一章 ― 2
清潔の二字に尽きる白を基調色とした寝具と調度品の数々。それらは同色の床と壁とで一体となり調和を齎していたが、それに相反するかの如き血塗れの包帯が純白の陶器にはられた水を赤く染める。そしてその傍ら、窓際に設けられたベッドの上で、眠りの神の愛撫を受け泥のように眠るのはあの青年であった。
静寂が帳となって覆い尽くすこの一室において青年の死人ぶりは、僅かばかりに毀れる呼吸の音と、肩口まで掛けられたシーツが膨張と収縮を繰り返す肺腑によって上下していなければ否定するに難しい。その姿はさながら死体と彼の治療者をして言わしめて憚らないのも無理からぬことだ。だが死人にも目覚めるべき時が来る。それが最後の審判であるか、黄泉帰りであるか否かだが、擬似的な死を経験した彼の場合、誤解を恐れなければ後者と言える。
東の空へと飛翔を続ける太陽の光が、あのとんと浴びる機会に恵まれなかった陽光が、まぶたの上で意気揚々と踊り狂い横たわる青年の意識を長きに渡る昏睡から覚醒へと導いたのだ。そしてようやくと言った塩梅で、煩わしそうに二、三度まぶたが痙攣すると、その瞳は実に一週間ぶりに開かれた。
「ここは……」
覚えに無い天井を目にし、まず青年を驚かせたのは耳にした己の声であった。さながら水分を失い萎んだ老人のようにしゃがれたそれが、自分の口から出た言葉なのかと驚かせたのだ。その次に驚いたのが、ここが森の深淵で繰り広げられた追走劇を振り切り最後に意識を手放したであろう大樹の洞の中でないことである。あまりにも文明からかけ離れた場所で生存自活の下、野宿を行っていただけに、この情景を前にして若者は、既に自分は狼らの胃袋でばらばらにされ死んでおり、今居る場所は天国なのではと思うに至った。
隔絶された装いを前に自問しておきながら青年は自説を否定した。なるほど、たしかにここには這い寄る虫や蛇の類も存在しない。だがここが天国ならば、この全身に伝播する痛みはなんだ、と。文明の残り香に生を感じながら自嘲する。そして自嘲を起因とするひとしきりの笑いの後、青年は泣いた。生を享受出来ることに、痛みを感じることに感謝し泣いた。頬を伝う涙は留まることを知らない。
たとえ上は首から、下は足首まで、包帯が己の全身を雁字搦めにしていようとも、血に飢えた猛獣との戦いで負った傷の治療が容易なものではなかったことを痛々しく物語っていようとも、その痛みこそ自分が現世に留まり生存しているとする理論への証しである。そして何より、既に嗅ぎなれつつある、むせ返るような土の香りと肌に纏わりつく湿気が、狼からの逃走劇を演じて見せたあの森の中にその身を置いていることを計らずとも理解させていた。
「……だが……どうしたものか……」
若者はひとしきり涙を流すと残る水分を温存すべく思考の海へと帆を張った。両目を動かし辺りを見回す事で得られた情報は、ここが山小屋か何かの中であり、おそらく奇特な人物が自分を担いでへ運んだと言うことであった。
だが痛みで首から上しか動かないのだ。ただこう言うと語弊がある。この状態を表すにあたり正確さを期するならば、青年は手足や指に至る一本一本の神経に対し運動を命じている、だが脳からの下された命令的な電気信号は、不服従を意味する信号となって痛みを伴い四肢から返信されるのみ。まるでリハビリ中だな。そう独語する若者にとってこの部屋は故郷の"病院"を思わせてならない。
その時であった。扉が唐突に、かつ青年が聞き逃してしまいそうになるほど静かに開いた。病人を労わる心配りが見受けられる所作だ。そしてそこに立つ少女を目にした瞬間、青年の脳裏に既視感が到来する。
はて誰であったか。脳裏の記憶を司る海に思考の網を投げる。身長は一七五センチある自分と比べ、胸ほどまでしかない。その顔貌は見る者にあどけなさをを感じさせるが、幼い少女が持つ特有の背徳的な魅力に目を奪われるものである。肩下まで伸びる黄金の髪とそこから生える一対の長い耳。それらを頼りに手繰り寄せる。すると網にかかったのは、青年が森で倒れていた所を助け、狼から身を挺して守った少女の姿であった。
