を止めるには、撃ち殺せ」
吉田にスマホを見せられ、長内のその表情に殺気さえ宿る中、国会議事堂の南門を少し遠くから見据えられるところで1台のバイクが停まった。そこはすでにテロが起きたと騒がれていて、1台のバイクが停まった事など誰も気にしない。それから教二はバイクを降り、プラカードを持って集まっているのにそれどころじゃなさそうな人達の間を縫っていく。高揚が体を突き動かしていく。ここまですべてが完璧だ。アナログで爆弾を作り、散々警察の目を誘ってきた。すべては今日、もっと注目を浴びる為に。ようやく人だかりを抜けると、教二は警官から盗んだ拳銃を抜き、国会議事堂の門前に立つ警官に向けて発砲した。銃声が響き渡ると直後に銃弾は門に当たり、1人の警官のすぐ傍で金属音が立ち上る。ビクッとした警官は勿論、その一瞬ですべての目がそこに向けられると、教二はリュックごと隠して着ていた薄手のコートを脱ぎ捨てた。悲鳴さえ上がらないほどの突然の緊張感。静かに後ずさる人だかり。この日本で、目の前には爆弾を体に巻いた男が居る、そんな恐怖が何の前触れもなく降りかかってきたのだ。そこで再び教二は発砲した。銃弾はまたもや門を鳴らし、警官達は拳銃を抜き、無線機に呼びかける。そんな時に取調室に慌ててやって来た駒村。
「長内さん!国会議事堂で爆弾を体に巻いた男が。しかも犯行声明がマスコミ宛てに送られたようです」
国会議事堂とあってか、すでに特殊部隊SATが出動していた。しかし特殊部隊に対抗しているかは分からないが、そこにはすでにマスコミ各社の記者達が集まっていた。警察車両がやって来て、人だかりが逃げ惑う中、警察からマスコミに下がれと指示が飛ぶ。
「特殊部隊と思われる人達が次々と犯人を取り囲んでいます!」
盾を構えた隊員がぞろぞろと円を作り、教二は包囲される。テレビの画面にはもう犯人の姿は映らない。それでもリポーターは職業柄喋る事を止めず、スタジオに戻ると犯行声明が読み上げられる。
「大学とショッピングモールの爆破、矢倉議員の事務所への爆破予告、自宅への銃撃、矢倉議員と息子への告発、これらを計画、実行した我々の最後の要求は、犯人の射殺だ。爆破を阻止しなければ例え特殊部隊でも周囲の人間は無事では済まない。えー、以上が犯人グループからマスコミに送られた声明文です。えー現在爆弾を体に巻いた男は特殊部隊に包囲され、膠着状態が続いているようです」
捜査会議室でテレビを見ている中、長内の手に握られたスマホが鳴り、長内はスマホを見る。それはビビアンのスマホで、チャットアプリには新しいメッセージが送られていた。
「テレビは見ているか?オレらの要求は射殺だ。日本はバカみたいにテロには屈しないって言ってるが、じゃあ犯人からの要求が射殺だったらどうする?口では屈しないとか言って要求を飲むか?でも早くしないと爆発するぞ。威力は近くに居るSATの奴らでさえ無事じゃ済まないほどだ。無惨に隊員を殺すか、テロに屈して要求を飲むか、それがお前らの選択肢だ」
「・・・・・くそっ」
真っ先に理解するのは、メッセージを送ってきたのはビビアンでもなく、SATに囲まれている男でもないという事。今も犯人グループの別の1人がどこかから高みの見物をしている。それが無性に怒りを込み上げさせる。同時に、珍しく冷静さを欠いた長内に周りはふとした顔を向けていく。
「どうしたんですか?」
捜査会議室の仕切り役である前崎がとっさに問いかけると、長内はスマホを前崎に見せた。
「黒木のスマホに、警察へのメッセージが来た」
明らかに顔色を変える前崎。
「前崎、特テロに手貸して貰ったらどうだ」
「いや、ですが犯人は能力者じゃないですし、それに、すぐに射殺すべきでしょう」
「お前、それじゃテロリストの要求に応える事になるぞ」
「テロに屈しないなんて、ただの建前ですよ。隊員の命を危険に晒す訳にはいきません。それに犯人は複数です。たった1人の為に隊員が殉職したら、それこそ笑い者です」
「・・・・・そうだな」
「すぐに警備部長に射殺の許可を要請します」
それから長内と千賀は取調室に入った。新しく情報は入って来なくとも計画自体は知っているのだから至って冷静なビビアンは、退屈そうに欠伸をした。
「おい!」
「うるさいなぁ。もう私の役割は完璧に終わったんだから、私から言う事は何も無いけど」
「あ?役割?」
「わざと捕まって、チャットアプリを警察に見せる。ここまでが私の役目」
「どうやって知り合った」
「私は、ただ誘われただけ。後の2人の事は知らない」
「・・・お前ら、3人組か?」
「え、あ、いや私が連絡してるのが2人ってだけで、他にいても、私は分からないし」
「他の2人の役割、知ってるんだろ?話せよ」
「それは、ほんとに知らない。お互いの目的とか話さないし、利害の一致で組んだだけ」
「どうやって誘われた。矢倉博行にされた事を誰かに話したのか?」
