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山に登ったら女体化していた。何を言ってるか分からねえだろうが、安心しろ。俺にも分からねえ。
そもそも俺は、斑鳩実美という立派な名を持つ男子高校生だったはずだ。字のせいで「ミミちゃん」なんて呼ばれていることもあるし、女子のように細い腰なんて揶揄されることもあるがただのヒョロガリであり、背だって高一男子の平均身長はクリアしている。
というか女子の腰って別にそこまで細くないしな。触ったことはないけど。言うまでもなく童貞だ。だから今初めて、女体に触れたということになるのだが、それが自分のものだと思うと気持ち悪さしか湧かない。
あるべきところのふくらみがぺったんこになっていて、ぺったんこだった部分にふくらみができている。
「どういうことだ?」
俺は呟きながら、自分の胸にあるべきでないものを揉みしだいた。……痛いだけだった。楽しくもなんともなくて、げんなりする。おっぱいに対する幻想が早々と打ち砕かれた。童貞には童貞なりの、これに対する夢があったはずなのに。
するとこれは夢か? 否。後頭部から背中にかけて、ぶつけたような鈍痛があるから、きっと夢じゃない。おっぱい(仮)だって痛かったし。
痛いのはきっと、今尻もちをついている地面にしたたか体をぶつけたせいだろう。草葉がクッションになってくれたおかげで、致命的ダメージでないだけおそらく、マシなのだ。もうちょっとずれていたらそこにはみ出ている岩や生い茂る木々にぶつかってシャレでは済まなかっただろうし。
人の手の入っていない山中に、俺は学校指定のジャージ姿でいた。山に入る恰好ではないが、ここはそこまで重装備を要する系の山ではないから、これでも問題ないはずだ。傍には持っていたリュックサックが転がっている。変に格好つけて片方だけにかけていたからはずれたのだろう。馬鹿なことはせずきちんと背負っておけば、もっと衝撃波和らいだだろうに。
そうはいっても格好つけたいお年頃、そういう持ち方をしていたのは俺だけではなかったはずだ。だが今俺は、一人だ。周りにはクラスメイトの姿はない。気配もしない。一年一組三十六名、欠席者なしで山を登っていたのに。
俺だけはぐれた? けど、この痛みは崖的なところから落ちたとかそういうんじゃない。だいたい崖っぽいものなんて見渡す限り見えないし。緩やかな傾斜があるため上る方向と下る方向は、登山道から外れていても分かるけれど。……たぶん。下っていると思わせてさらに深い山奥へといざなわれて遭難、なんてことはないはずだ。だって小学生が遠足に訪れる山なのだ、ここは。少し前に集中豪雨で土砂崩れを引き起こしてからはその候補から外れているそうだけど。
「みんなどこに行ったんだ……?」
呟きながらまたも俺は、自分の胸を触っている。今度は力いっぱい揉み潰すことはしない。さわさわと優しく、その丸みを味わうだけだ。でもやっぱり、楽しくない。自分のものだと分かっているから余計に。
見た感じ、Bカップぐらいだろうか。いや、カップの図り方とか知らないけれど、なんとなく。
「なるほど、つまらないはずだ」
決してBカップを貧乳と馬鹿にしているわけではない。大小問わずおっぱいはおっぱいだ。だけど俺は、巨乳が好きなのだ。包まれたいし、押し潰されてみたい。それには自分以外でなくては駄目なのだ。
果たして、女体化しているのは俺だけだろうか。否。俺はこんなこと願っていない。きっと他の奴に違いない。それでも俺がこんなになっているということは、おそらく他の奴らも同じように―――。
「あいつのせいか」
俺はすぐに、これをなした人物に辿り着いた。きっと他の連中もそうだろう。あの熱血馬鹿の脳筋教師以外は気づいているはずだ。俺みたいにはぐれていたら、まず真っ先に探しに行くだろう。
