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一章 ― 3

 水差しから注がれる水がみるみるうちにコップを満たしていく。程よい冷たさが(すず)のコップを介し手に伝う。虫や埃も一つとして浮かんでいない水を飲むなど久方ぶりのことだった。エルフの村に唯一人だけの人間、赤石啓(あかいし ひらく)は喉を潤し腹にかけて涼を運ぶ清水を一気に飲み干し息をつく。


「ごちそうさまでした」


 両の手を合わせ(こうべ)を垂れるこの動作を、生を受けてからの二六年間において漫然と行っていたことを無言のまま恥じ、今一度糧となった全ての物に感謝を捧げる。少なくともそれが他の生命の奪い糧とする者が持ち合わせるべき最低限の礼節であると啓は確信している。その目の前にはたった今平らげられたばかりの平皿が四つも置かれていた。


 大樹の中に居を構える部屋の一つが夕暮れを迎えるにあたり、啓の腹の虫は一週間に渡る絶食の前にとうとう絶叫し食事の必要性を声高に訴えた。腹を押さえどうにか腹の虫を押さえ込もうと苦笑を顔面に張り付かせるこの若者に、莞爾(かんじ)として笑うアリアは部屋を辞すると程なくして「お口に合えば」と燕麦(えんばく)を用いた消化に良いオートミールを持ってきた。程よく温かく湯気を立たせる一週間ぶりの食事は一瞬で胃袋へと流し込まれた。空腹は最高のスパイスとは言ったものだが、消化に悪くない程度の燕麦の歯ごたえ、絶妙な塩気、食べやすいように細かく切られた鶏肉の味わいは、今なお青年の口腔に漂っていた。


「よく食べるのね」


 感嘆符とは無表情であっても口から出るものなのか。リウィアはまじまじと積み重なった皿を眺め、もしこの世に全てを飲み込む魔法の壷が存在するのであれば恐らく目の前に居る男の胃がそれだろうと結論付けた。だがいかに空腹であったとしても病床の人間が平らげて良い量ではない。いささか眉をしかめるリウィアに対し、アリアの表情は意中の男と恋文を交わす生娘のように喜色に富んでいる。相手が命の恩人とは言え、リウィアは妹の男を見る目に疑問を呈するべきかと半ば真剣に逡巡(しゅんじゅん)する。


「お口に合いましたか?」


「恥ずかしながら郷里の味を思い出してしまいまして」


「またお食べなりたいのでしたら何時でも仰って下さい」


 あれほど平らげておいて口に合わない訳がない。それでもあえて口にして確認する妹の姿にリウィアは呆れて口元だけをほころばせた。彼女の妹がもしこの髭の男に本気で懸想をしているのだとしたら、この村中を巻き込んだ騒動に発展するだろうことは火を見るより明らかだった。だがこの一時は口を挟むまいと、リウィアはこの気立ての良い妹と人間の男のた他愛ない会話を黙して聞くに留まった。


 その時リウィアの碧眼が斜陽の中で閃き、啓の手のある一点に注目された。そしてそれは愛すべき妹の束の間の会話を引き裂く必要があると見受けられた。


「アリア、話してるところ悪いのだけれど包帯を干してきてくれるかしら」


「はい姉さん」


 作為の懇願(こんがん)を察することなく快諾(かいだく)し器用に平皿と空になった水差しを左手で、包帯と水のはった陶器を右手に持ち、先んじてリウィアが開けていた扉から辞す間際、アリアの黄金色の髪が翻る。


「それでは赤石さん、何かありましたらどうぞ私にお申し付け下さい」


「ありがとうございます」


 エルフの文化様式なのか、礼節の動作としてはこの世界では久しく目にしていなかったお辞儀につられ啓は会釈(えしゃく)し感謝の意を述べた。その所作はエルフに対し啓が無意識に信頼感を置く遠因となっていた。


