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「それでもボクは……女に戻りたくない。君だってそうだろう。枸橘に願ったのは君も同じはずだ」
「そうだけどさ……」
血を吐くような切ない言葉は思った以上に重く、クラスメイトがそこまで思い悩んでいるとはつゆ知らずにいた俺は、きっと彼女の目の前にいたら受け止めきれずに逃げてしまったかもしれない。彼女に自称には、そこまで深い意味が込められていたのだ。
だがそこにいたのは、翔威だ。同じ願いを抱えた者。すぐ傍にいた友達が、そんな思いもよらない願いを秘めていたなんて、本当はさらに驚くべきなんだろうけど。
でも翔威は、萬里小路とは違って、迷っていない。みんなを巻き込んでは駄目だと説得にまで来ている。彼の心は既に、決まっているのだ。
「でも、自分だけよければいいなんて、やっぱり駄目だ。それはエゴだよ」
「エゴでもいい。みんなに恨まれても構わない」
「じゃあみんなの不幸せの上に立って、君は本当に幸せになれる?」
拳を握りしめた萬里小路は、つらそうに目を閉じた。彼女だって本当は分かっているのだ。己の身勝手さが他人の上に成り立っていいはずなどないと。だがそれでもいいと願うほど、彼女にとっては切実な願いなのだ。
「おい、枸橘。お前って修行中なんだよな。ってことは修行が終われば、山の力なんて借りなくても叶えてやれるんじゃねえの?」
「まあ、理論上は」
「じゃあそれを、あいつに伝えてこい」
その一言がなくば萬里小路も動けまいと顎で示したのだが、枸橘は不思議そうに首をかしげただけだった。
「なんて言えば?」
「あのなあ。『ぼくがもっと強くなったら叶えるから』とかなんとか、あるだろ」
「なるほど」
納得したように頷いて、枸橘は浮かび上がったまますいーっと二人の方へ近づいて行った。音も気配もない出現に翔威は驚いたようだったが、萬里小路は別段表情を変えることもなかった。変化したのは、おそらく枸橘が言葉を伝えたためだろう。泣きそうな顔でうなずいている。どうにか解決しそうなので、俺も隠れるのをやめて姿を現した。
「ミミ、何やってんだ」
「お前らが心配で追いかけてきたんだろうが」
「心配なんて。大丈夫だよね。萬里小路」
「……期待してるから」
目を真っ赤にさせて頷いた萬里小路は、浮いている魔法使いに釘を刺した。何を考えているか分からない枸橘は、相変わらずのぼんやりした目を山頂に向けていた。
「戻ろうぜ。みんな待ってる。ところでお前、さっきからなんで浮いてんだ? 山に体力奪取されてんのに、そんなことしてる場合なのかよ」
「いや、どちらかというと魔力奪取だよ。触れるとさらに吸い取られるから。それより、急いだ方がいいかも」
「ん?」
枸橘の目は上を向いたままこちらに戻ることはなかった。不審に思ったが不審なのはいつものことなので気にせず山頂へ向かった俺たちの前にあったのは。
社の前で、ぐったりと脱力して座り込んだクラスメイトたちの姿だった。
空気が一変して見えたのは、みんなのただならぬ様子を目にしたせいではない。俺が最後に見た時より、明らかに淀んでいる。天候が変わった、時間が経過した、そんな言葉では片づけられない不可解な現象が起ころうとしている。その気配は特に社から漂ってきているような気がして、俺たちは一歩も前に進むことができなかった。
「何だコレ、何が起きてるんだ?」
目を白黒させた翔威が、すぐ傍でうめき声を聞きつけた。そこにうずくまっていたのは男子になった女子の御処野で、どうやら一人だけ意識があるようだ。慌てて翔威が屈みこんで伺う。
「どうした、大丈夫か?」
「分かんねえ……急に、超ダルになって……」
「ああああああああああ!」
「うるさい、斑鳩」
震えながら持ち上がった御処野の手が、翔威の美巨乳を掴んだ。思わず大声で叫んでしまった俺を、萬里小路が冷たく叱る。だってあんなに必死の思いで自分を犠牲にしてでも守って来たのにこんな形でチックショオオオオオオ!
「血涙でも流しそうな顔……」
「うるせえ、てめえの乳揉むぞ枸橘ぃ」
「ないし」
「おい、枸橘、どうなってるんだよ、これ」
意地になって枸橘の薄い胸筋を揉んでいる俺の後ろから、御処野の手の影もなく立ち上がった翔威が問いかける。だが元気だったのはそこまでで、すぐさま他の生徒と同じようにぐったりとその場に座り込んだ。萬里小路も同様だ。
「な、なんだこれ……」
「力が……」
「ど、どうした、お前ら……あれ?」
遅れて俺も、同じ症状に巻き込まれた。立つ気力と体力を突然に奪われたような感覚。座っているだけでも疲れて、横になりたいぐらいに一気に憔悴してしまった。なんだろうか、まさにドレインというにふさわしいような。でも何に奪われるって言うんだ?
