侯爵令嬢マリサ・レイガット
ここは、豊かな緑と透き通る美しい運河を有した花の都――マキュリウス公国。
ヴァシュレイン帝国の末端にある公国は、毎年決まった時期に献花されることで有名な美しい花"プレイズ"の原産地でもある。
小国でありながら他国との外交を積極的に進めた結果、今や貿易先進国として周辺国から一目置かれるほどであった。
"誰もが夢見る平和な国"というイメージを持つ、そんなマキュリウス公国では。
――ちょっとした、世間を騒がせるような事件が起ころうとしていた。
「私は、赤くてリボンのついた手袋を注文したのよ!」
「はい、ですから、この赤いリボン付の手袋をご用意いたしました」
「全然違うじゃない! この手袋の赤は、私が想像してた赤じゃなくて、渋いワインレッドじゃない! こんなおばさんが着けるような手袋が、私に似合うと思うの!?」
「め、滅相もございません……」
高級洋服店から聞こえる罵倒の声に、店内を覗く人々が集まりだす。
甲高い声で店主を怒鳴っているのは、背丈は小さいが、幅が広く大きい、小太りな少女だった。
顔はパンパンに腫れていて、髪の毛はべったりと汗でしっとりしていて額に張り付いている。
腰にコルセットをつけているのか、上下から肉がはみ出ていて、とても不恰好なシルエットをしていた。
「私を誰だがわかってないようね!? レイガット侯爵家の長女、マリサ・レイガットとは、この私のことよ!」
「も、もちろん、存じ上げております、レイガット様……」
店主の言葉に、マリサはにやりと口元を綻ばせた。
「なんということでしょう! 私の身分を知りながら、このようなぞんざいな扱いを受けたっていうの!」
「えっ!?」
周囲の客に聞こえるように、マリサは悲しそうに目元を扇子で隠しながら嘆いた。
「このお店は、王宮にも品卸をしている名店だと聞いておりましたのに……お父様にご報告しなくては。残念だわ」
「なっ、お待ちを! レイガット様……! なんでもご要望通りいたしますので!」
「ふーん? 仕方ないわね。この手袋はもらっておくわね」
くるりと踵を返し、マリサは手袋を持ちながら、定価よりも半額以下の価格だけ払って、店を出た。
(あんまり好みじゃないけど、まぁまぁ使える手袋だし、使ってあげてもいいかしら)
マリサは、機嫌良くにっこりと微笑みながら、店先に停めてある馬車に乗り込もうとした。
――そのとき。
「だめよ、ルーちゃん!」
「あっ……」
ドン、という音とともに、下半身にズシリと衝撃を感じた。
マリサは訝しげに、自分のスカートへと視線を落とした。
「ご、ごめんなさい……」
視線の先にいたのは、小さな小汚い男の子だった。
男の子は鼻を押さえながら、涙目になっている。
どうやら、不注意でマリサにぶつかってしまったらしい。
「申し訳ございません! 貴族様!」
男の子の傍に駆け寄ってきたのは、汚い身なりの老婆だった。
マリサの視界に、汚いものが二匹も映り込み、上機嫌だった先ほどの気分は一気に急下降した。
「なんなの、あんたたち! この私にぶつかるなんて、怪我でもしたらどう責任を取るつもりだったの!!
きゃ!? しかもスカートまですす汚れちゃったじゃない!! お気に入りの服だったのに、どうしてくれるのよ!!」
「申し訳ございません! 申し訳ございません……!」
何度も頭を深く下げながら謝る老婆。
真っ赤な顔をして怒るマリサの形相に、ルーと呼ばれた男の子は思わず泣き出してしまった。
「なによ!! 私の顔を見て泣き出すなんて、失礼にもほどがあるわ!!」
「も、申し訳ございません、どうか、お許しを……!」
老婆は頭を路上に擦り付けながら、身体を震わせた。
「……もういいわ。私は心が広いから、身を持って詫びてくれれば、許してあげる」
「あああ、ありがとうございます、貴族様……!」
マリサの言葉に、感激したように老婆は顔を上げてマリサの顔を見た。
しかし、マリサの顔は、優しい言葉とは裏腹に、醜く歪んでいた。
「やっちゃって」
マリサの後ろに控えていた二人の付き人が、すっと老婆と男の子の前に現れる。
「え、あ、あの、貴族様……?」
「おばあちゃん……」
戸惑う老婆の声と、怯える男の子の声。
マリサはかまわず馬車に乗り込み、「行って」と命令すると、馬車が走り出した。
走り出した馬車の中で、後方から「ぎゃああああ」と悲鳴が聞こえてきたが、マリサはもう興味がなかった。