だけど俺は、それをしない。とりあえず犯人とか動機とかとうでもいいのだ。
なせなら、今なら女子として女子の胸が堂々と触れる。特に好きな子とかいないけれど、女子ならなんでもいい。エロガキと呼びたければ呼ぶといい。女体化するチャンスもそれを利用できるのもきっと、今を逃せば絶対に訪れないのだ。
気合を入れて立ち上がった俺はその時初めて、自分の髪が少し伸びているのに気付いた。背も縮んでいるようだ。心なしか靴もガバガバで尻の辺りが窮屈だったが、ウエストのサイズだけは変わっていなかった。
「お前ら今日の体育は昨日言った通り、課外授業だッ! 石巻山へハイキングへ行くッ! 遅れるなよッ!」
声もでかければガタイもでかい担任兼体育教師に引き連れられて、俺たち一年一組の生徒はぞろぞろと高校から少し離れた場所にある山へと向かった。他のクラスの生徒にはこういうことはしない。普通に体育がしたいのに、団結力を高めるためだとか精神力養うためだとか理由をつけて、課外授業を敢行するのだ。当然、クラスメイト達の口から洩れるのは不満ばかりだ。
「如月マジうぜえ」
「あいつ何様? いつも上から目線でさあ、マジやっちまいてえ」
そんな一見男子のような汚い言葉づかいで担任を罵っていたのは、女子たちである。といっても声に出すのは支配力の強い御処野歩佳を中心としたギャルグループたちで、他の者は皆一様に歯ぎしりか唇を噛んでいるばかりだったが。悪い意味でヤンキーとして名高い男子、西園寺真尋も剣呑な目で如月を睨むばかりだった。山に登るのだから当然体力を使う。そのために皆、おとなしくしていたのだ。
高圧的で押し付けがましく、筋肉質で暑苦しい、無駄に熱血漢の如月教諭。クラス中に嫌われているとはつゆとも思っておらず、なぜか理由もなく自分が好かれていると思っているに違いない、そういう言動を何度か見かけた。腹立たしい勘違い野郎を恨んでいる生徒は一年一組だけにとどまらない。
その如月先生が、女体化していた。
「こらぁ、お前たちぃ、やめないかぁ」
一八〇以上あった大柄な背と肉厚の体は大幅に縮んでしまって、その威圧感は皆無に等しい。代わりにあるのは、ロリ顔の巨乳少女。三十路手前の年齢なのに、女子小学生ほどの幼さしか感じられない顔つきの教師が涙目になってそこにいた。だぼだぼのジャージが余計にその小ささを強調すると反対に、異様に膨らんだその胸をこれでもかと主張させていた。
「こいつマジ、如月かよ? でかすぎじゃね。おい、触っちまおうぜ」
「ほら、センセイ、気持ちいだろ?」
「あっ、やめ……やめなさいぃっ……!」
その如月の乳を寄ってたかって触ったり揉んだりしているのは、どこからどう見ても男としか思えない連中だった。犯罪である。痴漢である。けれど彼らの顔をよく見ると、全く知らない顔ではないことに気づかざるを得ない。否、男子としては勿論知らないがそれは。
「小野、藤原、梶、桜花?」
女子のボスとして君臨する御処野の取り巻きとして幅を利かせている女子だった。だがその背は明らかに伸びていて、髪形までもが代わってしまっている。しかもなんだかみんな、イケメン風だ。そういえば女子の時はそこそこみんな、かわいい顔だった気がする。
そのイケメン風男子たちが、報復のチャンスとばかりに如月にセクハラをして憂さを晴らしているようだ。どう見ても男の手としか思えないものに押さえつけられている如月は、されるがままで逃れることもできない。
しかし俺は助けることはない。かわいそうだとは思うけれど如月ざまあという気持ちもあり、それ以前にこっそり隠れて見ているから飛び出していくこともできないのだ。
だってあそこにいるのは男子だぞ? 今の俺は女子だ。中身こそ違うけれど既に体格差は明白で、足なんかとうに竦んでしまっている。あんなに開けっ広げに痴漢している現場に、女になってしまっている俺が出ていけるはずがない。だってまかり間違って俺が標的にされてしまったら。
