侍女の最初で最後のお願い
セドリック視点でのギャンブル癖のある父親のせいで娼館に売られる直前のフロリアナと『お嬢様の身代わりで修道院に行くことになった私』の話です。
ヘタレすぎるセドリックに注意して下さい。
ギャンブルに溺れ、子どもたちを幼いうちから行儀見習いと称して期間限定で売り払う男が今更何をしに来たのか?
フロリアナの父親の来訪に嫌な予感しかないまま、旦那様からの言いつけに従ってフロリアナを探す俺の耳に彼女の声が飛び込んでくる。
「お嬢様も上手になりましたね」
外から聞こえてくるその声でフロリアナがお嬢様と一緒にいるのだとわかった。道理で館の中では見つからないはずだ。
窓から外を見ると、フロリアナとお嬢様の姿はなく、庭園の木の枝で揺れているドレスの裾が見える。
木登りでもしているのか?
!!
お嬢様が木から落ちたら大事だ!
怪我でもしたら、お嬢様を溺愛する旦那様や奥様、若様がフロリアナをどうなさるのかわからない。
今やお嬢様は有力な公爵家の若君と婚約を交わしてさえいるのだ。ご家族から溺愛されている上に、その大切な身に、傷一つ付けようものなら使用人の一人や二人がどうなろうとおかしくはない。
とは言っても、じゃじゃ馬だろうが何だろうがお嬢様はご家族だけでなく、俺たち使用人にも溺愛されているから、傷一つ付いただけで嘆かない人物はいないが。
俺は慌てて窓から(ちょうど1階で良かった)外に出て、ドレスの裾が見えた木に走り寄った。
声が届いただけにそれほど遠くなくて良かった。
ドレスの中が見えてはいけないので、見えない程度に距離のあるところで立ち止まる。
見えているドレスの裾は一つだけなので、フロリアナはどこにいるのだろう?
フロリアナの姿が見えないことを不審に思いながら俺は枝の上のドレスの主に声をかける。
「お嬢様! 危ないので降りてきて下さい。お怪我でもなさったら、旦那様や奥様が心配なさいます」
「フロリアナ、お嬢様ですって。ふふ。良かったわね」
お嬢様の声がするが思ったよりも遠いところからする。
「すみません、セドリックさん」
枝からフロリアナの声が降ってくる。
フロリアナが枝に座っていたってことは、俺が見つけたドレスはフロリアナのものなのか?
お嬢様が昼の社交に参加できるようになり、子守り侍女からお嬢様付きの侍女に格上げされたフロリアナの服装は比較的自由だ。下級メイドや従僕以外の使用人はお仕着せだが、同じメイドでも主家の身の回りの世話をする従者や侍女などはお仕着せでないこともある。
主家の身の回りの世話をする使用人は服などを直接下賜される機会があるからだ。
この服も奥様から下賜されたものなのだろう。
――こんなことを考えている暇はない。
肝心のお嬢様はどこだ?
枝の上にいるのがフロリアナだとすると、もしやもっと上まで登られているのか?
朗らかなのは良いが、フロリアナはどうもお嬢様と一緒に色々しでかしてしまう。ストッパーになってくれることもあるが、基本的にお嬢様に甘い。甘すぎる。旦那様たち同様、お嬢様を甘やかしてしまうのだ。
「フロリアナ。お嬢様は?」
「上です」
聞きたくなかったことをサラリと告げられた。
俺は頭がクラリとした。しかし、そこは足を踏ん張ばる。
使用人たるもの、こんなことで一々取り乱していてはいけない。
まずはお嬢様に木から降りて頂かねば。
「お嬢様、降りてきて下さい! お怪我でもなさったら・・・――フロリアナ。お嬢様付きの侍女であるお前がいながら、何故、木登りなんて危ない真似をさせた?!」
「すみません、セドリックさん」
ようやく自分が枝の上にいたことに気付いたフロリアナが急いで降りてこようとする。
同じ使用人でもお嬢様付きの侍女であるフロリアナよりも俺のほうが立場は上で勤務期間も長い。つまり、フロリアナが俺の上から話しかけるのはタブーなのだ。
あまりにも慌てたせいか、フロリアナは手を滑らせた。
ブロンドの髪をなびかせて、フロリアナが落ちてくる。彼女自身、シナモン色の目を大きく見開いているので琥珀色が散りばめられている瞳孔までハッキリと見える。
!!