「あいつ本人が言い触らしたのか、他の被害者の3人から情報を得たのか、そういう感じなんじゃない?私はある日突然メールが来て、復讐したいなら手伝ってやるって、その代わりにこっちの事も手伝えって。これって司法取引?正直に話したら私の罪軽くなる?」
「そら、勿論。でもお前、50万で納得してるって言ったよな?何で復讐したんだ」
「1回だけって約束だったのに・・・また誘ってきたから。ほんとは、顔も見たくないのに。だから」
「そうか。本当に何も聞いてないのか?他の2人の目的」
「分かんないけど、でももうこれ以上の計画は無いのは確かだよ。あいつに復讐して、警察を弄んで、テロに屈する日本を嘲笑う。それで、ほんとに射殺したの?」
「まだだ。射殺の許可を要請してる最中だ。本当に射殺が目的なのか?」
「え?」
「ここまでやって、最後に死ぬなんてバカだろ」
「それは分からない。顔も名前も知らないし、どんな人かも知らないし。自殺したいけど出来ないから死刑になりたいってだけじゃないの?そういう人って、何でもするじゃん」
「リーダーは誰だ。K、J、V、お前、ビビアンだからVか?」
「そう。多分Kかな。指示出してたのKだし」
「射殺されようとしてるのはどっちだ」
「K」
「Jの役割は」
「爆弾作る事」
一瞬だけ腕時計に目を落としてから長内は千賀を見た。その表情はもう聞く事は無いだろうという落ち着いたもの。捜査会議室に戻ると、長内はそのまま前崎に歩み寄った。
「どうだ」
「いや、許可はまだです」
「せっかく犯人とやり取りが出来るんだ。爆弾の解除方法とか、探りを入れてみる」
「はい」
「長さん、ネットで犯人の身元が晒されてます。こっちでも確認したところ、名前は唐州教二で間違いないそうです。晒されてるのは高校の卒業アルバムの写真で、現在21歳」
「すぐに動機とか身辺洗ってくれ」
「はい」
「長内さん、僕も吉田さん達と行ってもいいですか」
「あぁ頼む」
適当な椅子に座り、長内はスマホを操作していく。
「警視庁捜査一課の長内だ。お前は爆弾を作る担当のJだろ?爆弾の解除方法を教えてくれ。Kを射殺した後の事を迅速に対処したいんでな」
チャットアプリにそんな文面が送信されると、長内は一旦スマホをテーブルに置き、溜め息と共に手を擦り合わせて汗を拭う。
「射殺が確認出来たら教えてやる」
「長内」
スマホを覗き込んで来たのは牧田。
「それ、テレビに繋げられないのか」
「そこまで詳しくない」
「チッまぁいい」
「確認・・・。もしかしたら近くで眺めてるかも知れない」
「集会に紛れてるってのか?テレビで見てる可能性は」
「いやテレビじゃSATで見えない。少なくともリアルタイムで見れるようにはしてるはずだ。射殺されなかった場合、すぐに遠隔操作で爆破出来るように」
「どうやって。現場に居たとしても警察車両がガードして見えない」
「それは知らん」
長内が再びスマホを操作していく。
「黒木ビビアンも唐州教二も目的ははっきりした。お前の目的は何だ」
「そんなものあるか。オレは楽しめればそれでいい」
「自分の知識を生かせる。それがお前にとっての利害の一致か?」
「そうだな」
「爆弾にタイムリミットはあるのか?」
「爆弾には無いが、あと1時間くらいは待ってやる。いやもしかしたら30分かもな」
「どうすりゃいい」
そんな呟きを漏らした牧田、そしてスマホをテーブルに置き、手を擦り合わしたり天を仰いだりする長内の下には前崎もやって来て、スマホを見ると前崎も考え込む。
「例えば、体にカメラを取り付けさせて、それで状況を見ているんじゃないですか?」
「あぁ、それはあり得るな。そうすればSATが近付いて来たらすぐに爆発させられる。だがそれならむしろ場所を特定するのは難しいな、電波が届くならどこに居てもいいからな」
「爆弾には遠隔操作だけでしか爆発しないって言ってるよな?ならいっそ電波を妨害したらどうだ」
そう言って牧田が前崎を見ると、前崎は階級は上でも先輩のベテラン刑事の顔を伺うように長内を見る。
「いやでも犯人の言う事を鵜呑みするのは危険です」
「例え時限装置があったとしても、遠隔操作を妨害して素早く制圧するのは1つの手だぞ」
「爆弾を巻いた本人が自爆したらどうするんですか」
「それなら電波を妨害しながら現場の犯人を説得するしかない。身元は割れてるんだ。とりあえず電波は妨害しながら、そして動機を突き止めて現場の犯人は説得、勿論射殺の用意はしておく。それしかない」
牧田の提案に長内も頷くと、前崎は意を決したように頷いた。
「俺はなるべくこれで気を逸らしておく」
「分かりました」
捜査会議室の電話が鳴り、1人の刑事が受話器を取る。
「前崎係長。警備部長から、射殺の許可が下りました。現場では狙撃準備は整ってるので、いつでも射殺出来ます」
前崎が頷き、牧田が他の刑事達を連れて会議室を駆け出していく中、長内はスマホを手に取った。