 アリアが部屋を辞すと、一室は今や啓とリウィア二人だけが共有する空間となった。他を比較して饒舌(じょうぜつ)なアリアが席を外すと、寡黙の二字を自らを以って呈すリウィアはその美貌で言葉を奪う。何を話せばよいか、今度は啓が逡巡する番だ。


 アリアの足音が聞こえなくなるまで壁際で聞き耳を立てていたリウィアは、その気配が何処かへ薄れていくのを確認してから一室を占める戸棚のノブへと手を掛け勢い良く開け放つ。やや錆びた蝶番がくぐもった悲鳴を上げ戸棚が開かれる。


「貴方の持ち物は全てこの戸棚の中に入っているわ」


「うわぁ……」


 戸棚の奥に吊るされたボロ布と化したコートを見せつけられると啓は片頬を引きつらせた。狼の爪牙が血肉を断った痕跡として幾つもの窓として明け透けとなっており、啓にとってはそれは、なんだか己の恥部を晒されているような思いがしてならなかった。


「ボロボロね。それに血(まみ)れ」


「処分しちゃって下さい」


「わかったわ。ついでに貴方の服もあつらえさせるわ」


「ありがとうございます」


 論を()たない評論には最早、苦笑と羞恥が同居した表情以外の反応はとりようがなかった。だがしげしげとコートを見遣ると、よく生きているものだと感心せざるを得ないのも事実だ。


「あと、この剣だけど鞘に収まらないのはなぜ?」


 次に戸棚の奥から引き出されたのは一振りの剣と鞘であった。刃渡りは四〇センチ、峰にかけ僅かな外反りが見受けられる片刃の剣だ。しかし刃には日本刀のように波打つ刃紋は無く、焼入れの際、油でなく水で焼き入れを行ったことにより刀身が急速に冷却され湾曲し、直剣になりそこねた曲刀とも言える。


 手渡された短刀の柄を持ち、刀身を鞘の中ごろまで入れられると木を削る感触が柄を介し伝わる。合点がいったと言う面持ちで啓は向き直る。


「色々なものを斬りましたからね。刀身が歪んだんだと思います」


「剣がそんなに曲がるものなの?」


「ええ曲がりますよ。よりよく鍛えられた名刀名剣ならこんなことはないんですが、大体の刀剣は斬ってたら徐々に曲がりますよ」


 一度刃が振るわれ斬り合いとなればもう人道や思想にかまけている暇など無い。我武者羅に目の前の敵を斬り伏せることだけに終始するのだから、鎧や骨に刃がかち合い刃毀れや刀身の歪みが生じるのは不思議なことではない。


 刀身に目を遣ると素人目にもいっそう湾曲していることがわかる。握った短刀に命を預けた手前、なまくらとは言わなかったのはせめてもの情けだが、御世辞にも業物と言って手放しに褒めたてるほどでもない。


「鍛冶屋が居るから彼に鍛え直すよう言っておくわ」


「剣も捨てて結構ですよ。拾ったものですし」


「いいえ、直させるわ」


 そう言うとリウィアは啓から短刀を受け取り、折り畳まれたコートと一緒に簡素なテーブルの上に置く。そしてそのままベッドへ腰をかけ啓の左手に触れ、たじろぐ彼に構うことなく両手で指の一本一本に白魚のような細い指を這わせる。


「貴方のその左手、中指と薬指。ずっと見てたわ、動かないんでしょ」


「そ、そんなことないですよ。ちょっと動かし辛いだけです」


 二つの碧眼が非人間的な冷たさを波立たせながら今一度閃く。さながら蛇眼に魅入られた鼠のように啓の体は硬直した。そしてその間際、体面上それをおくびにも出していないつもりであったが、反射的に左手を庇う右手を黒髪のエルフは見逃さない。


