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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

七番目の彼女と暗い昼下がり

作者: 月猫百歩

 まだ幼かった頃、真夜中の学校に忍び込んで教室の廊下にある大きな鏡に三回呪文を唱えて合わせ鏡で自分の顔を見た。

 何人もの自分の顔が映るが、見えるかどうかのギリギリの自分に似た女性の顔が、心なしか目を閉じているように見えた。


「こんなところで寝ていると風邪引くよ」

 眠っている女性に声をかける男性は、そっと彼女の肩に薄着の上着をかけた。

 女性は突っ伏していたテーブルから顔を上げると、男性はいなくなっていた。

 女性は辺りを見回す。いつもの教室。窓の外は重苦しい雨空。

 ふとテーブルを見ると一枚の紙が目に入った。

 手に取りそれに目を通す。

『また失敗した。今度は上手くやらないと』

 日記のような用紙で、強引に破り取られたような紙だった。この紙は誰が書いたのだろう。それに何故学校の教室にいるのだろうか。

 女は立ち上がり、教室のドアへ向かった。どういった経緯でここにいるのかは分からないが、確か買い物に行く途中だったのに。

 机の上に投げ出された財布を手に取り履き慣れたミュールで立ち上がる。そして教室のドアの取っ手に手をかけた。

「え……?」

 目を見開いて目の前の光景に固まる。

 暗い。真っ暗な、何も見えない空間。ただ何も見えないわけではなく、ガス灯がポツンポツンと一定の間隔でずっと向こうまで続いている。

 不安に上着の袂を握り締める。それでも不思議と進まねばならないと思う気持ちに従って、足を進めたのだ。

 何本のガス灯の下を通り、歩き続ける。そこでまた、一枚の紙が落ちているのを見つけたのだ。

 近くに寄ってそれを拾い上げる。

『勉強でまたミスをしてしまった。どうしてわたしはこんなにも出来ないのだろう。いつも周りを苛立たせて迷惑をかける』

 弱々しい小さな字だった。テストか何かで失敗をしてしまったような内容からすると、先ほど拾った日記も同じことなのだろう。

 紙を手にしてまた歩き始める。ここは一体どこなのだろうか、女は不安に思いながらそれでもひたすら歩いた。

 行き着いた先には大きなプールがあった。端にはゴムボートがあり女は近づいてボートの中を覗き見た。

 そこにもまた一枚の紙があった。

『また失敗した。どうして何もかも上手く出来ないのだろう。何故失敗してしまうのだろう。わたしは何をやっても駄目なんだろう』

 紙の近くにはカミソリが無造作に落ちていて、刃はボロボロになり錆びていた。

 ゴムボートの中にあるということはこれの所有者の忘れ物か。だとしたらこの紙もきっとその持ち主の物なのだろう。

 女は不安定なゴムボートに乗りこみ、まだ何か手がかりがないかと探そうと屈んだ。するとゆるりとボートは動き出した。

 女はハッとして顔を上げるが、既に時遅く岸から随分と離れていってしまった。

 女は愕然とした。なぜなら女は泳げないからだ。水の深さは計り知れない。そう思えばすぐ目の前にある岸に飛び移るなんて彼女には出来なかった。

 不安定なボートは揺れることなく滑るように水面を進んでいく。

 女は不安に押しつぶされながらジッと舟の行くまま身を任せるしかなかった。

 やがてゴムボートはどこかへ辿り着いた。岸についてすぐさま女は飛び降りた。

 安全に降りれたことに安堵しながら、女は崩れるように岸辺に倒れこんだ。

 一体いつまで続くのだろう。絶望的な気持ちを抱き、女は披露を覚えながら立ち上がった。

 顔を上げれば一本の木が見えた。覚束無い足取りで木の元へ歩いていく。

 木には相合傘が掘られていて、肝心の名前は見えなかった。

 木の根元へ目を下げる。そこには一本のロープとまた破られた日記の一枚が落ちていた。

『ごめんなさい。ごめんなさい。役立たずでごめんなさい。生きててごめんなさい。どうしてわたしは生まれてきてしまったのだろう』

 女は顔を顰めた。なんて悲しい言葉なのだろう。この日記の持ち主はどれだけ苦しい思いをしているのか。

 ぜひ会いたい。なにか言葉をかけてやりたい。

 女は胸に哀愁を抱え、日記の持ち主に思いを馳せた。きっと悲しくて自信がなくて苦しんでいるんだろう。

 なんて声をかけて良いのかは分からないが女は持ち主に会いたいと切に願った。

 女は木を後にしてまた歩き出した。

 もう前に進むしか道はないのだとどこか確信めいたものがあったからだ。

 歩き進めると、一つの机が目に入った。

 まるでスポットライトに照らされているように闇の中に浮かび上がる学校では御馴染の木のボードで作られた勉強机。

 そこの上には、またあの日記が一枚。そして水の入ったコップとなにかの薬と思われるカプセルが入った錠剤が置かれていた。

『命は尊いというのは分かるけれど、生きたいと思える人間はきっと幸せなのだろう。だってそこに希望があるのだから。でも果たして生きているのが辛いと感じる人間の気持ちは、彼らは理解できるのだろうか』