「山が怒ってる」
ただ一人影響を受けていない枸橘が、浮いたままそう言った。その横顔には微かではあるがこれまでにない厳しさが宿っていて、睨む先には異様な気配を輩出し続ける社がある。
枸橘は御幣を社に向かって、水平に掲げた。ぱさりと紙が鳴る清浄な音で少しだけ楽になったが、まだ立ち上がるまでは戻らない。顔を上げるのが精々だ。
「僕が力を使ったせいで、暴走している。このままじゃ、まずい」
どうまずいのかは、説明してもらうまでもない。きっと全員が干からびるまで生命力を吸い取られるのだ。元の性別どころか、生きて帰ることすらできない。
「ボクのせい……?」
「君だけじゃない。僕だって……」
発端の願い事を抱える二人が、絶望的なほどに顔を蒼ざめさせていた。だがこの状況で、誰が彼らを責められよう。唐突な危機にぶちあたり死を目前に控えているのは、全員同じなのだ。
「枸橘、なんとかしろよ。てめえにしかできねえだろうが……!」
「……それは君の、願い?」
この期に及んで何を言い出すのかと睨み付けるも、枸橘の顔色は全く優れなかった。アスピルされているせいではない。自信がないのだ。願い事として提示されてもなお、成し遂げられるか分からない。修行中の身で、性別を反転させるのだって自力では無理で、「なんでも」なんて叶えられないと分かっているから。しかも彼の力不足で全員を巻き込んでしまっている。どう足掻こうが、悪い結果にしかならないと思い込んでいるのだ。
だからって、諦めていい訳があるもんか。
「そうだ、俺の願いだ! 全員を、日常に戻せ! それができないで、いつ萬里小路の願いを叶えるっつーんだよ!」
俺たちもだけど、特に枸橘はここで未来を絶つわけにはいかないのだ。自信なさげに泳いでいた目が、萬里小路を見た後で、俺に移った。俺が頷き返す姿を見届けると、彼は緊張した面持ちで社を見つめた。
「山の神よ、どうぞお姿をお現しください……」
そして彼が鋭く御幣を振ると、俺の体にまとわりついていた疲労感が軽くなった。見ると俺だけではなく、影響を受けている皆がそうだった。俺たちから離れた邪気は一つに凝縮され、やがて社の前に姿を現す。
「人ごときが、気安く我を呼ぶでない」
男とも女ともつかぬ声を発して現れたのは、人の背丈ほどもある九尾の狐だった。鋭くも神威のある目が、下等な俺たちを見下ろし、誰もが恐れ多くて目を伏せずにはいられなかった。ただ一人、枸橘以外。
ん? ていうか、九尾? 結構な大物じゃないか!? この山、まさか伝説の妖狐・玉藻の石を祀ってるのかよ……めちゃめちゃ祟りとか、未だに恐れられてるってのに。そんなところの力を使うなんて、枸橘、恐ろしい子……っ!
地元民の俺が祀られているものの正体を全く知らないと言うのも、なんかなあって感じだけど。自治体は周知しろよ、怖いだろ。しかも中腹までしか行かないとはいえ、小学生の遠足の地に選んでんじゃねえよ。
とはいえ各地に散っているとはいえ九尾の狐ならそれは、力も影響も強いだろうってのは納得がいく。そりゃあ負の怨念も喜び勇んで集うだろう。生きて帰れるかどうかは、より厳しくなったけれど。
「神よ、どうかお怒りをお鎮めください」
「小僧、貴様か。我の力を求めたのは」
怯えた様子のない枸橘を、妖狐が睨み付けた。俺だったらそのひと睨みで吹き飛んでしまいそうだったが、彼は微動だにしなかった。物理的に巻き起こった風に、ただ髪や裾や御幣を揺らしているだけだ。
「不敬な法師め。我が貴様を許すと思うか」
「申し訳ないですが、だからってぼくの命は上げられません。約束があるので」
臆せず言い切る枸橘だったが、だからって俺たちの命を差し上げたら肝心の萬里小路の願いだって叶えられないことを忘れてないか。
「ではこの者らの魂を貰い受けよと?」
「いいえ。しかし他のもので手を打ちます」
なんかこの子、怖いこと言ってる……。一応神様相手なのに、舐めた口利きすぎだろう。案の定妖狐は体を震わせて、怒りを体現しているじゃないか。連動して地の底から、身のすくむ地響きが聞こえてくる。火山じゃないのに。
「ふざけるな! 貴様ら全員の命を持ってしても、我が怒りは収まらぬ!」
「そうでしょうか」
赤く光らせた目に誰もが怯え竦んでいるというのに、枸橘は表情すら変えなかった。逆に挑むように、神の目を見つめて言い返す。
「神よ、あなたの力に触れてみて分かったのですが、怒りの対象はぼくらだけにとどまっていませんよね。つまりあなたは僕らが来るより前から怒っていたはずだ。ならばぼくらがそれを全て償うのは、いささかアンフェアではないでしょうか」
「……よく口のまわる小僧だ。先にそれをねじ切ってやろうか」