「動かしてみせて」


 啓の顔が徐々に苦虫を噛み潰した面持ちとなる。左手の中指と薬指は終ぞ動かなかった。深く突き立てられた狼の牙は腕の血と肉を貪るに飽き足らず神経までをも傷つけていたのだ。唯一の慰めは残る三本の指が満足に動くことであったが、二本の指を失うハンデキャップは、肉体の欠損が生産能力に直結する前近代の社会において大きな障害となる。


「やっぱり」


 碧眼は再び憂いを帯びたものとなり、声色もまた糾弾者のそれから心から自らの不明を恥じる声色となった。リウィアは白魚のような細指で筋張り節くれ立った啓の指を愛撫するかのように労わると滔々(とうとう)と語りだした。


「貴方が左手を犠牲に後生(ごしょう)大事に守ってくれたあの子はね、生まれつき体が弱くて村の仕事に携わることが出来ないの。料理や裁縫は出来てもエルフの本分は狩り。それが出来ないことがあの子にどんな重責を与えているか。でも優しい子だから周りの人の為に何かがしたい、だから狩りについて行くって聞かなくて。でも、連れて行ったはいいものの、途中ではぐれてしまって。……後は貴方が知る通りよ」


「そうだったんですか……」


 あの天真爛漫さの影にそのような事実があったのか、啓は息を呑む。瑠璃色の目を伏す彼女を前に、気の利いた言葉一つ掛けられない自分の語彙(ごい)の貧弱さと機転の利かなさは、いっそ体に巻き付く包帯で自死したくなるまでに、青年は己の不明を恥じた。


「今度は貴方のことを聞かせてくれるかしら」


「僕のことですか?」


 その顔色を察しリウィアは物理的な重さを生み出しかねない場の空気と、かねてからの疑問を抱き合わせる形で話を変えた。


「さっきも聞いたけど、どうして私たちの言葉が話せるの?」


 人間の言葉はエルフにとって聞き苦しい言葉として認識されている。反してエルフ語は各国の王室及び外交に携わる者の嗜みの一つとして学習するのがそれらやんごとなき身分の者共の常であった。なぜならば、かつて在りし日にエルフが築き上げた帝国はあまりにも強大であったがゆえに、その言葉が共通の言語として解釈されてきた歴史がある。また、多種族間の会話は喉頭(こうとう)や声帯の構造上、発音に難あるものの、エルフ語はあくまでも他と比較して発音のし易い言語でもあった。では目の前の男は落人(おちゅうど)か何かなのだろうか。