 錠剤にコップ、木にロープ、水辺にカミソリ。

 あぁそうなんだ。漠然と女は理解した。脱力感にも似た疲労感を持って机から目を離した時だった。

 自分の背後に、誰かいる。

 女は直感的に思い振り返った。その刹那、腹に鋭い痛みが走った。

 腹に突き刺さる鈍い光。鋭い刃物。台所で見慣れていた、いつも握っていた包丁。

 顔をゆっくり上げる。黒い影が目に見える。真っ黒で人の形をした影。その影の顔には見覚えがあった。

「あなた……」

 影はあの男だった。

 眠っていた彼女に声を掛け上着をかけてくれた男だった。

「どうして?」

 呟いて間もなく意識は暗転した。


 ふっと意識が浮上して顔を上げた。

 そこはリビングだった。上着は無く、ただベランダの外は変わらず雨だった。

「……夢」

 転寝をしてしまったようでテーブルに伏していた顔を上げて目を擦る。

 今は昼の一時だ。御昼と夕飯の買い物に行かないといけない。

 女は先程の夢はなんて不気味なんだろうと溜息を吐いた。ここ最近雨天が続いているせいで頭痛が止まらないせいなのかもしれないと苦い顔で結論付ける。

 財布と鍵を持ち、傘を手に持つ。

 女は不機嫌だった。雨は好きじゃない。濡れるし頭も痛いし重くなるから。団地の湿気が漂うのを肌で感じつつエレベーターに乗り込んだ。

 ゆらゆらと僅かに横へ揺れながら階下へ降りて行くエレベーター。現在の階を示すドアの上のランプがポツポツと順々に点いていく。 

 下へ降りて行く度に自分の心も落ちて行く。なんでこんなにも気分が沈むのだろうか。

 チンと快活な音が鳴ってドアが開く。

「嘘、でしょ……」

 見えたのはいつもの古い蛍光灯が照らすエントランスではなく、ガランとしたビルの廊下だった。

「なんでよ。なんなのよ」   

 女はこみ上げてくる不安から思わずそんな言葉を吐いた。

 不意に廊下を見れば、そこにもまた紙が一枚落ちていた。女は辺りを見回しながら紙に近寄り、それを拾い上げた。

『何故生きなければならないのだろう。生きていることが素晴らしいと何故思わなければならないのだろう。何故そう思うことを義務としなければならないのだろう』

 女は字を読み上げて女は日記を握り締めた。

 これを見せてどうしろというのだろう。自分にどうして欲しいというのだろう。

 コツコツと足音を鳴らしながら廊下を進む。すると廊下の先に非常階段が見えた。

 ここから出られるかもしれない。

 女は躊躇いもなく非常階段の段差を登り始めた。

 上り階段しかなく、時折ある窓からは薄暗い夕焼けが見えた。その光景は物悲しく、けれどもどこか懐かしさを感じさせるような、不安定な景色だった。

 やがて屋上に出た。夕闇の帳が降りて暗さと明るさの境の世界は幻想的でありながらも恐怖を女に覚えさせた。

 鉄柵に近寄り下を見下ろす。夕闇に浮かぶ町並みは家々の窓から明かりが漏れ始めている。

「綺麗な景色ね」

 ぽつり呟いて少し冷えた風を感じながら町並みを見下ろした。

「嘘つき」

 声が聞こえたと同時に背中を強く押された。女が気がついた時には視界はま下に移り、アスファルトの道に真っ逆さまに落ちていた。