部屋に入るエルフの少女は青年が起きていると言う事実に気づいたそぶりもない。入ってきたのと同じように静かに戸を閉め、青年の脇に立つと持ってきた水のはった桶に真新しいタオルを浸し絞る。視線を横に送り少女の白魚のような指があかぎれを起こしていることに青年はどこか罪悪感を感じた。
青年の顔を拭くために伸ばした右手の先で二人の視線が交錯する。二人の時を司る時計は針を失った。硬直する二人。方や少女は目を見開きタオルを持ったまま、方やそのまま。何時までこの無言が続くのだろうか、お互いが喋るまでこのままなのだろうか、青年が黙っていることもないと考え口を開こうとした瞬間に少女の手からタオルが自由落下し青年の顔面へと突進した。
「姉さん!」
それを合図とし、開け放された扉をそのままに少女は飛び出した。対する青年はいささか質量を伴い落下し、顔面にへばりつく水気を含んだタオルをどうにか退けるべく、首の広頚筋と顔面の表情筋を総動員し四苦八苦する。せっかく繋げた命の糸をこんなところで断ち切られていてはたまらない。
程なくして先だって駆け出したエルフの少女アリアは、黒髪のエルフ、リウィアを伴い再び部屋にへと舞い戻る。それにはいささかの時間を要したので青年は最後には舌まで使いタオルをどけることに成功していた。これで白布を被せられた遺体ような恰好を晒さずに済んだ。
「あまり人間の言葉は得意ではないのだけど……勝手に助けておきながら傲慢かしら」
横たわりこちらを見上げる人間の青年を前にリウィアは少しため息をつくと、その頭脳に収められた辞書を引き、この青年に聞くべきことを人間の言葉の文法や単語によって組み上げようとしたが、その必要は無かった。
「ここはどこですか……」
「……貴方」
「私たちの言葉が喋れるんですか?」
二人は耳を疑い互いの顔を見合った。エルフが人間の言葉を意図して『覚えない』のに対し、人間はエルフの言葉を意図して『覚えられない』のだが、この二つの間に割って立つ壁あまりにも大きい。尤も、人間がエルフの言葉を全く覚えられないと言うよりは、習得に甚だ努力を強いられる事実を指してそう言うだけである。だがそれにしても青年の話すエルフ語は全く流暢と言って差し支えない。
「それはですね……あ痛っ!?」
彼の、あるいは彼の人種の性か、相手と話す時は身を正さねばと言う礼儀の心得が青年に身を起こさせようとする。言わずとも結果は見えていたのだが。
「じっとして下さい。血止めの薬草と消毒した包帯を巻いてあるだけですから傷は縫ってないんです」
思わず駆け寄るアリアが心配そうな口調で青年の背を撫で労わる。その優しさが慈雨となって青年の体に染み渡っていることだろう。
「狼に噛まれたら傷口が化膿するから縫わずに薬草を巻きつけるだけしか出来ないの。だからあまり動くと傷口が開くわ」
他方、事実を淡々と告げるリウィアは青年の肩からずり落ちたシーツを掛け直し寝かしつける。その時青年が天井を見上げ目頭を熱くしているのに気がつき思わず尋ねた。
「どうかしたの?」
「消……毒……」
鼻を啜りながら青年はなお言った。それでもなお散文的で意を伴わない。さらにリウィアは尋ねた。
「消毒がなにか?」
もしかしたら人間のしきたりで消毒を禁忌としていたのか、そんな予測が脳裏によぎるがその予測は大きく裏切られた。彼の涙は感涙だった。
「消毒……嗚呼、なんて文化的な言葉なんだ……」
消毒がそんなに珍しいことなのかと二人は心の中でつぶやいた。そう珍しいのだ。少なくとも人間が住む領域では消毒と言う概念は希薄だ。塩や酒は長期の保存が出来ると言うことが漠然と理解されているだけで、エルフのように石灰や高濃度のアルコールが病原菌を死滅させることを知らない。尤もエルフも病原菌やらウィルスの存在を理解している訳ではない。こちらも漠然とそのほうが良いと言う言い伝えを実証しているだけである。だがこれは大きい。