「実は僕にもわからないんです」


 青年は首をかしげ頬をかきながら言った。城を後に野に下る王子とエルフの出会い。ロマンスいっぱいに溢れた答えは大いに外れた。


「自分のことでしょう」


「やっぱりそう思いますよね」


 やはり苦笑いを顔に貼り付けたまま啓は申し訳なさそうに言う。その呆れた物言いにリウィアは脱力した。


「私たちの言葉は誰かに教わるでもなく覚えたと言うの?」


「そうですね。教わりも勉強もしてません。何故かはわからないのですが、僕は大概の種族と意思の疎通が出来るようでして」


「大概の種族?」


 かしげた首の慣性に従い一糸乱れぬ動きで漆黒の髪が揺れ動く。


「人間、エルフ、オーク、ハーピー、マーマン、ゴブリン、ドワーフ。このあたりとは話せますね。他の種族とは話したことが無いので分からないんですが」


「ならフェムス語は話せる?」


「フェム、なんですって?」


 啓の眉間と眉が歪む。


「フェムス王国。この森の東南にある人間の王国の名前よ」


「あぁ、そう言えばそんな国ありましたね。多分話せると思いますよ」


「その隣のベルーサ王国のカラム語はどうかしら」


「どうでしょう。話せると思いますが」


「じゃあ東隣のシュタウセンのディウム語は?」


「んー話せると思いますよ」


「ルサール王国のカマフ語はどう?」


「話せますよ。たぶん」


 口元を真一文字に結び深い嘆息がリウィアから毀れた。


「疑問文の嵐ね。実際に話す機会がないと分からないと言うことでいいのね?」


「なんで喋れるのか自分でもよくわからないんですよね」


 子犬のようにころころと笑う様はなんとも力の抜ける光景であったが、多種族の言葉の壁をすりぬける妙技が意味するところを理解していないことも表していた。


「その昔、神々は全ての種族と言葉を交わすことが出来たと言うわ」


「……どう見ても神には見えませんよね」


「そうね」


 事ここに至って両者は同意見であった。


「貴方もしかしてこの大陸のことを何にも知らないの?」


「……恥ずかしながら」


「……なんでこの大陸に居るの?」


 顔面に愛想笑いと言う花を満面に咲き乱れさせながら啓は視線を泳がせた。


 そこでリウィアは「地図を持って来る」と言うが早いか部屋を飛び出し、質のよさそうな羊皮紙で出来た地図を持ってきた。啓の膝の上に広げられた地図は大きさにして座布団一枚ほどので、羊皮紙特有の厚紙のような厚さを持っていた。図上には油絵の具だろうか、様々な色合いで国ごとの境界線が記されている。だが製図技法が揺籃(ようらん)の時期であったことから、この地図が必ずしも大陸の国土を正確に表しているものではないと心得る必要があった。


「ここが私たちの森。西隣にあるフェムス王国とベルーサ王国。北の海にはラクソリア王国が、東隣にあるのがシュタウセン大公国、パスカルク王国、サルタイ大公国、サベリア王国、ルサール大公国があるわ」


 地図上には縮尺を表す表記や棒線は見受けられず、これでは指を指されても縮尺が分からないばかりか、漠然とした位置関係しか望めない。その上、多言語の嵐の中に身を置いたような単語の暴風を前に啓の脳は飽和しかけた。だがその中の一点、サベリアと言う単語は耳にしたことは一度ではなかった。だがこのサベリアに啓は良い思い出を持ち合わせていなかった。


「貴方はどこの国の出身なの?」


 一対の碧眼が啓を臨んだ。


「この中には無いですね」


「地図上にも?」


「無いですね」


「……貴方どこから来たの?」


「ずっと東です」


「ルサールよりも?」


「ええ」


 地図上にはルサール大公国以東は載っていなかった。大陸の地理上ではルサール大公国以東にも陸地は続いているのだが、地図の製作者は主要国家を記述すればよいと考え、そこまでを記述する必要が無いと判断したのだろう。


「具体的には?」


「……僕は東の島国から旅をしてきた学徒です」


 僅かな沈黙を以って啓は嘘を紡ぎ出した、良心の呵責に喘ぐ心へ言い訳をしながら。いずれ時が経てば本当のことを、自分がこの世に存在しない"日本"と言う国から来た異邦人であることを明かしていいのかもしれない。だがそれにはリウィアと言う人物の人となりを計らねばならなかった。それまでは出自を偽らねば狂人の(そし)りは避けられないと判断したのだ。


「この大陸に来て四年ほどになるのですが、数日で身包み剥がされ奴隷商に売り飛ばされて以降の四年間はずっと奴隷生活ですよ。奴隷になった場所はたしかサベリアでしたね」


 開口一番繰り出された言葉にリウィアは絶句しながらも、その片鱗を確か目にしていた。治療の合間に目にした手首と足首に残された痣は間違いなく手枷と足枷の痕であった。


「二年ほどは娼館で働いていました。ですが他の奴隷が出引きした賊が館に押し入り主が殺されまして、次は銀鉱の労働者として一年ほど銀山での採掘作業をしました。塵や埃で肺が悪くなって死んでいく人が沢山いましたよ。でも鉱山の所有者が銀山に入ったが最後、突然起こった粉塵爆発で死にまして、最後にガレー船の漕ぎ手として一年ほどサベリア付近で航海をしてたんですけど、そこでも海賊に襲われまして……」