「あれ、お前ってもしかして、斑鳩じゃね?」
背後から声を掛けられたときにはもう、その腕に絡め取られていた。背負ったリュックごと俺を容易く抱きすくめてきたのは、目の前の光景の中には不在だった御処野その人だった。女子の中でも長身の部類に入る彼女は今や、俺を簡単に凌駕する存在と成り果てていた。ここにいる誰よりも飛び抜けて眉目秀麗な美男子で、その顔がやたら近くにあることに俺は訳もなく心臓を高鳴らせてしまう。
って、なんでだ。相手は女子だけど男子の体なんだぞ。
「やっぱりお前も女になってんだな。もしかしてクラス全員、性別反転してんのか?」
言いながら御処野は俺の胸を揉んできた。大きくない俺の胸は大きな男の手に簡単に包まれてしまう。
「おい、何してる」
「見りゃ分かんだろ? 揉んでんだよ」
「だからなんで揉む。お前女だろ」
「分かってねえなあ。自分の揉んだって楽しくねえだろ? 女の手で他人の揉むのも悪くねえけど、やっぱ男の手で揉みたいっつうか」
すべてを心得ているらしい御処野の手で揉まれるのには、痛みを感じなかった。むしろどこか気持ちよさを覚えずにはいられないのだ。脂肪の塊をもみもみされているだけなのに、変な気分になってくる。これはよくない。非常によくない。
「おい、やめろって」
「なんで? 感じてきちゃった? お前ブラしてねえから、すげえ揉みやすいな」
当たり前だ。ブラジャーをする男子高校生がいてたまるか。というか男体化した女子たちは、ブラとかどうなってるんだろう。変化しているのは体と髪形と声だけなので、女子の着ているジャージは伸縮性があるとはいえ丈が足りていないし、窮屈そうだ。俺はちょうどリュックが邪魔になってそれがあるかどうかを感じられないのだけど。
感じているのは、繊細な胸に触れているごつい男の手がそんなに悪いものではないということ。
って馬鹿! 何考えてるんだ俺!
女の体になって心まで女体化しちまったのか?
「離せよ、このっ」
「別にいいけど? すぐ捕まえるし」
暴れるとあっさりと御処野は手を放した。その束縛から逃れた俺の耳元に、彼女はぞくりとするような低い声で甘く囁いてきた。
「女子全員じゃないけどかなりの人数が、女になった男を狙ってっからな。お前らがいつもいやらしい目で胸ばっか見てくるから、その仕返しだってよ」
「み、見てねえよ!」
震え声で言い捨てて、俺は一目散に駆け出した。すぐ捕まえるとか言っていたが、格好の餌食がそこにいるのに俺ばかりに執着したりはしないだろう。だがそれでも俺は背後への恐怖を感じずにはいられなかった。しゃにむに山の斜面を駆け抜ける。
だが走れど山道にはたどり着けなくて、ついに俺は息を切らして立ち止まった。平地じゃないから体力の消耗が早い。振り返るが、追ってきている様子はなかった。
言い訳するわけではないが、俺は決して女子の胸ばかり見ていたわけではない。確かにどちらかといえば顔より胸を見てしまうことの方が多かったが別にそれでどうこうしようというつもりはなかったし、おかずにだってした覚えはない。
だって男にない部分が出っ張ってるんだから、視線が引きつけられてしまうのは仕方ないじゃないか。
……。
しかしそれにしても、女子(男体化)が男子(女体化)を狙っているだと? 俺が一人でうろうろしている間に、いつの間に連携を取っているんだ。あいつらさては、持ってきちゃ駄目って言われてる携帯電話で連絡を取り合ってるな。
かくいう俺は置いてきた。馬鹿正直に。
だがまあ、一応市街にあるとはいえこんな山中でまともに電波が通じるとも思えないし、持っていたとして誰にどんな連絡を取ればいいのか見当もつかない。俺ここだけど、お前どこ? なんて言って麓か山頂にでもいない限り場所なんて説明できるわけもないし。