 ビクリと体が跳ねた。呼吸も荒く、掛け布団を跳ね除けて起き上がった。額に手を置く。汗をかいているようで湿っていた。

「……どうしたの?」

 聞こえた男の声に額に置いた手を下げる。

「起こしちゃった? ごめんね」

「ううん。大丈夫。何か悪い夢でも見たの?」

「そうみたい。さっきから何度も変な夢見てたみたいで」

 苦笑いを向けて男へ振り向くが、そこには誰もいなかった。ベッドの横には誰もいない。

 一人で眠るには大きなベッドには、やはり女ひとりしかいなかった。

 ベッドから起き上がり、ガウンを羽織ってキッチンへ向かう。暗いそこはがらんとして殺風景だった。

 蛇口をひねりコップに水を波波と注ぐとぐっと煽った。

 時計を見れば真夜中の三時。そこで女は気がついた。薬を飲み忘れていたのだ。

 リビングの薬箱から医者から処方された薬を取り出して水で飲み干す。

 薬の飲み忘れのせいか変な時間に起きて、しかも変な夢まで見てしまった。

 リビングの寝室に戻ろうと踵を返したとき、ふと棚の上に飾ってある写真が目に入った。

 そこには恋人と嬉しげに笑った自分が写っていた。

 もう戻れない過去。結局彼は女の沈んだ心を理解できず、共にいることを苦痛に感じ、彼女の元から去っていった。

 女は思った。

 自分が悪いのだと。全てにおいて不器用で、要領も悪く、周りを常に苛立たせ足を引っ張る厄介者。

 だから彼も自分の元を去ってしまったのだと。そして女は彼の背中を追いかけなかった。

 何故なら全ての原因は自分にあるのだから。


 雨音が強くなり、雷鳴が轟き始めた。

 学校も、仕事も、家族も、人間関係も、趣味も何もかも。何一つ満足に出来ない自分。

 女は夢の内容を思い出し、ベランダへと裸足で出た。

 死にたい。

 でも死にたくないのだ。

 死にたいのではなく、消えたいのだ。贅沢を言わせて貰えるのなら、生まれ変わりたいのだ。

 

 今の自分は何もない。職も愛する人も失い、これからは金も気力も失っていくのだろう。

 だとしたら生きる意味なんてないのだろう。生きていることは素晴らしいと思える人は、きっとそれだけで幸せなのだろう。

 今は午後の一時。重い雨天に暗い昼下がり。

 ベランダの手すりに両手を置けば濡れていてヒンヤリとしている。下を見ればアスファルトにいくつもの波紋が作られて光っていた。

 雨粒が止めどなく降り注ぐ。

 女は髪も体も濡れることを気にもせず、雨粒に惹かれるように頭や体を下へ下へと下げていった。

 

 数時間後、とある団地の前でひとりの女性の遺体が見つかった。

 後に飛び降り自殺だと分かったが、とてもそうとは思えないほど女の顔は穏やかでまるで眠るように死んでいたそうだ。

 その顔は昔、学校で僅かに見た目を閉じている顔をした女性の顔と良く似たいた。


 彼女はまたあの夢の中を彷徨い続けるのかは、それは彼女だけが知っている。



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