 啓は既に遠きものになりつつある故郷の情景に思いを馳せながら言った。


「……運が悪いのか良いのかわからない人生ね」


 そこまで言ってリウィアは己の失言に口を覆う。だが対する青年は相変わらず苦笑いするだけで気にした様子を見せなかった。


「海賊と遭遇したときに船長が奴隷たちに、海賊と戦うなら自由民にしてやると言ったので奴隷全員で海賊と戦ったんですが、結果は見えてたんですけど自由身分っていう甘い誘いに負けて、結局海賊との戦いにも負けました」


 まるで「ここが笑う場所だ」と言わんばかりに笑ってみせる啓に対し、リウィアの表情は硬い。その蒼い目には青年が見に余る無理をしているようにしか見えなったからだ。


「捕まって海賊船の船倉に閉じ込められそうになったとき、偶然現れたシーサーペントが海賊船を襲い始めて船は沈みました。ですが遠泳が得意だったのが幸いして浜までたどり着いたんです。そこで浜に打ち上がった道具を拾ってなんとか家を建てて暮らしていたんですが、時化(しけ)で食料が乏しくなったので森に入ってそれっきり迷ってしまって……」


「恐らく南の海岸に出たのね。あそこはよく難破した船の残骸が打ち着けられるから。……でも海岸からこの村までは徒歩で三週間は掛かるはずよ」


「そうなんですか?」


 大して気にも留めずに啓が言うのでリウィアは脱力した。この時啓は、かつて亡父が買い与えたロビンソン・クルーソーの小説を思い出し、挿絵のロビンソンが山羊の毛皮の服を着て伸び生やした髭男であったのを思い出し、その姿を自分に重ね合わせ笑いを禁じえなかったのだ。


「貴方の方向音痴は絶望的ね」


「でもそのおかげで彼女、アリアさんと出会ったんです。木陰の側で気を失っていたみたいで、このまま放置するのも危険だと思ってた矢先、狼の群れに遭遇して……起こそうとしたんですけど、起きる気配が無かったんでそのまま抱えて逃げ出して……あとはボロボロになりながら無様に逃げたってところです」


 そこまで言うと啓は押し黙った。


「話はわかったわ。それに貴方がこの大陸のことを知らない理由も」


「奴隷でしたからね。来る日も来る日も働かせられ貧しい食事をとり穴倉で寝る。それがこの四年間の僕の生活の全てでしたから」


 自ら奴隷であった経験を持つが故に、同じ地位に貶められているエルフに対し慈悲を見せるのか、


「なんだか久しぶりに人間として扱われた気がします」


 あるいは青年の持つ生来の気質が成せる技か、リウィアは少なくともこの青年が自分たちに害をなすような存在には見れなかった。


「僕はこれからどうなるんですか」


 震える口元が全てを語っていた。青年は再び人間の奴隷となることを恐れているのだ。僅かな時間しかこの村に身を置いておらずとも、ここでの生活が人間としての自主自立自尊を与えてくれることを青年は無自覚に理解していた。そうでなければ青年は今頃、大地の一部として朽ち果てるか、新たな手枷と足枷をはめられ鉄格子を居城としていたことだろう。


「貴方の傷が癒えるまではこの村に居てもいいことになってるわ。傷が治り次第、森から出られるよう手配してあるわ」


「そうですか」


「でもそれまではこの村に居るわけだから、傷が癒えたらその汚い身体を洗って、見苦しい髭を剃りましょう」


 やや肩を落とす啓にリウィアは慰めともとれる言葉を残し部屋を辞した。


「み、見苦しい……」


「それじゃあ、おやすみなさい」


 彼女は言うだけ言って目に留まる黒い髪を波立てながら部屋を出た。それを背に見ながら啓は己の頬を撫でくり回す。たしかにこんもりと髭が黒い綿を作っている。かれこれ二年は剃っていないのだからしょうがないのだが、面を向かって見苦しいと言われて傷つく程度に青年の心は脆かった。