全員がばらばらにされる前は、確か中腹付近に至っていたはずだ。だから今俺がいるのもその辺りで、下る方向は見えているが、だからってこのまま帰るわけにはいかない。
これをなした犯人を捕まえて元に戻させなくては。何しろ、女子の魔の手がどこから迫ってくるか知れないのだから。これ以上俺のちっぱいを揉ませて変な気分に陥るのだけは避けたい。
俺は戦々恐々としながら、落ち葉をさくさくとかき分け進む。この音を聞きつけて誰か寄ってくるやもしれなかったが、静かに歩くことなど忍者ならぬ身であればできそうにない。
そうして俺はとうとう獰猛な肉食獣と化した女子以外のクラスメイトと出会った。再会したと言うべきか。
「お前、久瀬翔威か?」
「ん?」
黒縁メガネにストレートの長い黒髪。その髪はこれまた大きな胸に緩く乗っかっていて、絶妙なカーブを描いている。大きさでは先刻の如月の方が勝りそうだが、なかなかどうしてその形の良さといい、負けていない。まさしく俺好みの巨乳であるが残念ながらその中身は男であり、よく知る親友のものだった。
「お前、食ってる場合か!」
翔威はぺたりと腰を下ろして弁当を食べていた。いなり寿司オンリーのようでちょっとかわいそうだったが、のんきに食べていて許される時間ではない。確かにお昼時だけど。
「なんだよ。あ、お前、ミミか」
「いいから、弁当しまえって」
「ええ? なんで?」
むしろみんなとはぐれてしかも自分の体が女体化してるのに、のんびり弁当を食えてるのが不思議だった。今、どれだけ異質な空間にいるのか分からないのだろうか。しかもお前のおいなりさんはなくなっているのに。
「男になった女子どもがお前のデカパイを狙ってんだ。逃げないとやばい。俺も襲われた」
「え、マジで?」
翔威は慌てて食べかけの弁当をしまった。立ち上がると胸がゆさっと重そうに揺れる。
「とりあえず、どこへ逃げればいい?」
「そうだな。女子を避けつつ、あいつを探そう」
「あいつって、あいつか」
「他にいるか。ところで、ちょっと触らせてもらってもいいか?」
俺の目はさっきから翔威の胸に釘付けである。分かっている。男だって分かっている。でも、理想の巨乳が目の前にあるのに、果たしてスルーしてしまっていいのだろうか? 否。
女の手、そして体になってしまっているが、これを触らずにいたら男がすたるというものだ。翔威は呆れていた。
「お前なあ。そんな場合じゃないってお前が言ったんだろうが」
「頼む。一生のお願い。これ触らせてくれたら俺もう一生童貞でいいから」
「駄目だろ、それ。ていうかお前が一生童貞かどうかは僕に関係ないだろ?」
「翔威、お前にはおっぱいへのあくなき欲望はないのか?」
「ないよ。俺には売り上げの方が大事だもん」
また出た。翔威の病気だ。いや正式な病名はないけれど、こいつは守銭奴なのだ。一緒に買い食いしたりする時にケチったりとかはしないけれど、儲けたいと言う欲求が半端ない。
「分かった。金払うから」
「いらないよ。それじゃ僕、クソビッチみたいじゃないか」
翔威が嫌そうに首を振った。クソビッチだったら逆に金を請求しないと思うが。
「頼むよぉ、これ逃したら多分一生美巨乳には触れないんだぜ、俺」
「諦めんの早すぎだろ……じゃあ弁当のおかず、なんか一個くれ。それで手を打とう」
「そんなんでいいのか? お安い御用だぜ」
とはいえ、いなり寿司オンリーの弁当だと切実な問題でもあるのだろう。しかも買ってきた奴ではなく母親の手作りだと言う。曲がりなりにも高校生男子なのだから、もう少し豊富なラインナップにしてもよさそうだが。
「じゃあ、失礼して……」
そうして俺は親友の巨乳を心ゆくまで堪能した。感想は、それは素晴らしいものだったという以外にない。我が生涯に一片の悔いなしと万感の思いで言ったら、早漏過ぎるだろと罵られた。あんまりだ。