「どうやって状況を確認してるんだ。やじ馬に紛れていてもテレビを観ていても無理だろう。唐州にカメラでも持たせてるのか?」
「時間稼ぎか?面白いぐらいにSATは近付いて来ない。メガホンで説得してるが無駄だ。K自身が死にたがってるからな。オレはKをフォローしてやるだけ」
「お前も唐州もお互いの事知らないんだろ?どんな犯人だって動機がある。警察の意地ってやつを見せてやる」
「頑張れよ」
覆面パトカーが停まっているとあるアパートの一室、大家に鍵を開けて貰い、吉田と駒村と千賀は唐州教二の自宅を捜索していた。しかしそこはまるで調べられる事が分かっているかのように不気味なほど整頓されていて、それから千賀は諦めるように息を吐き下ろした。
「用意周到ですね。これじゃまるで終活ですよ」
「そうだね」
間取りは1K、部屋の広さは8畳ほど。置いてある家具はキッチンの近くにある1人用の丸テーブルと椅子、そして小さなテレビだけ。他にも基本的な家電はあるから生活感はあるが、本当に住んでいるのかと思ってしまうくらい物が無い。押し入れを開けてみてもそこには布団や多少の衣類があるだけで、家族の写真とか、犯行動機が分かるような手掛かりが何も無く、やがて3人は覆面パトカーに戻った。
「次は実家ですか?」
「そう。時間が無いからすぐに行こう」
テーブルに置いてあるビビアンのスマホが鳴り、捜査会議室でテレビを観ていた長内はとっさに目を向ける。
「あと10分だ」
「前崎、電波妨害は出来てるのか?」
「聞いてみます」
時間稼ぎの妨害策なのか、急にプレッシャーをかけてきた文面を前に長内は深呼吸し、込み上げる焦りを吐き出していく。しかし実際にカウントダウンしている訳じゃなく、もしかしたら急にあと3分になるかも知れない。そんな拭いきれない不安の中、前崎が受話器を一旦下ろす。
「長内さん、電波妨害、あと10分もあれば出来るそうです」
「おい今犯人からあと10分ってメッセージが来たんだよ。早くしろって伝えろ」
「あ、はいっ」
直後にスマホが鳴り出し、長内はとっさにビビアンのスマホを手に取るが、鳴っているのは長内のスマホで、着信は村上からだった。
「長内さん、矢倉議員の自宅に黒木を忍び込ませる為に囮になったバイク、唐州の物だと確認出来ました。で、国会議事堂周辺のNシステムや防犯カメラで唐州を見つけられまして、そしたらまるで一緒に走ってるように見えるバイクがもう1台ありました。もしかしたらもう1人の仲間かも知れません」
「おうそうか」
サイバー犯罪対策課の登坂が防犯カメラの映像を確認している傍ら、村上と久江は駆け出していく。一方国会議事堂前では依然として膠着状態で、爆弾を巻いた教二を前に、盾を構えるSAT隊員達はジリジリと汗ばんでいく。カウントダウンは無いが、確実に時間は無いという切迫感を物語るように牧田達や吉田達は車を走らせる。
「あと5分」
遊ぶような会話もなく、しかし向こう側に不敵な笑みが見えるようなメッセージに長内はスマホを取る事はせず、腕を組んだまま何となくテレビに顔を向ける。それから国会議事堂から500メートル離れた高層ビルの1階に入っているカフェで、城島はスマホを見ていた。刑事の長内とやらは反応してこない。カウントダウンはしてないが、もうそろそろ5分だ。城島は爆弾の遠隔スイッチの電源を入れるがその直後、教二の体に巻かれた爆弾に付けたカメラに繋いでいる画面が突如真っ暗になった。音は出してないがテレビを起動している別のスマホを見ながら、それでも城島は爆弾の起爆スイッチを押す。しかし爆発は起こらず、城島はすぐに片付けを始めた。
「長内さん、電波妨害完了です」
「あぁ」
その時、教二は目線を落とした。腕辺りにある小さなLEDランプが光ったのだ。それは電波妨害を感知した証。すると教二は素早くポケットから起爆スイッチを取り出し、それを天に掲げてみせた。盾が擦り合い、SATが蠢く。
「長内さん!唐州が動き出しました。起爆スイッチらしきものを持ってます」
受話器を耳元に当てながら前崎が伝達する最中にも、刑事達は走る。牧田達は教二が通っているという大学に向かい、吉田達は教二の実家へ向かう。一方村上達は登坂と連携を取りながら城島を追いかけていく。長内はふとテーブルに置いているビビアンのスマホに目線を落とす。電波妨害ですら、犯人達は計算していたのか。急に爆発までの時間を縮めたのは唐州教二を調べる時間を与えない為か。
「長内さん!唐州が国会議事堂に向かって歩き出しました。SATの班長はここが許可すればもう射殺すると」