心臓が一瞬、止まりそうになった。
「フロリアナ!!」
俺とお嬢様の声が重なる。
「あっ!!」
フロリアナが驚きの声を上げ、落ちてきた。
俺は真下に滑り込んでフロリアナを抱き止めた。フロリアナが重いわけではないが、手や足にはビリビリと落ちてきた衝撃がくる。
カンファーの香りがフワリと香った。
「お前が落ちてどうするんだ、フロリアナ」
「ありがとうございます、セドリックさん。ドジ踏んじゃいました。ハハ・・・」
明るく苦笑するフロリアナの顔を見ているとこれ以上怒るのが馬鹿らしく思えてくる。
「大丈夫?! フロリアナ」
お嬢様はスルスルと野生動物のように木をつたい降りてきた。その後を追うようにフロリアナの弟妹も追ってくる。
「お姉ちゃん!」
お前らも一緒だったのか?!
歳が近いからとお嬢様の遊び相手として旦那様が館に招いたのだから一緒にいてもおかしくはないが・・・。
「セドリックさんのお陰で大丈夫です、お嬢様。驚かせてすみませんでした」
うなだれたフロリアナはお嬢様に謝る。
お嬢様は笑顔だった。何かを企んでいるかのように気味の悪い笑顔だ。
お嬢様が何を考えているのか知るのが怖い。
「フロリアナが無事ならそれでいいわ」
「お姉ちゃんが死んじゃうかと思ったよ」
フロリアナの妹ジェーンが口を尖らせて言った。
お嬢様と同じブロンドの髪をしているジェーンは、並ぶと姉妹と間違えそうなほどよく似た色合いをしている。
身長は違うが姉のフロリアナもお嬢様と同じような色の髪をしていて、この三人はよく間違われる。特にジェーンを身代わりにお嬢様が夜中に部屋を抜け出すこともあるくらいだ。
まだ幼い弟のリックはフロリアナと同じシナモン色の目に涙を浮かべている。
「怖かったよ~」
「ごめんね、ジェーン。リック」
「お姉ちゃん!!」
ジェーンとリックは何故かフロリアナではなく俺に抱き付く。
「で、セドリック。いつまでフロリアナを抱えているの?」
カッと頬に血が上るのがわかる。
確かに俺が抱き上げていたらジェーンとリックがフロリアナに抱き付けない。
お嬢様に指摘されて、俺は慌ててフロリアナを下ろした。
「お姉ちゃんー!!」
現に解放されたフロリアナにジェーンとリックは抱き付いている。
俺は気まずさのあまり咳払いをした。
そうだ。用事があったのをすっかり忘れていた。
「ああ、そうだ。フロリアナ。お父さんが来ていると旦那様がお呼びだ」
フロリアナは厄介事の報せに眉を顰める。
俺と同じようにフロリアナも不審に思ったようだ。
旦那様への援助の嘆願は既に通用しない。
フロリアナたち兄弟に対する所業から、旦那様はあの男を見限り、フロリアナの弟妹をお嬢様の遊び相手の名目で保護しているくらいだ。
「父が? 今度は何を・・・? 旦那様たちに迷惑がかからなければ良いのですが・・・」
「行ってみないことにはわからないだろう」
「・・・」
「お嬢様は代わりに私が連れて行くから、お前は旦那様のところに行きなさい」
「ありがとうございます、セドリックさん」
浮かない顔のまま、フロリアナは館に向かって歩いて行く。その肩が心なしか落ちているような気がするのは気のせいではない。
何事もなければ良いのだが・・・。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「セドリックさん」
俺はフロリアナに呼び止められて振り返る。
フロリアナは父親との話は終わったらしい。
血の気の引いた顔をしているフロリアナの様子に俺はまた嫌な予感がする。先程、感じた嫌な予感は想像通り、フロリアナの父親がまた厄介事をしでかしたということなのだろう。
それがフロリアナを蒼白にした内容ということは・・・
「どうかしたのか、フロリアナ」
「時間がないんです。すぐに父に娼館に連れられていくんです。今、父が旦那様と話をしている間に荷物を纏めて来いと」
フロリアナは小声で口早に話す。
普通なら泣き出してもおかしくない状況だろうに、淡々と告げられる内容がむごい。普段から明るくざっくばらんな性格をしているフロリアナだから泣かないのだろうか?