今日の人間は老廃物たる垢こそが体を病魔から守る鎧と考え、沐浴はおろか風呂に入ることも無い。木綿や麻の肌着が垢と汗とで癒着していることなどザラなのだ。反するエルフは沐浴を頻繁に行う綺麗好きな種族である。日に五回は沐浴を行う者も居る。人間の衛生に関する考えは、たとえそれが大陸を覆う寒冷的な気候を遠因としていても、人間とエルフの衛生観念を隔絶されたものとしている。よってエルフと同等の衛生観念を持った青年が、消毒一つで涙を流すことに二人が再び顔を合わせ首をかしげるのも無理は無い。
「そう言えば君はたしか……」
目じりを伝う涙もそこそに、思い出したかのように青年は言う。
「はい。貴方様にこの命を助けて頂いた者です。どうぞアリアとお呼び下さい」
朗らかに笑う少女の笑みと、男心をくすぐるような言葉を臆面なく、それも鈴を転がすような澄んだ声で言うものだから、青年は赤面を隠すのに苦慮した。尤もその役目は彼の髭が買って出てくれたのだが、それもそろそろ剃らねばなるまい。
「私はリウィア。この子の……言うなれば姉かしら」
物悲しげで憂いを帯びた表情をそのままに、瞳を逸らしながらリウィアは言う。アリアのそれと比べ溌剌としたものは感じられないものの、腰まで伸びる黒い長髪と白塗りの肌がいっそう調和し、一七〇センチに届く恵まれたプロポーションと相まってミステリアスな雰囲気を醸成する。その胸はやはり豊満だ。そんな自称姉に対しアリアはとたんに不機嫌さを露にした。誓ってそれは姉の豊満な胸に対するものではない。
「……言うなればなんて言葉はいりません」
「そう……なら言い直すわ。この子の姉よ。……全く妹が多くて大変だわ」
その言葉と態度はアリアと言う少女が奥ゆかしくとも強い意志を持っていることを意識させる。青年はその様子に笑みを隠せなかった。兄弟を明確に分け序列を設け、年長者に対し礼を示す社会はエルフ以外の種族には見受けられない特色だ。血縁を重視し家族愛を尊ぶ儒教的とも言える思想は青年の故郷のそれに似ており、好感を生んだ。その視線を感じたリウィアは話を逸らすためか言う。
「貴方は今、私たちエルフの村に居るわ」
「エルフの村……」
奴隷商が聞けば涎を垂らし発狂しそうな言葉だ。競売場には奴隷商と言う言葉が服を着て歩いているような輩がひしめいている。去る苦い思い出を脳裏に浮かべながら青年は言った。
「聞いたことがあります。深き森のさらに深淵に座し、巨大な生き物を狩ることで暮らし、訪れる者には矢を射かけ寄せ付けず、人目を憚り住む種族が居ると。そしてそこに住む者は老若男女を問わず美しいと」
青年はある経験から人間に捕まったエルフの末路が往々にして悲惨なものであることを知っている。人間を含めた多種族間での交配では子供が生まれないことを引き合いにしても、一度奴隷となったエルフが強いられる苦境は想像するに余りある。それだけにエルフの村は外界から隔絶されているのだが、それだけに疑問は枚挙に欠かない。
「どうして僕はここに?」
青年の言葉の語尾に僅かな恐れを感じたのか、おどけた風にリウィアは言う。
「森で倒れていたこの子を連れ帰るついでに一緒に連れて帰って治療したの。恩着せがましかったかしら」
「いやいやいやいや!とんでもないです!」
それを間に受け起き上がろうと四苦八苦する姿を見てリウィアはやはりこの人間の男が奴隷商で無いことを確信する。よしんば彼が奴隷商であったとしても、開業から一日で廃業と相成るだろうことは想像に容易い。なぜならば、
「ありがとうございます。こうして生きながらえることが出来たのは貴女のお陰です。本当に感謝の念に堪えません」
本来起き上がることも出来ない傷にもかかわらず、深々と頭を下げ感謝を示す奴隷商など聞いたことがないからだ。
「……いいのよ別に。私の為だもの」
そんな様子と言葉に気恥ずかしさとバツの悪さ、そして罪悪感を感じリウィアは小さくこぼす。
「それはどう言う……」