長内はゆっくりと溜め息を吐いた。爆発の規模は分からないが、国会議事堂の敷地内で自爆テロなどあってはならない。ましてやテロリストを敷地に入れる事さえあってはならない。だから直後、長内は小さく頷いた。牧田や吉田達がその報せを聞いたのは車の中だった。特段怒りを込み上げさせたり、何かを叩いたりはしない。ただ溜め息を漏らしたりして結果を受け入れるだけ。そして吉田達は教二の実家にやって来た。テレビではすでに犯人の射殺が報道されていて、インターホンに応えて玄関扉を開けた教二の母親、美奈子はまだ何が起こったか分からないような表情をしていた。唐州教二の事を聞こうと思っていたが、遺体を確認させる為に警視庁まで来て貰い、そして美奈子は教二の遺体と対面した。
「教二が高校1年の時に離婚して、それからだと思います。教二の性格が歪んでいったのは。私自身は大して気が付かなかったんですけど」
待合室。静かにではあったが一頻り泣いた後、落ち着いて話す美奈子を長内と千賀、吉田と駒村は冷静に付き添う。
「性格が歪む原因としては学校の人間関係ですか?」
隣に座る駒村が問いかける。
「そうだと思います。教二、子供の頃から皆のリーダーみたいな感じで、頭が良いので学級委員長とかやってたり、でも離婚してから、何かからかわれたりして、それから皆とは距離を置くようになって」
「大学ではどうだったんですか?大学では別に離婚の話なんて落ち着いてるって言うか」
「大学に入ってすぐ一人暮らし始めたんです。だからそれからは話す機会も減ったし、ああでも、何か彼女が出来たってのは聞きましたけど」
「会った事あるんですか?」
「私はありません」
「事件に関してなんですけど、自殺願望とか、そういったのは」
「週に1回は電話してますけど、そんな感じはしなかったですけど」
犯人は射殺された。それが事件の終結だが、まるで飛び火したかのようにマスコミは過熱する。何故なら射殺はテロリストの要求であり、つまり日本はテロに屈したから。試合には負けたけど戦いには勝ったみたいな事がネットにも書かれていて、それは防衛大臣から総理大臣まで世間の声に対して言及するという事態にまで波及した。そんな総理大臣の短いぶら下がり会見みたいなものをテレビで観ながら、雄大は長内と玲子と夕食卓を囲む。
「ずっと成績が良くて、大学の模試でも全科目トップか、犯罪者じゃきゃもっと色々出来たのに」
「そうだな。一応身辺は洗ったんだが、何かパッとしないんだよな、動機の辺りが」
「このままじゃ盛大な自殺だよね。わざわざ3割負担撤廃法案を犯罪計画に絡めた理由は何だろうな。そういうところ何か分からないの?3割負担撤廃法案に反対する理由とか」
「いや、まだ分からない。高校1年の時から母子家庭だが母親も別に病気じゃないし。例え貧乏だとしても、3割負担を撤廃する代わりに低所得者用の療養費制度が作られるし、むしろ低所得の人間には都合がいいものだ。3割負担撤廃と自殺はやっぱり繋がらない」
「そもそもテロリストの要求の中にそういうの全く無かったし。モヤモヤするなぁ。それでもう1人の犯人は?」
「バイクのナンバーも分かってたからな、捕まえたは捕まえた。だがスマホにはチャットアプリのデータが無く、犯人グループであると断定が出来ない。しかも本人もだんまりだ」
「データを消した、いやそもそもスマホが2台あったか。それって証拠不十分になるの?」
「自供させられなかったら、そうなるだろうな」
「黒木ビビアンだって結局不法侵入と窃盗だけでしょ?唐州って人、ここまで計算してたなら、すごいな。首謀者は今や被疑者死亡か。何か、台風みたいな事件だったな」
翌日、土曜日だからと雄大は玲子と共にとある大学病院に居た。玲子の父親が入院していて、そのお見舞。街を歩いていたら車との接触事故に遭ってしまい、右足を骨折して2ヶ月前から入院している。いつものように着替えを持っていき、何となく一緒に過ごす、それだけなので、雄大はまたいつものように屋上庭園に向かって暇を潰す。
「こんにちは」
「あぁどうも」
花壇に水をあげているナースはいつものように挨拶してきて、雄大は花壇の側のベンチに座る。
「今日は本は読まないんですか?」
雄大が顔を向けると、ナースは笑顔のまま、申し訳なさそうに恥ずかしがる。
「あ、すいません、何となく気になっちゃって」
「この前のは読み終わったんだよ」
「あ、そうなんですね。何か、悩み事ですか?」
「え?」
「私、独学で心理学を学ぼうと思って、そういう本をいっぱい読んでるんです。患者さんの悩みとか、沢山聞いてあげたくて」
「あー、てことは普段とは違う行動パターンだから、何か悩んでると思ったのか」
「あ、すいません、違ってました?」
「悩んではないけど、モヤモヤはしてるかな。じゃあさ、自分の目的とは本来関係ないところまで問題を巻き込んで大事にする人間って、どういう人間?」
「え・・・っと、そうですね、やっぱり、巻き込むものによってですけど、巻き込まれた人が嫌な気持ちになるなら、迷惑をかける事で誰かに気付いて欲しいっていう感じですね。でも巻き込まれた人が嫌な気持ちにならないなら、やっぱり本人も根は優しい人って事なのかなって思います。間違ってたらすいません」