それとも、泣き出さないのは既に覚悟していたからだろうか?
「娼館? まさか・・・?」
今日は当たって欲しくない嫌な予感ばかり当たる。
「私、売られてしまうようです」
俺は目の前が真っ暗になった。
音も光も失くない世界の中で、フロリアナの言葉だけが意味をなさないまま漂っている。
娼館に売られる?
誰が?
フロリアナが?
いつも保身のことかしか考えていなかった自分が情けなくなってくる。
使われる身で不祥事を起こせば紹介状(まともな職に転職するのに必要な人柄証明)も無しに解雇される。
人間関係のトラブルの心配はない。周りからは手のかからない穏やかな性格だと言われていた俺だ。その証拠に誰かと喧嘩することはなく、喧嘩の仲裁をするほうだった。
俺が巻き込まれかねないのは男女トラブルだ。職場の女性を孕ませてしまうと、紹介状無しに二人共、解雇されてしまうし、職場以外でも身体以外に興味のない相手に一生繋がれるのは御免だ。だから、俺は職場やその近辺どころか恋愛関係にはならない。
フロリアナの気持ちにも気付いていた。
それでも、我が身が可愛い俺は彼女の気持ちに気付かないふりをしていた。それがお互いのためだと信じて。
「いくらなんでも唐突すぎる。それではこちらの都合を考えていないじゃないか」
「それをうちの一族に言いますか?」
彼女の実家がどのようなものであるかは有名だった。
一代前からギャンブルに明け暮れて、自分の子どもを売り飛ばして金にすることしか頭にない一族。売り飛ばされてもしぶとく生き残った子どもたちが跡を継ぎ、負の連鎖を繰り返している。
「はは・・・そんな、まさか・・・」
俺が恋愛事から逃げずにフロリアナの恋人だったら、旦那様に二人の関係を認めてもらっていれば、こんな状況にはならなかった。
実家がいくら言ってこようが、主筋の家が認めた縁談を壊してまで娘を売り飛ばすことはできない。主筋の家の意向に逆らうことは庇護を失うのと同義で、今まで散々、援助を受けてきたあの家にはできないことだ。あの家は、旦那様の援助がなくては貴族としての地位を失っていてもおかしくないのだから。
どうして、彼女の想いに真剣にならなかったのだろう。
どうして・・・。
だが、フロリアナは自分の代わりに弟妹が売られていくことを黙って見ていることはできないだろうから、今と何も変わらなかっただろう。彼女が妊娠でもしていないかぎり。
自分が一番嫌っていた状況こそがフロリアナを救う唯一の手段だったとは笑うしかない。
没落しているとはいえ、フロリアナは貴族出身だ。
もし、フロリアナが娼婦になるとすれば、お嬢様付きをしていた教養の高さも買われて高級娼婦となる。
娼婦というのは仕事だと思われているが、娼館のお抱えの娼婦に自由意志はない。奴隷だ。フロリアナの親は金と引き換えに彼女の自由を、心以外のすべてを売ったのだ。
主筋の家で使用人をしているように俺は元々、大した家の出でもなく、跡継ぎでもない。そんな俺に彼女の身請けや身売りをさせないだけの力もない。
「セドリックさん、最後のお願いをしてもいいですか?」
そう言って、フロリアナは俺を抱き締める。
俺は抱き締め返して、その温かさを我が身に刻み込もうとした。二度と手に入らないものだとわかっていたから。
娼婦になるということは永遠の別れと同じだ。
高級娼婦であっても、娼婦は体を壊して死ぬことが多い。娼婦が短命であることは変わらない。
「最後にって、最初のお願いなんかなかっただろ?」
「バレてしまいましたね・・・」
俺の肩に顔を隠したまま、震える声でそう言ったフロリアナの身体も震えている。
この館を出てからのことを彼女が怖がっているのは何も言わなくてもわかった。
前々から覚悟はしていたのだろう。
それでも怖いことには変わらない。
そして、言い出せないでいる言葉もわかる。
伊達に慕われていたわけではない。
「セドリックと呼び捨てにしてくれ。さん付けで呼ばれているとただの職場の同僚としか思えない」
顔をパッと上げて、彼女は笑って礼を言う。
涙の跡が付いたその顔が声を殺して泣いていたのを物語っていて、胸が締め付けられるかのように苦しくなる。