気づけば皆が顔を上げて、固唾をのんで神と修行中魔法使いのやり取りを見つめていた。多くの目に見つめられて気をよくしたのか、妖狐は真実を口にした。
「左様。我の怒りは貴様らのせいばかりではない。我を祀りながらも崇拝する心を忘れたこの地の民すべてに対する怒りよ! 鎮めるには貴様らの魂だけでは到底足りぬ。この地に住まう者らを根絶やしにしてやらねば」
「な、なんだって……!」
「あ、大丈夫だよ、ミミくん。今のはね、お参りしてくれる人がいなくなったから、お供えが欲しいなって言ってるだけだから」
驚きに息を飲む俺に枸橘が丁寧な翻訳をしてくれたが、お前の声、妖狐にも丸聞こえなんだけど。ほらぁ、もう神様怒り心頭って感じに邪悪な妖気揺らめかせて街一つ消しそうなくらいになってるし、しかもお前今、俺のことなんて呼びやがった? 翔威にしか呼ばれたことないのに。
「人が来なくなったのは、土砂災害があったからなんです」
「知ったことか。現に貴様らは来ているではないか」
「そ……」
「それは引率が、アレだからです」
口を出そうとした萬里小路を遮って、枸橘は社の横で震えているロリ顔巨乳を指さした。妖狐の視線がめぐり、如月は引きつった悲鳴を上げて身をすくめる。
「危険を承知しているはずなら、生徒が何を言おうと連れてくるべきではなかった。責任はむしろ、その人にあるとぼくは思います」
「な、なんだとぉ、せ、先生はなぁ、お前たちのためを思ってだなぁ」
「うるさい、馬鹿」
「黙れ、脳筋」
「熱血きもい」
「筋肉うざい」
「ちゃんと授業しろ」
「担任、マジ変えてほしいし」
震えながらも正当性を主張しようとした如月だったが、一斉に生徒から罵倒が飛んできた。それは今まで影で言われてきた彼の悪口だった。外見からなす弱さと現在の状況が、生徒の口を開かせずにはいられなかったのだ。ダイレクトに告げられた担任は、ショックで固まったのち膝を抱えて項垂れたきり動かなくなった。妖狐は特に生気を吸い取ったりなどしていない様子で、むしろ気の毒そうに生徒を見返す。
「言い過ぎではないか……」
「だってほんとのことだし」
「そいつの命でいいなら差し出すし」
「これ、あまり年長者をいじめるでない。この者にはこの者なりの苦悩があるのだ……きっと」
「はー!? そんなん知らねーしー! じゃあ教えてくださいよ、神様なんでしょ?」
「うぐぐ……」
妖狐の怒りがすっかり削がれている。逆に、担任への怒りで我を取り戻した生徒らの気勢が増して、妖狐はたじたじしているようだ。チャンスとばかりに、枸橘が切り込む。
「神よ。ここはひとつ、お供えで許してはもらえないでしょうか」
「うむ……そうだな。我も、そこまで狭量ではないし、脳筋でも熱血でもない」
妖狐はその提案に、威厳ある仕草で頷いた。が、なんであんたが馬鹿担任が言われたこと気にしてんだよ。神様だろ。
「おい、枸橘、お供えったって、俺ら何も持ってねえぞ」
「そんなに固く考えないで、ミミくん。なんでもいいんだ」
「っつっても、狐だろ。何あげれば……あっ」
一応声を潜めて相談していた俺だったが、最後は誰もが注目するような大きさになってしまった。当然妖狐も、こちらを向く。すみません、狐って言ったのは謝ります出来心なんです。
「翔威、お前の弁当出せ」
「え、今? ……あっ、そうか」
そうして妖狐の前に献上されたのは、いなり寿司であった。食べかけだったけども。
「おお、これは我の大好物じゃ」
思った通り、妖狐は目を輝かせて喜んだ。やっぱり狐だ。他の生徒も俺たちに倣って、弁当を供える。別に他の奴らはやらなくてもいい気がしたけれど、妖狐のほくほく顔を見ると悪いことではないのかなという気がしてくる。
「こんなにも豪華な供え物は久しぶりだ」
いなり寿司を中心に並べられた弁当の数々に、妖狐は満足したように九本の尻尾をぱたぱたとさせた。神様なのに、なんだかかわいい。猫だと苛立ってる証拠だけど、イヌ科だから歓びだろう、きっと。
「神よ、我らを許していただけますか」
「うむ。許そう」
すかさず申し出た枸橘に、妖狐は寛容な態度で頷いた。その瞬間に風が巻き起こり、妖狐の姿はどこにも見出せなくなる。供えられた弁当箱も消えていた。淀んでいた空気もすっかり綺麗になり、山頂特有の清浄さに戻っている。
「なんで弁当箱ごと持ってくんだよ……」
「まあ、命を取られるよりはいいんじゃない……」
ちょっとげんなりしたようなクラスメイトの声を聞きながら、もう浮かび上がる必要のない枸橘が、先刻まで妖狐のいた地点に足を下ろした。御幣を掲げて、宣告する。
「じゃあ、みんなにかけた魔法を解きます」
ばさりばさりと語弊が大仰に鳴った。かぶさるように、ぐううという腹の虫が男女問わずそこここで鳴り響く。昼飯時はすっかり過ぎていたが、誰もそれを治めることはできなかった。