言った側から勝手に恥ずかしがって頭を下げたナースは、すでに真剣な表情で一点を見つめて反応しない雄大を見て、更に勝手に慌て出す。
「根は優しい」
「あの、ほんと、素人の意見なので」
雄大がナースに顔を向けた時に雄大のスマホが鳴った。それもいつもの事で、もう帰るから戻って来なさいという玲子からの呼び出しだ。簡単な会話を済ますとさっさとスマホをポケットに戻すのもいつもの事で、ナースはそんな雄大を何となく見つめる。
「じゃ」
「はい」
雄大は歩き出した。屋上庭園なのだから誰かと擦れ違う事など普通なら気にも留めないが、しかしその一瞬、雄大は女性を乗せた車椅子を押すその男性に目を留める。それは気持ち的に何となくスローモーションだ。女性の血色の薄さ、大学生くらいの若さ、男性も同じくらい若く、茶髪で、顎全体にうっすらと生えたヒゲ。そして2人は雄大と擦れ違い、思わず雄大は足を止めた。振り返っても当然男性の顔は分からない。さっきのナースが笑顔で2人に話しかける中、そして雄大は病院を後にした。
2日後、長内と千賀は矢倉議員の事務所に居た。事務所の入口には規制線が敷かれていて、事務所前には警察車両が停まり、鑑識が行き交う。
「金庫にはいくら入ってたんですか」
「・・・2000万、ほどですかね」
「その金は、例の政治献金から引き抜いた、私的流用されたと言われる使途不明金ですか」
しかし捜査三課の刑事の鋭い問いに、矢倉大治郎は口ごもる。
「まあいいでしょう。一先ず署の方へお願いします」
三課の刑事達と共に矢倉が事務所を出ていき始めたそんな時、長内の下に声をかけながら鑑識の天谷がやって来る。
「おかしいんですよね。普通こういう時って、なるべく指紋や痕跡を残さないようにするはずなのに、金庫には押さえ付けたりするような指紋がべったりなんですよ」
「押さえ付ける指紋?」
「金庫のここ、バールでこじ開けられた跡です。ここにバールの先端を差し込んで、テコの原理でこじ開ける場合、ここに足をかけたり、ここをこう押さえ付けたり。でもいづれにしたって強盗に入る時には手袋くらいはしますから、露骨に指紋があるのは逆に不自然です」
「まぁ確かに」
「突発的な犯行なんじゃないですか?」
「お前、今矢倉議員の事務所に強盗に入るって、リスクが高過ぎるだろ。それに金庫をこじ開けられるような道具を使うんじゃさすがに突発的じゃない。先ずここに強盗に入る気なら、ここに大金があるという情報を手に入れないといけない。だがそんな情報、調べれば分かるようなものでもない。だが矢倉のパソコンには政治献金を懐に引き抜いてる証拠がある」
「まさか、唐州達の仲間の仕業ですかっ。事件は終わってないって事ですか。まさか矢倉議員や息子や事務所を狙ったのは、最終的に、お金を奪う為」
「恐らくな。犯人グループにはそれぞれ独自の目的がある。黒木は矢倉の息子への復讐、城島は爆弾の知識を生かす、唐州は自殺」
「でもチャットアプリには3人の会話しかありませんでしたけど」
「あぁ。だが黒木を確保した時、事務所を張ってる奴らにも囮を使われただろ。3人じゃない事は確かだ」
「そうですね」
警視庁に戻ってきた長内達。早速取った指紋を調べる為に先ずは前科リストやこれまでの事件関係者のデータと参照していくがそこで、天谷は固まった。それから天谷に呼ばれて鑑識課にやって来た長内達だが、参照結果を見て2人も絶句した。
「わざとらしく金庫に付けられた指紋が、死んだ唐州のものだと?まったく、一体どうなってんだ」
「長内さん、これどうなっちゃうんですか?強盗は被疑者死亡で不起訴って事ですか」
「そんなバカな事あるか、実際に金は無くなってる。生きてる人間がやった証拠だろ。人の指紋を複製するくらいどうってことない。唐州の目的は死ぬことだった、だから唐州の指紋を複製しておいて、唐州が死んだ後、それを利用した。これも、計算の内か」
「だったら、指紋以外の証拠で犯人を捕まえればいいですよね」
「あぁ、そうだな。指紋をカモフラージュされたぐらいで負ける訳にはいかない」
雄大はスマホでニュースを見ていた。それは矢倉議員の事務所から大金が盗まれたという記事。表面的なニュースなら別にいちいち父から聞かなくたって分かる。記事の概要は、矢倉議員が都内での講演会から事務所に戻った際、金庫から金を盗んだという置き手紙があり、確認すると2000万円が無くなっていた、というもの。まるでどこかの怪盗のような仕業に、ネットでは自業自得だなどと、矢倉議員を批判するようなコメントが上がっているというのも記事の一面だ。
「お帰りなさい」
そんな時に父が帰ってきて、リビングのソファーに座っていた雄大は静かに立ち上がり、半分くらい夕食の支度が出来上がっているダイニングテーブルに着く。それから長内がスーツのジャケットをハンガーにかけ、ネクタイを外してダイニングテーブルに着く頃を見計らい、いつものように玲子はお茶碗にご飯をよそっていく。