 リウィアが部屋を辞し廊下を歩き出そうと言うとき、そこには、一〇人中一〇人が振り向くであろう美貌を持つエルフの若い男が行く手を遮るように立ちはだかっていた。端麗な鼻梁(びりょう)と形の良い唇、そしてそれらをいっそう引き立てる金髪と碧眼が月光に彩られ無秩序に乱反射する。だがその脇を素通りするリウィアは尋常の女性のように振り向くことはなかった。


「随分と甲斐甲斐しく世話をするものだな」


 それを許さないように、ある種の幼さを殺したような声が響く。声の主は自らの前から消えようとするリウィアの足を止めるべく、嘲笑を混ぜた言葉をあえて使った。


「私の勝手でしょ」


 啓との会話ではおくびにも出さなかった恐ろしく冷たい声がリウィアの口から放たれた。その瞳は物理的な威力を伴っていれば人を殺すことが出来るのではないだろうか。


「お前の勝手があの人間に我々の敷居を跨らせる理由になるとでも思っているのか」


「なるわ」


「お前は莫迦(ばか)か?」


 怒りと嘲笑を乳鉢で混ぜたような言葉が叩きつけられる。


「彼はアリアの命を救った。だから助ける。これ以上に理由があるの?」


 叩きつけられた言葉を拾い上げ投げ返す。


「愚問だな」


 投げ返された言葉をなぎ払い、新たな嘲笑の種を育て男は言う。


「それじゃあユリアヌス様の決めたことに口を挟むと言うことね。意外だわ。この村の律令を最も理解している貴方が村長(むらおさ)の裁定に異を唱えるなんて」


「アリアはユリアヌス様の孫。そのような立場にある者がみだらに人間と接するなど常軌を逸しているとしか思えん。だからこうして言っているんだ」


「あの子が好きでやってることでしょ」


「ならなぜお前が手助けする必要がある」


「理由を言ってどうなるの?貴方の心の中には 決まっているのでしょう。私の反論なんて聞く気もないのに」


 そう言うが早いかリウィアは歩き出す。


「待て!話はまだ終わってないぞ!」


 若いエルフの男が馬脚を露にするのは意外なほど早かった。


「だから?貴方は私を論破して考えを改めさせようとしてるだけでしょ。建設的な話が見込める相手じゃないわ」


 最早、リウィアは男の顔を見ようともしなかった。


「後悔するぞ」


 後ろ髪を引く声が月光に吸い込まれる。男の声色に潜む憂慮や懸念が己の為であることを知らず。


「別に構わないわ。受けた恩を返さないことのほうが目覚めが悪いもの」


 だがふいにリウィアの足が止まり豊かな黒髪を翻しながら振り向く。


「ねぇ、貴方、何を怖がっているの?」


「……なんだと」


 その言葉には細分化された冷笑が含まれているように感じられた。


「今の貴方、まるで鷹に怯える小鳥よ。木の葉の陰に隠れているのがお似合いなくらいに」


 男が言うより早く言葉を紡ぐ。


「彼に手を出したら次の日には貴方の首が広間に転がることになるわよ」


 リウィアはそうして歩調を速めその場を後にした。


「……恩を返す為?」


 自らの生家へ向かう道中、リウィアの能面のような表情が一変し嫌悪でいっぱいとなる。


「偽善者。反吐が出る。なにもかも私の為なのに」


 吐き捨てられた言葉を聴く者は月以外に存在しなかった。やがて彼女の姿は夜の中へと消えていった。


 全く余談であるがその夜、啓は烈々たる腹痛に見舞われる。原因は土地の水に含まれるウィルスに起因した中毒であった。以降彼が飲む水は全て煮沸消毒されることとなる。

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