「ありがとうございます」
その一言が胸に突き刺さる。
その痛みは消えることがなければいい。一生、痛み続ければいいのだ。
愚かな俺の犯した罪の証なのだから。
「すまない」
俺は立ち去るフロリアナに頭を下げることしかできない。
役に立てない家に、役に立てない順番で生まれ、役立たずな選択しかしてこなかった卑怯者。
彼女を守る力も、彼女を守るだけの決意も根性もない。
フロリアナの弟妹を連れて、どこか遠くに行くことだってできる。
でも、それを俺は選べない。
俺の知っている世界は実家とこの家ぐらいで、外の世界のことはまったくわからない。
だから、俺には彼女の願いを叶えることしかできなかった。
その、本当にささやかな願いしか叶えられない。
無力で臆病な俺には。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
フロリアナを訪ねて行けば、何を今更と言われるかと思った。
彼女を買えるぐらいの蓄えはある。
それでもどの面下げて会いに行けばいいのかわからなかった。
甲斐性無しと罵られるのは聞きたくなかった。
彼女が娼婦だという事実を目の当たりにして、現実を受け入れたくもなかった。
俺が訪ねて行ったのは旦那様からの遣いで、フロリアナがお嬢様の身代わりなる意志を確かめるだった。
「すまない」
今度もまた俺はフロリアナに頭を下げる。
彼女に頼んだのは今と同じ生涯幽閉の身になることだった。
場所が娼館か修道院かの違いにすぎない。
喜んで引き受けた彼女が痛ましくて堪らない。
本当なら俺が身請けしてやれれば良かったのだが、高級娼婦を身請けできるだけの甲斐性など使用人にはいない。
今回のことも、お嬢様の身代わりにというものだ。
罪を犯したと一方的に糾弾され、調査も許されず、修道院へ送られることになったお嬢様の状況が不可解すぎるせいだった。
もしかすると、フロリアナの事情を知っている旦那様が今回のことを好機だと気遣って下さったのかもしれない。
しかし、お嬢様の件はきな臭い。
フロリアナが何事も無く修道院に着けるかどうかもあやしい。
それでも、フロリアナを解放するにはこの方法しかない。
旦那様もあの家の当主を見限って嫡男に代替させることにした。
それが兄弟思いなフロリアナへの報酬だ。
俺は相変わらず、彼女のために何もできない無力な存在だ。
フロリアナが修道院に送られたのなら時間が許す限り会いに行こう。
それが彼女も気持ちに真剣に向き合った俺の答えだった。
だが、俺の決意は虚しく打ち砕かれることになる。
フロリアナはやはり無事には修道院に着かなかったことを噂で知ることになった。
旦那様は自分に伝えるようにとフロリアナの弟妹宛てのお嬢様の名で書かれた手紙の内容を知人から報され、フロリアナが伝えようとした王族のお嬢様への仕打ちは噂として広まってしまったからだ。
俺は彼女が無事かどうか心配で胸が張り裂けそうだった。
手紙が書けたのなら無事だという保証はない。
フロリアナは大丈夫だろうか?
怪我や痛い思いはしなかっただろうか?
俺の心配は噂の内容が内容だからだ。
お嬢様なら身も心もボロボロになりかねない酷い事件だった。
フロリアナは娼館にいたとはいえ、彼女は高級娼婦なのだ。あのような扱いを受けて平気だとは思えない。
そもそも、相手が娼婦だったからといって許されるものではない。
ああ、フロリアナ。
俺は矢も盾もたまらずに旦那様に修道院へ派遣して下さるように願い出た。
旦那様は以前から俺達の事に気付いていたようで、お嬢様の冤罪を晴らすことも、フロリアナの兄に求婚の許しを貰うことも終わってから迎えに行くようにと人の悪い笑みを浮かべて仰られた。
彼女の無事を祈る日々がこうして始まった。
フロリアナが無事でありますように。
怪我を負わされていませんように。
痛い目に遭っていませんように。
神様。たとえ、脚の一本、二本がなかろうとも、フロリアナが生きていてくれさえいたらそれだけで充分です。
フロリアナ、お前を迎えにいけるのが待ち遠しくて堪らない。