婚約破棄と牢獄
エイヴァンの浮気の知らせを、マリサは最初そんなはずがないと信じなかった。
しかし、家の者を使って調べた結果……浮気は本当のことだった。
なんでも、エイヴァンは2年前から毎日のように下町のパン屋に通いつめ、そこの看板娘にぞっこんらしい。
なぜエイヴァンが下町の平民女と仲良くなるのかと疑問でならず、騙されているのではないかと思った。
しかし……、エイヴァンからの一方的なアプローチで、平民女はむしろ困っているらしいという。
(信じない、そんなの信じたくない……!!)
エイヴァンを夢中にさせる平民女の名前は、ルナと言った。
ルナは、下町でも明るく気立てのよい笑顔の素敵な良い子だと評判だった。
しかも、見目が平民とは思えないほどに美しい。
エイヴァンが恋に落ちるのもわかる、と家の者まで言い出す始末だった。
「私より美しいわけがない! そんな女が、この公国に、しかも平民で、いるわけがないわ!!」
マリサは認められなかった。あの美しいエイヴァンが、他の女に夢中になっているとは。
浮気のことが発覚してから、マリサは部屋に引きこもり、泣いて過ごした。
それを見かねた父が、エイヴァンを呼び出し、浮気のことを問い詰めることとなった。
泣きはらした目をメイクでごまかし、久しぶりにエイヴァンに会えるのだからとおしゃれしたマリサ。
父の書斎で、マリサはエイヴァンの到着を待っていた。
その隣には、父と母がいて、気の毒そうにマリサを見つめ、労わってくれた。
そこへ、エイヴァンがやってきたと執事から知らせを受けた。
「通したまえ」
父が神妙な面立ちで、執事に中に入れるように言う。
「お久しぶりでございます。レイガット侯爵」
「ああ。そうだな」
久しぶりに見る美しい顔立ちのエイヴァン。
立居振舞も綺麗で、彼の周囲がキラキラと輝いてみえた。
「とある噂を耳にしてね……君に真実を聞きたくて、来てもらった」
父は、深いため息をつきながら、話し出した。
「君が、ルナという平民女性と浮気をしているというのは、本当なのかね?」
エイヴァンは、ぐっと言葉を詰まらせ、3秒ほど床を見つめた後、今度は意思の籠った強い視線で見つめてくると「はい」と答えた。
「そんな……っ!」
思わず声をあげるマリサに、母はぎゅうっと身体を抱きしめてくれた。
「正確には、一方的な私の片思いです。しかし、私は彼女以外考えられない。マリサ嬢との婚約を破棄していただきたい」
わああ、と泣き出すマリサに、父と母は気の毒そうにマリサを見た。
「君の言っていることは、簡単な話ではないよ。公爵家にも許しを得なければならないし、君の将来が脅かされるだろう」
「わかっています。それに私は……ルナとのことがあったとしても、そこにいらっしゃるマリサ嬢とは結婚したくない」
今までマリサの顔さえ見なかったエイヴァンが、キッと鋭い眼差しでマリサを睨みつけた。
「どういうことかね?」
様子のおかしいエイヴァンに気づき、父は不思議そうにエイヴァンに尋ねた。
そこへ、バタバタと大きな足音で部屋を突き破るようにやってきたのは、公国の騎士団だった。
「きゃっ」
「な、なに!?」
「これはどういうことだね、エイヴァンくん!」
部屋中に10名ほどの武装をした騎士団が詰めかけ、いつも穏やかな父もさすがに怒鳴るようにエイヴァンへ言い放つ。
「レイガット侯爵。そこにいらっしゃるマリサ嬢の悪行をご存じですか?」
「む、娘の悪行だと……?」
父がマリサへと疑心の目を向けるが、マリサはぶんぶんと首を横に振った。
「変な言いがかりはやめていただきたい!」
「言いがかりではありません。
……私が思いを寄せているルナには、家族がいました。祖母と幼い弟です。
ルナは二人を養うために、一人でパン屋で一生懸命働いていました。それなのに……彼女の祖母と弟は、マリサ嬢に殺されてしまったのです!」
「なっ……」
言葉を失った父と母に、マリサはちがう、と声を上げる。
「嘘だわ! 私、そんなことしてない!」
「マリード通りの洋服店で、君は赤い手袋を購入したね」
「えっ……」
なぜそんなことを、エイヴァンが知っているのか。
「そこで、年老いたご婦人と、まだ幼い少年と出会わなかったか?」
「あ……」
何を言われているのかわかった。
店を出たところでぶつかってきた、あの小汚い老婆と男の子のことをエイヴァンは知っているのだ。
「ちが、あれは、あの子が私にぶつかってきたから……!」
「ちょっとぶつかって、それで殺すのか?」
「こ、殺してなんてない」
「いいや。あの日、君を怒らせた婦人と少年は、死んでしまった。酷い暴行の後だったという」
「そ、そんな……」
ちょっと痛めつけるつもりだった。
殺すつもりなんてなかったのだ。
「やったのは私じゃないわ、私の付き人が、勝手にやったのよ!!」
「彼らは、マリサ嬢の指示でやったと供述している」
「あ、ああ……」
「私は、殺人者の妻はいらない」
父も母も、恐ろしい者を見る目でマリサを見ていた。
「なんてことを……」と母は抑えきれず涙を零している。
「レイガット侯爵。婚約は破棄させていただきます。そして――マリサ嬢を逮捕し、レイガット家の爵位は剥奪させていただく」
もう、何の言葉も発することができなくなってしまった父。
泣き崩れる母。
そして、両腕を取られて引きずられるように連れて行かれるマリサ。
気づけば、ガチャン、と重厚な牢屋に閉じ込められる錠の音がしていた。
ここは、公国にある罪人が入れられるという牢屋。
マリサは、臭い藁が敷いてあるだけの、狭い牢屋へと入れられてしまったのである。
「うそ、うそよ。私ともあろうものが、こんな、こんなところに……いやあああああああ!!!」
鉄格子をガシャリと揺らすが、びくともしない。
看守は、男。
「食え」と出されたのは、骨ばかりの悪臭の強い腐りかけの肉と、カビの生えたパサついたパン。
令嬢ともあろうマリサの、苦悩の日々が始まったのであった。
「これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢、これは夢」
「信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、」
同じ言葉を繰り返しながら、頭を鉄格子へとぶつけ始めたマリサ。
きっとこれは悪い夢で、目が覚めれば元の暖かい布団にいるのだと思った。
「これは夢なんだから……!!!!!!」
ガキィイイン、と大きな音が鳴った。
思い切りマリサが頭を鉄格子にぶつけたのである。
ドクドクと、頭から血が流れ出した。
大きな音に、看守の男たちが集まりだす。
「自殺か!?」
「おい、救急箱持ってこい! 裁判前に死なれちゃまずい!」
遠くなる意識の裏で、看守の男たちの焦る声が聞こえる。
ドクドク。
ドクドクドクドク。
沸騰していた温度が下がり、カッとなっていた頭がクリアになり、冷静になってきた。
「あ、れ……?」
ぱちりと目を瞬きさせると、マリサはガバリとその場から身体を起こした。
「うお! い、生きてるぞ」
「大丈夫か……?」
看守の声が聞こえたが、マリサにはそれどころではなかった。
マリサは、手をわなわなと震えさせながら、自身の手のひらを見つめた。
「こ、これって、異世界転生……みたいな?」
間抜けな声で、マリサは「マジで――!!」と牢屋の中で叫んだ。