「父さん、矢倉議員の件、犯人に目星は付いてるの?」
「いやまだだ。マスコミにはまだ言ってないが、犯行現場には死んだ唐州教二の指紋があった」
「それって置き手紙にも?」
「あぁ。予め複製しておいた唐州の指紋をわざとらしく残していた。ありがとう」
玲子がご飯と味噌汁、おかずである豚のしょうが焼きを運んできたところで、一先ず雄大は手を合わせる。
「いただきます。じゃあ、犯人グループの一員って事?」
「だろうな。いくら政治献金をくすねてる政治家といったって、大金がどこにあるかなんて、それこそパソコンなりを見ないと分からない。ただ、気になる事がある。黒木は、犯人グループは3人だと思ってた。城島は他の仲間に関しては全くの黙秘で、他に仲間が居るかも知れないが、何となく黒木の態度がな」
夕食を食べ終え、自分の部屋に戻った雄大はベッドに座り込んだ。思い出していたのはナースの言葉。屋上でのんびりしていればいつも遠慮がちに挨拶してくる、若くて笑顔の可愛いナース。いやそんな事より、引っ掛かるのは根は優しいという言葉。雄大の真剣な眼差しは真っ直ぐ一点を見つめているが、そこにあるのはただの床。まるで紙芝居のように場面が巡る。大学の駐輪場とショッピングモールの爆発、狙われた矢倉議員とその息子、そして自爆テロを装って射殺される事による自殺。けどそれでも事件は終わらず、盗まれた大金。犯人グループにはそれぞれに目的がある。それなら大金は誰が、何の為に?単に大金自体が目的なのか。ベッドに寝転んだ雄大。そして天井を見上げながら大きく溜め息。まさか、いや、そんな訳ないか。
都内にあるマンションの一室。間取りは1人で暮らすにしては結構余裕のある広さ。しかし掃除はされているのに、本当に人が住んでいるのかというほど生活感はない。それはまるで長期旅行中かのよう。それでもクローゼットの1番奥には生活感のない部屋には少し似合わないような新鮮なシワのあるボストンバッグがあり、それでもその男はその部屋でいつものように朝を迎えた。それから向かった先は大学病院。同じようにお見舞いに来た人達も、患者達も、病院で働く人達も、男を気にするような素振りはしない。誰もが“似ているだけ”だと思うだけ。いつものようにナースステーションで面会者欄に名前を書き、そして個室の病室に入る男に、茉莉花は血の気の薄い笑顔を見せる。
「幽霊?」
茉莉花の冗談染みた笑顔に、教二はニヤけて頷く。それからベッドのそばの椅子に座ると教二は茉莉花の手を握った。
「ダメだ、全然見つからない」
「そっか。でももし死んでも、教二くんが教二くんの遺骨と私の遺骨を一緒にしてくれるから」
「まだ俺は諦めてないからな」
「私だって、パソコンでずっと調べてる。でも、そういう人・・・見つ・・・」
少しでも表情が歪めば茉莉花の背中を擦る教二。
「・・・ふう」
「吐きそう?」
「ううん・・・・・ふう、ねえ、後で屋上行かない?」
「あぁ」
「高月さーん、おはようございます、検査の時間です」
ベッドから車椅子に移り、ナースと共に病室を後にした茉莉花を目で追ってそれから、教二は待合スペースの自動販売機で缶コーヒーを買う。彼女が検査の為にそばに居ない時は大抵そうやって時間を潰す。するとその時、教二の下に歩み寄ってきたのは、雄大だった。
「君は唐州教二だよな?」
偶然にも誰も居ない待合室。教二は振り返った。
「茶髪にして髭も生やしてるけど、やっぱりそうだよな?」
「そんな訳ないだろ。ニュース見てないのか?」
「知ってるよ。唐州教二は射殺された。でもそっくりさんにしては似すぎてるけど?」
「俺は、教二じゃない。教一だ、双子なんだ」
「ふっ悪いがそれはあり得ない」
勝ち気に微笑んでそう断言する“他人”に、教二は思わず一瞬だけ眉間にシワを寄せてしまう。
「唐州教二が射殺された時、当然の如く警察が家族を呼んで遺体確認をする。その時に君の母親から双子なんて居ない事はとっくに聞いている」
「お前、警察か」
「いや違うけど」
「は?」
「父親が刑事なんだ。それで捜査状況を教えて貰ってね」
「見え透いた嘘だな。いくら刑事でも家族に捜査情報は漏らさない。もし本当だとしたら、そんなのは刑事失格だ」
「あぁ、一般論としてはその通りだよ。でもこういう考えはどうかな。俺は警察官のS。Sって分かる?」
「協力者。けどSってそういう事じゃない。ていうか俺は唐州教二じゃない。さっさとどっか行けよ」
「君はK、黒木ビビアンはV、城島はJ。この情報はマスコミには知られていない。ウチは特別でね。上層部は父親を咎めない。それは何故か。結果を出してるから。協力者でも何でも、実際にこうやって事件の首謀者を突き止めた。初めて会って言うのもなんだけど、俺を甘く見ない方がいい。俺は何度も結果を出してる」