いわくありげな幕引きを急いだので青年が追撃すると、それを振り切るためにリウィアはとんでも無いことを言い出した。
「ちょうど人間を材料にした楽器を作ろうと思ってたの。リュートなんてどうかしら」
「に、人間リュートですか……」
「そうよ。貴方の足の腱を弦にして作るの。それを使って曲を作るのよ。きっと破滅的で猟奇的な歌になるわ」
冗談であって欲しいが、青年の足首をしっかり掴みながらそんなことを言ってのけるあたり本気なのかもしれない。青年は尿瓶の必要性を可及的速やかに訴えるべきかと感じた。
「……性質の悪い冗談がお好きなのは姉さんの悪い癖ですね」
「そうかしら。笑いを提供できればと思ってのことよ」
立腹していても可愛らしくと言う形容詞がついてしまうアリアの膨れ面を尻目に飄々とするリウィア。彼女に掴まれていた青年の足から感覚は無くなっていた。
「すみません。この通り姉は冗談が過ぎることがありまして……」
命の恩人の手前とあって苦笑いと愛想笑いの合いの子のようなひきつった笑いを見せるほか無い。
そんな問答を何度か繰り返すうちに太陽は位置を変え日差しは強くなっていく。
「まぶしかったですか?」
日差しが青年の顔を差し始めたことにつぶさに気がつきアリアはカーテンを閉めようとする
「いいえ大丈夫です。それにしても、ここはよく日が入りますね」
それを制止して横たわる青年は尋ねた。
「大樹の葉が少ないので光が入るんです」
その言葉に青年は感嘆符を浮かべた。この森の中にそんな場所があるのだろうかと言った面持ちである。
「僕はこの森に迷い込んで三ヶ月になるんですが、小川や沼地を除いて日の光はあまり浴びてこなかったもので」
彼の肌は元来白かったのに加え、明らかな日光不足で驚くほど白くなっている。
「外を見てみたい?」
その言葉で青年の表情は一瞬で喜色に染まった。
「ええ!とても!」
リウィアに背を支えて貰いながら青年がガラス戸の先に見た景色は、幻想、神秘、霊妙、人知を超えたものに遭遇したとき、人間が形容するであろう全ての言葉を内包するかのような空間だった。
そこには巨樹の回廊とも言うべき光景が広がっていた。大樹の大きさは人を圧倒するものがあるが、それにもまして巨樹は大きい。大きさにすれば一〇〇メートルはあるように見受けられる。その巨樹が等間隔に並木のように道を作り、吹き抜けの空間に太陽の光が通り道として駆け抜けているのだ。それによく見ればその巨大な樹木には幾つもの窓があり、淡い光を発している。その中に無数のエルフが生活しているのであろうこの巨樹こそが、僅かに漂う文明の残り香に導かれるままに迷い込む者へ、そこが謎に包まれしエルフの住処であると知らしめる標でもあった。
青年は沸きあがる学徒としての気持ちを抑えられなくなった。この回廊を子供心のまま一身に走り抜けたい。そこで暮らすエルフたちの姿を見てみたい。そんな探究心は何時しか顔にへと現れていた。
「お体が良くなったら歩いてみますか?」
「いいんですか?」
「はい!」
アリアの屈託の無い無邪気な笑みが再び青年を赤面させる。半ば反射的に目を逸らした先で今度はリウィアの視線と交錯する。瑠璃色の瞳がまっすぐ注がれる。
「そう言えば貴方の名前を聞いてなかったわ」
きょとんとした顔とはまさにこのことだろう。そう言えばたしかに初対面では名乗っていなかった。甚だ失礼だなと思いつつも、なにぶん彼自身、他人に名前を聞かれるのは久方ぶりのことであった。この"四年間"彼を意味する名前は「番号」であったり「おい」だの「お前」だのと三人称めいたもののみであり、人間を人間たらしめる名前を久しく名乗っていなかったのだ。
「赤石です」
よもや己の名前を忘れていまいか。確認するかのような口ぶりで、奪われて久しい名前を強く言う。
「赤石啓と言います」
この時、この瞬間においてはまだ誰一人として、己の行為が後に語られる歴史の一部となろうとは考えも及ばなかった。赤石啓、彼がエルフの王となろうとは。