「お前は警察官じゃないんだよな?」
「カッコ良く言うと、警察に協力してる私立探偵みたいなものだよ」
「結局何でもないだろ」
「何でもないはちょっと失礼じゃないか?そういう君は幽霊だ。君が何故矢倉議員の事務所から金を盗んだか。それは高月茉莉花の手術費用ってところが定石かな」
無言で歩き出した教二。するとそのまま雄大を通り過ぎていく。
「根は優しい」
脈絡もない単語にはふと足を止めざるを得ない。そんな人の心理をもってして、雄大は教二の背中に勝ち気な微笑みを向ける。
「ナースが言ってた。それで何かこう、もしかしたら、唐州教二には自殺とは別の目的があるんじゃないかと思った。そしてそれは自分の為じゃないもの。ていうかさ、君は最初から人の為に動いてる。爆弾の知識を生かしたい人に手を貸したり、矢倉議員の息子に復讐したい人に手を貸したり。一見それは周りを巻き込んで大事にしてるようだけど、実際に巻き込まれた城島と黒木は迷惑だとは思ってない。まあ爆弾魔に手を貸したりするのはあれだけど。ていうか、君の目的はそもそも自殺じゃなく、金だったんじゃないか?でもそれなら、わざわざ死ぬ必要なんか無いよな?何で死んだんだよ」
「お前には関係ない。それにさっきから俺が金を盗んだって決めつけてるが、仮に俺が唐州教二だとして、死んだ人間が金なんか盗めないだろ」
「出来る」
またもやその他人は断言した。むしろどんな顔でそんな事を言ってるのかと、教二は思わず振り返る。
「何故なら君は能力者だからだ。能力は分身か何か。わざわざ何故物理的に大学やらショッピングモールを爆破したり、物理的に警官から拳銃を盗んだり、物理的に自爆テロをしたのか、それは能力者だと思わせない為。最後の射殺で本当に本人が死んだと思わせる為だ。でも1つ穴があった」
「穴・・・」
「黒木が矢倉議員の自宅に忍び込んだ時の事、当然張り込んでいる警察の前に1台のバイクがやって来て、すぐに逃げた。しかしそれは囮で、その隙に黒木が自宅に入るっていう作戦だ。だから俺は逆にバイクを追うパトカーを囮にして、女の刑事と黒木を待ち伏せた。実は黒木を捕まえたのも俺の作戦だ。言っただろ?結果出してるって。黒木が矢倉議員の自宅に忍び込むと同時に事務所にも忍び込む役が居て、同じく囮になる役も居た。つまり囮が2人で忍び込む役が2人、合計4人。でも君達は3人だ。でも1人が分身してればそれも出来る」
「仲間は4人だった。それだけだろ」
「一理あるけど、それはないと思う。父さんが黒木を取り調べしてる時、黒木が3人だって言ってたってさ」
「その黒木が知らないだけだ」
「それも一理ある。けど俺はそれもないと思う。何故ならチャットアプリには3人以外の書き込みが無かったから。お互い顔も名前も知らない中で、じゃあどうやってお互いを信用するか。それは少なくともお互いに嘘はつかないって事じゃないかと俺は思う」
「嘘をついてるかどうかも関係なく、利害の一致で動く、犯罪者なんてそんなもんだろ」
「まあ、これに関しては断言出来ないから置いとこう。君が能力者だという証拠に関して、それは君の髪の毛を拝借すればいいだけの事。君は双子でも何でもないからね。ドラマでよくある言葉だけど、無実を証明してみないか?」
「・・・断る。唐州教二は死んだ。それでいい」
「君は本当に、高月茉莉花が好きなのか?」
「え?」
「能力者に頼めばいいだろ。犯行声明では3割負担撤廃法案を否定していた。それは彼女の手術費用を考えての事かと思ったけど、いざとなれば能力で治しちゃえばいい。でもそれをしない。君は結局、彼女自体を犯行動機にする為に利用したんじゃないの──」
すでに教二は雄大を殴っていた。するとソファーにぶつかりながら倒れ込んだ雄大は何故か何かに納得したように小さく笑う。
「そんなに彼女が好きか。むしろ安心したよ」
「安心?」
「仮に君を警察に突き出して被疑者死亡を取り消しても、君の火は消えない。君の全ての原動力は、高月茉莉花だ。例え高月茉莉花が死んでも、君は負けたとは思わないだろう。なら君を負かすには」
「何をする気だ」
「俺が、高月茉莉花を生かす」
「何だって」
「君を屋上で見かけた後、父親に調べて貰った。君の身元は割れてるから高月茉莉花の事を突き止めるのは難しくなかった。乳がんだってね。進行が早くて、生存確率は絶望的。まあどんな思いで君が事件を起こしたかは分からないけど、つまり高月茉莉花の病気がまっさらに消えれば、それが本当の君の敗北だ」
「どうやって、お前まさか能力者か?」
「いや?でもこれがある」
そう言って雄大がポケットから取り出したのは直径2センチほどのクリスタルのような鉱物。正にそれは能力者になる為の石として有名なもの。すると教二は目の色を変えたように雄大に歩み寄り、雄大は素早く鉱石をポケットにしまう。
「よこせよ。全ての病気を治す能力者を調べてるが見つからない。そろそろ裏ルートで取引される鉱石を買おうかと思ってた」
「いやだね。俺が、いや俺が高月さんに渡す」
「あ?茉莉花に渡してどうする」
「病気を治すには2通りのやり方がある。手術での外科治療、もう1つは薬での内科治療。何も能力者を連れてくるだけが方法じゃない」
「まさかそれで茉莉花を能力者にして、自分で病気を消させようっていうのか」
「あぁ。むしろその方が再発しても問題ないだろうし」
「だったらそれは俺がやる、よこせ」
教二が掴みかかるも雄大はそれを拒む。しかし教二が雄大の胸ぐらを掴みながら押し出し、雄大の背中が自動販売機にぶつかってガシャンと音がすると、教二が拳を振り上げたところで1人のナースがやってきた。
「何してるんですか!」
「チッ・・・」
「大変、唇切れてますよ」
「さっき1発やられたんで」
ナースが睨むと教二はようやく雄大から手を放す。
「でも大丈夫です。ちょっとしたケンカなんで。殴られたお詫びにジュース奢って貰うんで」
「そうですか?静かにお願いしますよ?」
「すいませーん。・・・・・ふう、じゃあ、俺このコーヒーで」
「奢るかよ」
「・・・何だよ」
それから窓際のソファーに座る雄大を、教二は今にも掴みかかりそうな顔で見下ろした。
「検査ってどれくらいかかるの?」
「言うかよ」
「いいのかな?俺につきっきりで」
「あ?」
「君は囮を使うのが好きなんだよな?俺と君がこうしてる間にも、高月さんに能力者が接触してる可能性は考えないのか?」
「それはないな。いくら能力者でも検査の最中に割り込みは出来ない。それに俺は大体どれくらいで戻ってくるか知ってる。さっさと鉱石をよこせ」
「何で、わざわざ射殺されたんだ?」
「関係ないって言ってんだろ」
「ふっ。ていうかもう、流れ的に唐州教二だって認めてるよな」
「それがどうした」
「君は戸籍を失ってまで大金を盗んだ。何の為かは分からないけど、この鉱石1つで、君のやって来た事は無に返る。高月さんは病気でも何でもなくなり、君はただ自分自身を失っただけになる。いい気味だ」
「・・・別に、それでいい。とっくに覚悟してる」
「1つ条件がある」
「・・・あ?自首はしない」
「いや、そうじゃない。俺が高月さんに手渡す。その後で君が鉱石を使おうが自由だ」
「何だよそれ。何でそこにこだわる」
「嫌ならそうだな、矢倉議員の事務所から盗んだ金と引き換えってのでもいいよ。うん、むしろその方が君のやった事がもっと無かった事になる、どうする?」
「・・・お前、底意地が悪いな」
「犯罪者よりマシだよ」
「俺には奪う選択肢だってある。犯罪者らしくな」
「悪いけどそれはおすすめしないな。俺をボコボコにしたらそれこそ警察が来る。そもそも何故俺は1人で来たのか。それは戦う為じゃない、交渉しに来たんだ。これは君にとってチャンスでもある。まあそのチャンスを自分で壊してくれた方が俺としては君を警察に突き出せるからいいんだけど。それにもしボコボコにされてもここは病院だ。全然怖くない」
「・・・・・はぁ。もういい、降参してやるよ、いい加減演説に聞き飽きた。けど一矢は報いてやる」
「え?」
「金はやらない」
「・・・ふーん、そうか」
俺がこいつに折れてやったのはとりあえずいち早く茉莉花を治してやりたかったから。もう1つの理由は、そろそろ本当にウザく思えてきたから。それにこいつは勘違いをしている。確かに俺は戸籍を失い、自分自身を失ったのかも知れない。けど俺には茉莉花がいる。俺のアイデンティティーは俺じゃない、茉莉花だ。孤独だった俺のそばに茉莉花はずっといてくれた。だから俺は茉莉花の為に何でもすると誓った。どうせ死ぬなら一緒に死にたいという願いにさえ応えると。それから仕方なくこいつを茉莉花の前に連れていくと、こいつは父親が刑事だと話し、そして俺の犯罪計画をペラペラを話し始めた。でも茉莉花はそれを止めた。何故ならそもそも俺がどうやって盛大に死ぬかは、俺と茉莉花で考えた事だから。意気揚々と話し始めたくせに、急にフリーズしたこいつの顔はこれからもいい笑い話だ。そしてすぐにこいつから鉱石を取り上げ、俺はもう1つの能力を得た。それは“触れている人間の免疫力を5倍にする”という力。そうすれば手を繋ぐだけで茉莉花の体は良くなっていく。けど俺はこいつに感謝なんてしない。そもそも、こいつが誰かも分からないし、ただウザいだけだから。確かに茉莉花の願いそのもの、俺の犯罪動機、その覚悟、全てが無かった事になって、俺は戸籍も失った。でも、何も後悔しちゃいない。
読んで頂きありがとうございました。
ニヒルマンは和訳すると虚無の人です。自分のやって来た事やその思いすら無かった事になってしまった、それでもその男が残したものは。そんな物語です。因みに3割負担撤廃法案の事は本当に現実にあっても良いんじゃないかと作者は思ってる感じです。
ありがとうございました。